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第17話

 それでも体は先輩を求める。心のどこかで、喜びに震えている自分がいる。 「宙」  そう耳元で囁かれれば、体は簡単に熱を持った。  ハリボテのようなこの『偽りの幸せ』から、抜け出せないでいる。  僕のモノにはならない相手に、いつまでも縋り続けていた。  だから少し、僕は投げやりになっていたのかもしれない。  彼にも共犯者だと、釘を刺したかったのかもしれない。 「先輩、奥さんお元気ですか?」  拒絶する事もせず、ソファに横になっておいて。今、この場面で相手が1番嫌がるだろう台詞を吐いた。 「何言ってんの。お前」  怒った顔で、冷たく僕を見下ろしてくる。  それを当然だと思いながらも、ああ、彼の心はやはり奥さんのモノだ、と今更ながらに思い知らされていた。 「――僕。今、好きな人がいるんです」  まるで、それに張り合うように告白する。  驚く先輩を見つめ返し、肩を押し上げた。  それはこの前と同じ、全然力の籠らないものだったのに、彼の体はすんなりと離れてしまう。 「知ってるよ」  ソファに腰掛け、ガリガリと頭を掻く。  拗ねたように僕から顔を逸らせながら、小さく呟いた。 「あの子だろ?」  答えられなかった。  声を出してしまえば、「あなたの事も好きでした」と言ってしまいそうで……。  だってその気持ちは、今でもまだ残っているから。  体の繋がりで、それを嫌という程、思い知らされていたから。 「すみません」  体を起こし、隣に座りながら頭を下げた。 「馬鹿。謝んなよ」  苦く笑いを零し、コツンと頭を叩かれる。 「俺が、フラれたみたいだろ」 「……そう、ですね…」  呟くように答えながら、やっぱり彼も雅臣に似てるんだ、などと思ってしまう。頭を叩いてくる先輩に、雅臣を見た気がしていた。  いつまでも、あいつを引き摺っている。  結局はみんな、雅臣に繋がっている。 『あんた。結局誰でもいいのかよ』  藤堂君の言葉が蘇り、泣きたくなった。  ――そうかもしれない。  求めても自分のモノにならない相手に、執着なんて出来ない。  裏切りだと思ってしまった、あんな『思い』なんて2度としたくない。  もう本当に、2度とご免だから。 「でもしかし、ヤバいな」  気まずい雰囲気の中。顎に手をあてた先輩が、生真面目な声を出した。 「なんですか?」  興味もなく訊き返す。すると彼は、ドキリとする程、魅惑的に微笑んでみせた。 「これから智恵子とする時、きっとお前を思い出しちまう」  ――その言葉はまるで。この場を和ます呪文のように、やさしく響いた。  笑うべき、だったのかもしれない。  でも僕にとってそれは『死の宣告』以外の何物でもなくて。 『お前を、過去の人間にする』  そう、断言されたも同然だった。 「なんで……」  目を剥いて、彼を見つめる。  なんでみんな、雅臣と同じ事を言うんだ?  固まっている僕の顔を覗き込んで、先輩はつまらなそうに顔を顰めた。 「なんだよ。何か言う事ないのかよ?」 「――昔」 「は?」 「昔。同じように言われた事がありますよ。フラれた相手から」  怪訝そうな顔をしたまま、先輩が僕を見つめる。その視線に堪えられなくて、視線を落とした。  しばらくは沈黙に付き合ってくれていたが、溜め息混じりの言葉が吐き出された。 「……それで? お前はなんて答えたんだよ?」 「何も。電車の中でしたし。あいつは、降りて行ったんで……」 「は? バッカだなー」  心底呆れた、とその口調が言っている。 「なんですか」  ボソリと呟くと、首を傾げて僕を見た。 「追いかけりゃ良かったんだよ。相手はお前に、未練タラタラだったのに」 「えっ」  ――雅臣、が?  驚きに、顔を向ける。あまりに驚いた僕の顔が面白かったのか、先輩がクスクスと笑いだした。 「何。気付かなかったの?」 「――なんで。そんな事が判るんですか」  拗ねた口調で訊き返すと、先輩は笑いを止め、グシャグシャと僕の頭を掻き乱した。 「嫌・な・ヤ・ツ・だ・な~、お前は~。同じ台詞を吐いたヤツに言うかァ? 普通」 「あ、すみません」  反射的に誤ってしまってから、その言葉の意味に気が付いた。 「……すみません」  もう1度謝る。「ほんとバカ」と最後にパシリと頭を叩かれた。  無言で立ち上がり、ドアへと向かう先輩に声をかける。 「次言われる事があったら、ちゃんと追いかけますから」  驚いて振り返り、彼は意味を悟ってニヤリと笑った。 「ああ、是非とも『次から』にしてくれ」  先輩の出て行った部屋は寒くて、着替えをする指先を震わせる。 「寒いな」  ポツリと呟いて、更に寒さが増した。  鞄にまだ健在の『退職願』を確認し、院長室へと向かう。小さくノックして、ドアを開けた。  彼はデスクで、保険治療の請求をする為の書類、『レセプト』をチェックしている処だった。 「毎月の事ながら、凄い量でウンザリするよ」  チラリと視線だけを上げて僕を見て、肩を竦めてみせる。 「あの、先輩」  鞄に手を突っ込んだ僕に、視線をレセプト用紙へと戻した。 「また明後日。遅刻するなよ」  フリフリと手を振る。それは数週間前までの彼の姿で。  関係を持った『男』ではなく、職場の上司である『院長』に戻っていた。  切れない縁に――まだ繋がっていようとしてくれる縁に、涙が出る程感謝した。 「はい。失礼します」  泣き笑いの表情を浮かべているだろう顔を深々と下げて、院長室のドアを閉めた。

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