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第7話

 次の日は、いつもより早めに家を出た。  藤堂君と会わないようにという事ではなかったが、顔を合わせ辛いのは確かだった。  カバンの中には退職願。  もう1人、顔を合わせ辛い人物がいる。  足取りは重く、頭も重く、なのに誰よりも早く、僕は医院に到着した。 「おっ早いな」  ドアの前で待つ僕に、後ろから声が掛かる。振り向くと、チャリチャリと鍵を揺らしながら、先輩が歩いて来ていた。 「あ……」  挨拶の言葉も出せず、鍵を開ける先輩を見つめる。 「一昨日は悪かったなぁ。用事があったのに、無理矢理付き合わせちまって」 「え?」 「置手紙。俺、酔い潰れちまってただろ?」  情けない処見せちまったなー、などと呟く彼に、力が抜ける。  ――憶えてないのか?  倒れそうになりながらも、安堵の溜め息が洩れた。 「いえ僕も、つい忘れていたので。ありがとうございました」  思わず、笑みが零れてしまう。 「そういや先輩、酒弱いんでしたね。学生時代から」  揶揄うように言うと、「このヤロウ」と頭を羽交い絞めにされた。  大学生の頃からこの人は変わらない。いつまでも学生気分を忘れない反面、治療にはスタッフ全員が惚れ込んでしまう程、徹底したこだわりを見せる時もあった。 「奥さん、戻られましたか?」 「ああ。愛妻は戻って来た。……でも、今度は愛車がいなくなった」 「は?」 「車検」 「ああ。車持つと、そういう苦労もありますよね」 「そうなのよ。まあ、ペーパードライバーの誰かさんには、無縁の話だろうけどな」 「なんですか、それ。さっきの仕返し?」 「――と、言う訳で。帰りは一緒に駅まで行こうな。今日は智恵子が待ってるから、飯は奢ってやれないけどさ」 「いいですよ。どんだけタカると思ってるんですか」  ハハハッと笑って、彼は思いっきり伸びをしてみせた。 「また1週間、頑張るかーッ」 「ほんと俺達。よく働くよなー」  夜の道を駅へと向かいながら、先輩は溜め息をつくように言葉を吐き出した。 「何人ぐらい診たっけ? 2人で80人ぐらい?」 「今日はもう少し多かったんじゃないですか?」 「あの忙しさだもんなー」  もう夜の10時半を回っている。もっと長く働いている人もいるだろうが、僕には今でも充分長かった。 「患者さんも、文句も言わずによく待ってくれてますよね」 「一応、予約制なのにな」 「ですね」  2人で苦笑を浮かべ、明日もまた続くのかと少々ウンザリした。 「ま、お前みたいな頼れる後輩を持って、俺はまだラッキーだな」  そう言って、僕の肩を抱き寄せる。これは学生時代からの、彼の癖だった。 「頼れるかどうかは別として、1人では大変ですよね」 「考えただけで恐ろしいな」  ハハハと笑い合っていると、何かを目の端が捉えた。それは物凄い勢いで、こちらへと近付いて来る。  物騒な気配に視線を向けると、その先には藤堂君の姿があった。  怒った顔で、その目は僕ではなく、真っ直ぐと先輩を見つめている。 「この野郎ッ!」  いきなり両手で、先輩の胸倉に掴み掛かった。 「えっ。ちょっと、藤堂君」  聞く耳を持たず、腕に触れた手も、勢いよく払われてしまう。 「お前ッ! 奥さんいんのに、まだ久坂先生に手ェ出してんのかッ!」 「ゲッ!」  ――なんて事を!  目を見開いて藤堂君を見つめる先輩もそうだろうが、僕も軽くパニックに陥った。 「子供だって、もうすぐ産まれんじゃねぇのかよッ!」  そんな僕の動揺も知らず、藤堂君は掴んだ胸倉をガクガクと揺らし続けている。 「なんとか言ってみろよッ」  威勢のいい、藤堂君の声。  それに対し、今まで為すがままでいた先輩が、「じゃ、遠慮なく」と静かに口を開いた。 「――なんの話?」 「はぁッ?」  しばらく固まった2人が、ゆっくりとこちらを振り向く。2人それぞれの理由で、僕に説明を求めていた。 「いやー。これは、その……」  取りあえず、緩んだ藤堂君の腕を掴んで、先輩から離れる。 「すみません、先輩。失礼します」  どういう事? と何度も先輩を振り返る藤堂君を引っ張って、道路の隅へと寄った。 「あのね、藤堂君」 「キスマーク付けたのって、あいつじゃないの?」  慌てて彼の口を塞ぐ。駅の改札を抜けて行く先輩を目で追いながら、声を潜めた。 「彼はね、憶えてないんだ」  仕方なく、先輩が酔っている間に行為に及んだ事。彼はまったく憶えてなくて、浮気をしたとは夢にも思っていない事を説明した。 「――ズルいな。そんな事有り得る?」  腕を組んでそっぽを向いた藤堂君の唇の端に、絆創膏が貼られている。  そんな事にさえ、今頃気付く始末だった。  さっき叫んだ所為だろう。また血が滲んで、ガーゼの部分を薄く染めていた。  痛々しくて、そっと親指で撫でる。すると、驚いたように僕を見上げてきた。 「そうだけど。でも、僕はそれで職を失わずに済んだから」 「……え?」 「だって、いられないじゃない。奥さんもいて、子供だってもうすぐ産まれてくる人に、手ェ出しちゃったんだから」  手を離し「いられないよ」と、自分にも言い聞かすように繰り返す。  しばらく無言で僕を見つめていた彼は、「バレなきゃいいんだな」と、強い口調で言った。 「バッカヤローッ」  叫びながら踵を返し、走って行く。 「ちょっ……」  呆然とそれを見送って、彼が改札を抜けてからようやく、遅蒔きで僕は足を動かし始めた。  慌てて改札を過ぎて階段を駆け上がる。息切れしながら、藤堂君を捜した。  僕が立っているプラットホームにその姿はなかったが、線路を挟んだ反対側――並んだベンチの向こう側に、彼はいた。  先輩の前に立ち、頭を下げている。  先輩が責めてる訳ではないだろうに、何度もそれを繰り返した。 「やめてよ」  君が悪い訳じゃないのに。  悪いのは僕なのに。  なんでそんな事するんだよ。  もうやめてくれときつく目を瞑って、彼から顔を逸らせる。  ――見てられないよ。

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