32 / 32

Epilogue:未来の在処

 店員に通されたその席は、春の日差しが暖かく降り注ぐ窓際の席だった。テーブルの上にガラス製の灰皿が置かれている事をいいことに、俺は未だに使い続けているジッポーで咥えたタバコに火をつけた。火を灯した瞬間に、バニラが一瞬強く香る。水を持ってやってきた店員に、ここ数年意図的に避けてきたコーヒーを頼む。――あいつの家で、よく飲んでいたのがコーヒーで。その香りは否応にも彼を思い出させるのだ。ガラスの向こうは未だ排気ガスに汚れた雪が残る地元とは異なり春の陽気に包まれていた。 「――何で押し負けちまったかなぁ」  相手はきっとこれから会う相手が俺である事を知らないけれど、俺はこれから俺の前にやってくる筈の男が誰であるのかを知っていた。こんなのはフェアではないと思ってはいたが、メールで俺の正体を告げる事が出来ずにいた。何かに突き動かされるように書いた小説の形をした恋文は、俺の人生の形を少しだけ変えてくれていた。『未来をさがして』と題を付けたそれは取れるなんて思っていなかった賞を取り、呆然としている間に本屋に並べられた挙句にヒットして。何故か映画にもなってしまった。そうなれば、小説家としての直海(ナオウミ)(スナオ)という適当に付けた名は世間に広まり――俺の、直海淳の元に文章を書くという仕事が舞い込んでくるようになった。そういった中で見知った社名を見かけたのは一年程前の事で。それは、もう出逢う事もないだろうと思っていた男が内定を受けた筈の会社だった。その依頼を断らなかったのは、仕事であるという意識が半分、もしかしたらまた逢えるかもしれないという期待が半分。それでも素直になんてなれない俺は、こちらの個人情報を一切社員に伝えない事を条件に依頼を請けた。 『今回担当させて頂きます碓氷です』  顔も合わせる事もなく、メールでのやり取りのみ。その条件を呑んだ出版社が俺の担当に選んだのは、彼であった。意図的に業務内容以外の事を排除した俺のメールに、彼はビジネスメールの体裁を崩さずに対応していた。それでも、短い私信のような文章を少しだけ添えてくる。作家と距離を縮める為のテクニックなのか、それともそれは彼がこちらに興味があると言う事なのか。文字だけのやり取りではその機微までは判断出来かねていた。――だからだろう、一年ほどそういったやり取りをして一冊の本を出した頃。次の作品はどうするのかという連絡を取り合っていた時に、東京に行く用事があるとうっかりとメールに書いてしまったのだ。ヘルシンキで殺した恋は、未だに俺の心を疼かせていた。彼から贈られた腕時計とジッポーは、未だ棄てることが出来ず。今でも彼の愛の言葉はジッポーの中に潜められたままで。そんな俺の気の迷いが分かっているとでも言うように、俺の東京へ行くという言葉に食いついた彼に是と返答をしたのは、仕事であるという意識と――ひと目でも彼に再び会いたかった気持ちを殺せなかったから。彼は俺のことなんて既に忘れているかもしれないとか、覚えていたとしても今は仕事相手という距離で接する事が出来るかもしれない。言い訳のようにそんな事を考えて、俺は日時と場所を添えたメールにこっそりと携帯電話の番号を記した。直海淳が、舞島直人であるという事は――どうしても、言えなかった。 「おまたせしました、ブレンドです」  テーブルの上に静かにカップを置いた店員は、伝票を置きながらごゆっくり、と俺へ告げる。そんな言葉に曖昧に頷きながら、俺は伸びきった髪を掻き上げた。切るのすら面倒で放置している髪は、大学時代には考えられないくらいに乱雑に伸びきって。染める事も脱色する事もしていない黒い髪が視界へぱらりと溢れる。せめて縛ってくればよかった。そんな事をぼんやり考えていれば、耳に届くのは昔流行ったらしいアダルト・オリエンテッド・ロック。ボビーコールドウェルが歌う愛の歌だった。「皮肉かよ」思わず溢れた俺の言葉なんてどこにも届かず、再生され続ける男の歌声は自分の中には君しかいないと歌い続ける。――俺だって。彼の歌に、俺は心の中でだけ呟く。俺のなかにだって、彼しかいないのに。彼を上書きするように、幾人もの男に抱かれても、彼を忘れる事なんて出来なかった。俺に触れた彼の体温が思い出せなくなったって、彼と過ごした日々は今でも俺の中で色鮮やかに残っている。あの夜に殺しきれなかった俺の恋は、今でも俺を追ってくるのだ。否応なく彼を思い出させるコーヒーの香りは、俺の心に細波を立てる。その細波から目を背けるように、二本目のタバコに火をつけた。そんな時だった。喫茶店のドアベルが小さくも暖かな音を鳴らしたのは。そこに立っていたのは、泣きたくなる程に懐かしい男の姿で。スーツを纏ったその男は、あの頃よりも大人の顔をしてそこに居た。きっと、俺に――直海淳へと連絡を取ろうとしたのだろう。スーツのポケットから携帯を取り出した彼の左手で、何かが太陽の光を反射する。その輝きは、俺へと正しく絶望を与えてくれる。――会社員の男が、その指に装飾品を付けている理由なんて一つしかないだろう。立ち竦んだままで俺を見つめる彼を見つめながら、俺は自分の携帯から入り口に立つ男へと電話をかける。俺の耳元では電子的なコール音が響き、遠くでは低いバイブレーターの音が鳴っていた。何コール目か鳴らしても、彼はその受話ボタンを押す事も俺に言葉を掛ける事もせず。携帯と俺を交互に見つめるだけだった。きっと困惑しているのだろう。そんな事が少しだけ可笑しくなって、俺は小さな笑みを溢しながら再び彼の番号へとコールする。 「――はい」  ややあってから彼はようやく手の中にあるスマートフォンを耳元へと押し付けて小さな声で言葉を放つ。スピーカー越しに確かに届いた彼の声は、少しだけ震えているように聞こえた。「直海先生ですか」確かめるように告げられた彼の言葉に、俺は彼を見つめながらゆっくりと言葉を唇に乗せる。 「はい」  俺はそれ以上の言葉を重ねる事をせず、彼へと笑みを貼り付けてゆっくりと席を立つ。――もうあの日々に戻る事なんて出来やしない。誰かのものになってしまった男へと、ゆっくりと足を進めながら俺は思う。懐かしさに鼻の奥がツンとしてしまうのを感じた。彼は眉を下げて少しだけ情けない顔で俺を見つめていた。彼は、俺の恋文を読んだのだろうか――あぁ、読んだとメールに書いていたな。そんな事を思いながら、一歩づつゆっくりと彼へと近づく俺へ小さな声で彼は呟く。 「――なおと」  正しく俺の名を口にした彼の言葉は、空気を震わせ俺に届くと同時に、耳に当てたままの携帯のスピーカーからも俺の耳へと伝わってきた。 「――はじめまして」  未だ切れる事はない電波の糸に声を乗せて、俺は彼へ直海淳として言葉を紡ぐ。そんな俺の言葉に顔を歪める彼の姿に、殺した筈の恋がじくりと痛んだ。それでも、俺たちは――きっともう、同じ道を共に歩む事など出来ないのだ。だから、せめて。俺は祈るように心の中だけで叫ぶ。せめて、仕事相手としてだけでも――側に居させて欲しいと。けれど、笑みを貼り付けた俺の唇から溢れたのは、直海淳としての言葉ではなかった。 「俺のラブレター、読んでくれたんだろ――洋哉」  未来などなかった恋が見せてくれた一筋の未来に、俺はひとしずくだけ涙を零した。

ともだちにシェアしよう!