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君の夢を見たんだ(1)

 彼は、俺の下でじっと俺の瞳を見つめていた。青白い月の光はカーテンも閉めていない窓辺から差し込んでいて、白いシーツと彼の肌に陰影を付ける。月の光に照らされた白い彼の肢体とその影のコントラストが、美しかった。 「――一緒に、死んでくれないか」  そろりと伸ばした指を彼の首へと巻き付けた俺の口からは、そんな言葉が零れ落ちる。俺の言葉に、彼は笑みを浮かべていた。それは、うっそりとした美しい、お手本みたいな笑みだった。「――いいよ」ゾッとするほど甘い声で、いつもと同じようにそう言った彼は、俺の瞳から視線を外さずにいて。指先に力を込めていく俺を見つめる彼の美しい相貌は苦しげに歪んでいく。いくつもの水滴が、彼の身体の上へと落ちていって。――泣きながら首を絞めた男の死を見届ける事なく、俺は閉じていた目蓋を見開いた。 「――っ」  息を詰めてベッドから身を起こした俺に、隣で眠っていたらしいその人は少しだけ身動ぎをしながら「どうしたの?」と俺へと眠そうな声を投げる。暗闇の中で時を刻むデジタル時計が示すのは、真夜中で。俺は彼とはちがう柔らかな肌を布越しに撫でながら彼女へと謝る。「ごめん、起こした?」俺の言葉に、「目が覚めちゃっただけだから」と首を横に振って俺たちが眠るベッドの隣に置かれた木製のベビーベッドへと視線を向ける。小さな声を上げたそこに眠る生命は、やがて大きな泣き声で何かを主張していた。「あ、俺が見るよ」目が覚めてしまった俺は、木製の柵の中で何かを伝えようと声を上げる小さな生命を抱き上げる。 「どうした、ヒロト。何がしたいか教えてくれよ」  赤子相手に無理な相談を持ちかけながら、俺は息子を腕の中でゆっくりと揺らす。「これは、ごはんね」俺が苦戦する様子に苦笑を漏らした彼女は俺の隣に立ち、優しく赤子を俺の腕の中から引き継いでいって。「明日も早いんでしょ、寝てていいわよ――あと、あなたも泣いてる」柔らかな乳房を息子へと差し込むだしながら、彼女は俺に告げる。その時初めて、俺はあの夢を見ながら涙を流していた事に気が付いた。舞島がいない春を、三度迎えた頃の事だった。舞島と俺は空港で別れたきり、一度も顔を合わせていなかった。彼が、卒業式に出席しなかったから。幾度か送ったメッセージには既読も付かず、就職して落ち着いた頃に一度電話をしたけれど、電話は解約されていた。徹底的に俺を避けたのだろう彼に、舞島らしいと思いつつも俺は彼の事を忘れる事など出来やしなかった。あの色鮮やかで幸せだった日々は、ヘルシンキのあの夜に置き去りにしたまま、俺は表面上は平穏な日々をやり過ごしていた。彼女――妻と出会ったのも、そんな頃の事だった。先輩に連れられて出た合コンで出会った彼女とは、お互いに打算に溢れた結婚をした。舞島の事を忘れようと誰かを探す俺と、実家を出る為に結婚相手を探していた彼女。互いにその内情を伝え合った俺たちは、その数ヶ月後には息子を授かり――それを言い訳に籍を入れた。恋など欠片もないその結婚生活は、結果的にはうまくいっていて。俺はこの日々にある程度の満足はしていた。――時折、舞島が隣にいない事だけが、俺の胸を締め付けるような痛みを与えていたのだけれど。彼の夢を見るようになったのは、その頃からだったように思う。あの夜に、彼と共に生命を経とうとする夢。結局俺は彼を殺すことなんて出来なくて、自分が生命を断つ事だって出来なくて。ただ、この場所で息をしている。幸せな夫婦とその子供という三人家族の仮面を貼り付けながら。 「ねぇ、」  息子に乳を与えながら、妻である女は俺にふわりと声を掛ける。「明日、直海(ナオウミ)(スナオ)と会うんでしょう?」もう既に今日になる時間であったけれど、そう口にした彼女へ俺は曖昧に頷く。「どんな人だったか、教えてよ」彼女は直海淳のファンだった。一年程前から担当として共に仕事をしていたその作家は、二年前に別の出版社でデビューをし、そのデビュー作で名を上げていた。一切の露出をしないその作家は、性別すらも不詳なままで。担当である俺ですら、この一年間メールでのやり取りしかしていなかった。俺の勤める出版社から作品を出す条件が、本名や性別等の情報を俺たち社員にすら明かさない事だったらしい。メールをやり取りする中で伺える人柄は、物腰が柔らかく丁寧な人物。もしくは他人行儀で、仕事だから丁寧にしているだけの人。相手から届くメールはいつも丁寧で無味乾燥したビジネスメールで。そんな相手に躍起になって私信を短く添え続けていた。そうして数ヶ月前、地方に住んでいるらしい先方がこちらへ足を運ぶ事を知ったのだ。それに飛びついた俺は、明日――最早今日になってしまったけれど――直海淳と対面する約束を取り付けた。 「――先方が許可を出したらな」  勝手にその人となりを告げて、作品を引き上げられてもたまらない。彼女にそれだけを返した俺は、ベッドの中で再び目蓋を閉じる。朝までの短い時間、せめて彼と――舞島との、幸せな夢を見れる事を祈って。

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