29 / 32

ある筈もない、幸せな(3)

「そういえば、りっつーからそろそろ出社初日だぞって連絡来てたけど」  昼にアルコールで意識を失うように無理やり眠り夜は男に抱かれるという生活を繰り返していた俺へ、男が言葉を投げたのは結局出る事がなかった卒業式を終えて月が変わろうとする頃だった。「直人くんの一人や二人くらい養えるけど、一応君の意思は確かめとこうかなと思って」そう言って笑った男は、俺の首筋に唇を落とす。もう何週間も服を着ていなかった俺の肌は、男の手によって高められていって。「――出社」その言葉の意味すら考える事が面倒な俺に、「まぁ、連絡返さなかったらりっつーの事だからうちに乗り込んで来そうだけど」と笑った彼は俺の首筋を甘噛みしていた。どこか大型犬が戯れつくようなその行為に、小さく笑った俺は言葉を零す。「帰る場所なんて、ないだろ」もう、世界のどこにも俺の居場所なんてないのだろう。俺が殺した恋は――心は、まだあの夜に置き去りにされたままなのだから。 「まぁ、そんなこったろうと思ったけど、酷い有様だな」  呆れたような、それでいて優しげな――俺のものでも、男のものでもない声が俺達へと投げられる。「来そうっていうか、来てるんだけどね」ちゅ、と小さな音を立てて俺の首筋に痕を残す男は楽しそうに言葉を紡ぎ「お迎えだよ」と笑みを浮かべる。「ウサギお前さ、迎えが来てるのにそういう事するか? 普通」呆れきった声でじとりと視線を男へ投げたその人は、俺を見詰めていつもと変わらない口元だけを上げた笑みを浮かべる。「帰ろう、直人」この部屋の中で一番小柄な筈の母は、この部屋に居る誰よりも大きく見えた。 「まぁ何だ、暫くゆっくりしておけ」  呆然としていた俺に服を着せて男が運転する車で俺を空港まで引っ張り出した彼女は、乗り込んだ飛行機の座席でポツリとそう口にして。その言葉に何か返そうと視線を向ければ母は既にイヤホンを耳に付けていた。相変わらずのマイペースさに少しだけ笑って、俺は地上を離れ空気に乗る鉄の塊が飛び上がる景色を見詰めていた。  結局真っ当な社会人になりそびれた俺は、男に抱かれて日銭を稼ぐ生活をしていた。東京にいる間ずっと電源を付けていなかった携帯には、碓氷からのいくつかのメッセージが届いていて。それに返信する事もせずに携帯を解約した俺は、家族とそういう事を生業とする職場の連絡先しか入っていないまっさらな携帯を手に入れていた。何人もの男の欲を胎の中で咥え込んで、その対価に金を手にする。苦しくて、虚しいその行為は、誰かと繋がっている瞬間だけは気持ちよく――もう、碓氷の手がどうやって俺に触れてくれていたかなんて思い出せなくなっていて。自分が殺した恋の形見のようなジッポーと腕時計は捨てる事が出来ず、俺はそれらを使い続けていた。そんな生活をしていれば、気付けば季節は街が白く染め上げられる頃になっていた。 「――碓氷」  俺が恋心を殺した異国の地から届いたのは、過去からの恋文だった。ベタだなと笑ったクリスマスカードには、碓氷の字で小さく沢山の愛の言葉が詰め込まれていて。『今年のクリスマスは、これを見て笑い合えたらいいな』そう締められた彼の手紙を抱きしめて、俺は泣いていた。碓氷の体温が思い出せなくなった自分を殺したくなって、それでも碓氷への恋は殺しきれなかった自分の不甲斐なさに嗚咽が漏れる。「――洋哉」唇を震わせた彼の名は、悲しいくらい懐かしくて。もう戻れないあの日々を、どこかに残して置きたくなっていた。もう、彼の隣で笑える事はないだろうけれど――俺はこの空の下、何処かにいるだろう彼へ、最後の恋文を送ろうと。そう思ったのだ。 「――間に合った」  募集日程の最終日、震える指先で送信ボタンを押し送ったのは一編の小説だった。彼が勤めている筈の出版社を避けて送ったその小説は、俺が碓氷へ向けて書いた恋文であり、男女の恋物語として書き上げたあの日々の物語だった。碓氷に読まれなくても構わない、むしろ、読まれずに終わればいい。これを書けば、俺も踏み出せるかもしれないと思ったのだ。 『柔らかな日差しのようなあの日々が、恋だったのかなんて今はもう分からない』  その一文から始まる恋文に、俺は小さく呟いた。「紛れもなく、恋だったんだ」碓氷への恋を――愛を再確認するように書き上げたそれを送り終えた俺は、倒れ込むように眠りについたベッドの中で久々に彼の夢を見た。  ――ある筈もない幸せな、夢だった。

ともだちにシェアしよう!