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第13話

 気怠い体のまま6階でエレベーターを降り、コの字型の廊下へと足を踏み出した。  ふと、3階のベンチが目に留まる。  このマンションは、三階部分が吹き抜けのような広場になっている。  淡く光る街灯の下。樹の前のベンチに、その人影は座っていた。  ――どうして、見つけてしまうんだろう。  絶望にも似た暗い気持ちで、視線を逸らす。足音に気を配る余裕もなかったが、何かを読んでいるらしいその影は、顔を上げる事はな かった。  そのまま自宅に辿り着く。鍵を開ける手は震えて、中々入らない。やっと鍵を差し込んで、ドアを開けようとノブを下ろした。 「……クシュ……」  小さなクシャミが聞こえたのは、その時。  風に乗って聞こえたその声に、目の前がグラリと揺れた気がした。 「くそっ」  ノブから手を離し、踵を返す。  ――どうして、こんな事してしまうんだろう。  3階へと続く階段を下りながら、考える。  今は一番、会いたくない相手の筈だ……。  そう思いながらも足は急いで、もつれるようにしながら、彼の元へと向かう。  会いたくないのに、会いたい相手。  必死に辿り着いた『場所』なのに、相手は俯いたまま、ひたすら本を読んでいた。 「――何、してるの」  一向に顔を上げない彼を見下ろし、低く声を吐き出した。  驚いたように見上げた顔が、安心したように微笑まれる。 「先生。おかえり」 「何、してるの」  無邪気に笑う彼から目を逸らし、同じ質問を繰り返した。 「またあいつが来てんだ。だから、退散中」  見ると、左の頬が赤くなっている。 「どうしたの?」  驚いて訊くと、「殴られた」と微笑む。その頬へと伸ばしかけた手を、自分には触れる資格はないと握り締めた。 「お母さんは、何も言わないの?」 「母さんは知らないんだ。俺も友達と喧嘩したとしか言わないし」  胸が痛い。僕が先輩との快楽に溺れている時に、彼は父親でもない男に殴られていたのだ。  唯一自分を守ってくれる筈の母親にすら、彼は助けを求めない。 「君は強いね」  藤堂君を救ってあげる事が出来るのは、一体誰なんだろうと思う。 「ううん。昔はさ、家出ようかとマジで考えた事もあったけど、今度は母さんが殴られるような気がしてさ。あいつは嫌な奴だけど、母さんには、今まで手を上げた事ないんだ」 「でも……」  一番楽しい筈の学生時代に、他の子が恋愛や受験で悩んでいる時に、彼はそんなものよりもっと大変なものと戦っているのだ。 「それに。俺大学行きたいし、結局はその金もあのハゲからの金になるんだよな」  悔しいけど、と呟いた彼が手に持っているのは化学の教科書で、ベンチにはノートと問題集が置かれていた。 「勉強、してたんだ」 「そう。学年末、色々ヤバくて」  ウンザリというように、肩を竦めてみせる。 「……ごめんね。メールに返信出来なくて」  ――何も、してあげられなくて……。 「ああ、全然。忙しかったんでしょ?」  問いかけてくる瞳を直視出来ず、顔を逸らせた。 「うちにおいで。まだここよりは暖かい」 「うん、ありがと」  急いで教科書をまとめる彼の手が震えている。 「どのくらいここでしてたの?」 「んー? 1時間ぐらい?」 「寒かったろうに。ファミレスにでも行ったらいいんじゃない?」 「……俺、何回か補導されてんだよなぁ。それにこのほっぺ、怪しくない?」 「かもね」  曖昧に頷く。真っ直ぐに見上げてくる彼の笑顔が、痛かった。  階段を上がり、自宅に入るまで無言で歩いた。何を話していいのか、判らなかった。  照明を点けて靴を脱ぐと、彼もそれに続いた。もうすっかり慣れた様子で、自分のと僕の靴を揃える。  その後の、靴を撫でるような仕草も、いつもの事だ。 「すぐガス点けるから。手と口」 「はーい」  まるで僕の子供のように、無邪気な返事が返ってくる。  口うるさい父親にでもなった気がして、思わず苦笑が洩れた。 「やっと笑ったね、先生」  僕を指差し微笑んだ藤堂君が、廊下へと消える。  思わず目を瞠る。そして、すぐに閉じた。  過去の話までしてくれた彼を裏切っておいて、さっきまではあれ程にも先輩を求めておいて、この期に及んでまだ、心は藤堂君を追いかけようとしていた。  自嘲に少し笑って、ガラステーブルへと歩いて行く。そうして彼が置いていった教科書を、手に取った。  さっきまで彼が持っていたと思うだけで、こんな物にまで愛しさが込み上げてくる。  彼がしていたように、手で教科書を撫でて埃を払う。 「大学、合格してね」  そして、君は他の誰よりも幸せになって。  それはまるで、僕の想いを擦り込んでいるかのようだった。 「あれ、ごめん。汚れてた? ベンチに砂、付いてたかも」  ドキリとして振り返る。  リビングの入り口に立った藤堂君が、ズボンの尻の部分を確認している。 「ううん。……なんか、懐かしくて」  教科書とノートを揃えて、テーブルに戻す。 「先生は化学とか、結構出来た方?」  僕の真横に立って、藤堂君が見上げてきた。 「出来たと言う程でもなかったな。暗記の世界だから」  なるべく自然に、藤堂君から離れる。  コーヒーでも淹れようと、台所へ向かった。豆に手を伸ばそうとして、躊躇ってしまう。  無意識に、先輩との事を思い出していた。  伸ばした手は、誰が見ても判る程、小刻みに震えていた。

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