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君の夢を見たんだ(2)
俺の前から姿を消した舞島が俺に残したものは、幾つかある。ヘルシンキに置いてきてしまった恋心とか、ペアで買ったマグカップとか、今でも使い続けている腕時計とか――幾枚かの紙片とか。彼は俺に二度だけ手紙を送ってくれた。そのどちらともが差出人の名前は書かれていなかったけれど、それが舞島からのものだということはすぐに分かった。別れの後にすぐに訪れた春、学生時代に住んでいた家宛に送られて俺の元へと転送された封書には、家の合鍵とフィンランドで撮った幾つかの写真が入れられていたし――もう一通は、あの旅行で互いに宛てたポストカードだったから。クリスマス近くに届いたそのポストカードには、一言だけのメッセージが書かれていた。きっと、彼がそれを書いた時には、彼は別れを決めていたのだろうに。それでも彼はその一言を選び、整った文字でポストカードに記していた。
『愛してる』
たった四文字のその言葉は、過去からの恋文で。俺たちが見た美しい光のカーテンと似たそれが印刷されたカードは、舞島が隣にいる事はない俺の元へと届けられた。――彼は、何を思ってこの四文字を記したのだろう。捨てられずにいるポストカードに記された四つの文字に視線を落としながら、俺はもう出会うこともないだろう愛する男へと問いかける。「なら何で、別れるなんてこと、したんだよ」ぽつりと溢した言葉は、誰にも届かず喫茶店の喧騒に消えた。社内での仕事がひと段落したタイミングで外へ出た俺は、次に取り付けた約束までの時間を潰す為に入った喫茶店でそのポストカードを見つめていて。きっと、昨夜見た夢のせいだ。捨てられずにいた恋の残骸を手帳に仕舞い込んで、俺はこの後に対面する予定である作家――直海 淳 の著作を開く。何度も読み返したそのデビュー作のタイトルは『未来をさがして』学生時代の恋を回想する男の物語だった。その物語と似たような恋をしていた俺は、物語の登場人物達みたいに相手の居ない未来を前向きに進んでいく事なんて出来なくて。心だけを置き去りに、この日々を生きている。そんな日々に不満がある訳ではないし、妻も子供も大切に思っている――けれど、あの舞島との鮮やかな日々は消えることなんてなくて。彼の吸ってたタバコのにおいが掠める度に、俺は彼の後ろ姿を探し続けていた。左手首に馴染んだアイアンアニーは、今日も俺へと時刻を告げる。彼が置き去りにした恋の形見が示す時刻は、約束の十分前。俺は手帳と本をカバンに仕舞い、一端の会社員であるという顔をして席を立った。
待ち合わせより五分だけ早い時間、俺は約束の場所にたどり着く。趣のある喫茶店のドアを開ければカラン、と温かな金属のベルが鳴る音がする。古い洋楽が流れるその店の歩道に面した店先はガラス張りになっていて、暖かな春の陽射しが店内に差し込んでいた。すかさず現れた店員はお一人ですかと言葉を投げて、俺はそれに待ち合わせであると告げる。性別も外見も知らない相手に到着した事を知らせる為にポケットに入れた携帯を取り出しせば、遠くであの頃よく耳にしたキン、という小さく短い金属音が耳に入り――少し甘いタバコのにおいが鼻腔を掠めた。手の中では携帯が、着信を知らせるように低い音を立てて震えて。俺はこの店に一人だけいる人影に焦点を合わせる。その人物は窓際の席でタバコを咥えてスマートフォンを耳に当てていた。俺はその光景が自分の願望か現実かわからなくなりながらも手の中にある携帯の画面を見つめる。そこには先日登録した俺が担当する小説家の名前が正しく三文字で表示されていた。――直海淳。ペンネームだと言うことは、知っていた筈なのに。着信画面は、俺が受話ボタンを押す前にぷつりと消えて。俺は店内で立ち竦んだまま、この先絶対に会えないのだろうと思っていた人物の姿と携帯の画面を交互に見つめる。そんな俺の姿を見た彼は、小さく笑ってからタバコを吸ったままで携帯を操作していた。――再び、俺の手の中にある携帯が彼の名を表示しながら震え始める。彼がここで携帯を操作していることと、俺の携帯が待ち合わせ相手の名を表示して震えている事は偶然ではないと教えるように。
「――はい、」
震えてしまう声で、ようやく口に出した返答は、空気を震わせて届く距離にいる彼の元に電波を伝って伝わっていく。小さく声を漏らして笑った声が、スピーカー越しに俺の耳に届いた。「直海先生ですか」重ねた俺の言葉に、電話の相手は「はい」と答える。スピーカー越しに伝わる彼の短い声は、あの頃と変わらない温度で、音で、俺へと届いた。直海淳の黒い瞳が、強い意志を持って俺へと向けられる。泣き出したいほどに懐かしい、夢にまで見た彼の瞳はあの頃のままでゆっくりと俺を見て細められる。整った相貌に美しい笑みを浮かべたその人は、ゆっくりと立ち上がって俺の方へと歩みを進めていた。
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