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Prologue:恋の記憶

 柔らかな日差しのようなあの日々が、恋だったのかなんて今はもう分からない。  僕はただ、彼女の言葉に流されてあの日々を送っていたのかもしれない。けれど――たったひとつ確かな事、それは、あの日々に僕は幸せを感じていた。  始まった時から終わりが見えていた、あの日々に。          (ある小説家のデビュー作より)    その本は、新人小説家のデビュー作としては記録的な売り上げを出した作品だった。俺はページをぱらりと捲りながら、その物語を進めていく。作者が作った色鮮やかな文字の世界は、かつて俺が送った日々に少しだけ似ていて。彼は何を考えていたんだろうと、胸を締め付けられる。きっともう会うことも無い男の事を考えて、深く息を吐き出した俺は手首に巻かれた腕時計へと視線を落とす。腕時計をする習慣がなかった頃に手にしたそれは、今や左手首に馴染んでいて。時折少しだけ狂うことがあっても確かに時間を刻むそれは、学生が買うには少しだけ値の張るものだった。自動巻きのアイアンアニーはシンプルなデザインで。「飛行機のコックピットをモチーフにしてるんだと」と一言ぶっきら棒に告げて渡して寄越してきた事も覚えている。革のベルトが馴染んだ頃に別れた彼は、あの日々をどう思っているのだろう。この小説の主人公のように、せめて幸せであって欲しかった。  他の出版社からデビューしその作品で映画化を果たした小説家の新作は、俺が勤める出版社で請け負う事になっていた。うちで作品を出す条件は、彼の本名並びにその他個人情報を社内で共有しない事。担当になった俺にすらその情報は開示されず、俺は作家のペンネームであるらしい直海(ナオウミ)(スナオ)という三文字でしか相手の事を知らない。地方に住んでいるらしいその作家とのやり取りは、メールのみで。男女の別すら俺は知ることが出来ずにいた。仕事のやり取りの中で直海先生がこちらに来ると零したのを前のめりに拾い上げた俺は、彼もしくは彼女との面会の場を作り上げていた。顔も知らない相手と喫茶店での待ち合わせ。直海先生は携帯電話の番号をメールに記し、店に着いたら連絡するようにと俺に指示を与えた。それ以外で連絡する事はしないように、と念を押しながら。俺は既に電話番号を教えていたし、約束の日取りと場所も決めていた。一体直海淳とはどんな人物なのだろう、という好奇心を疼かせながらも俺の頭の中では、かつて恋し――未だ時折俺の胸を締め付けるひとりの男の事が過ぎり続けていた。  きっと、直海淳が書いた小説が、俺が恋した温かく――けれど最初から終わりが決まっていたのだろう恋に、よく似ていたからだ。 「さて、そろそろ行くか」  俺は手にしていた文庫本を鞄に仕舞い、早い時間に会社を出たせいで余った時間を潰す為に居座っていた喫茶店の椅子から腰を上げた。約束の喫茶店へと向かう為に。

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