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<追録>名残り雪
「主さま---」
嵬は、誰もいない丘の上に、小さな花束を手に佇んでいた。
あの冬から、瀞(せい)の体調は急激に悪くなった。細かった食がますます細くなり、二度目の冬にはもう自分で身体を起こすことも出来なくなった。
その冬の終わりの日、嵬が手を添えてようやく背凭れに身体を預けさせると、瀞(せい)は消え入るような声で言った。
「もう、春が来ているのですね---」
僅かに残る雪の中に様々な草木が芽吹き、蕾を膨らませていた。寂しげに庭先を眺めていた瀞(せい)の表情が、ふいに変わった。
「『あの方』が、迎えにみえました......。私を忘れずにいてくださった......」
瀞(せい)は震える声で呟き、窓の外、漸く開き始めた蝋梅の枝に指を延べて、僅かに微笑んだ。
それは、ほんの一瞬だったが、嵬が見た瀞(せい)の、一番幸せそうな微笑みだった。
そんなはずは、だって......。
言いかけた嵬の目に瀞(せい)の柔らかな眼差しが投げ掛けられた。
「ありがとう、嵬......」
青ざめた唇が囁き......そして、瀞(せい)は静かに眼を閉じた。
嵬の頬を一筋、涙が伝った。
「主さま......!」
嵬は、絞り出すように呻き、瀞(せい)の痩せ細った身体を抱きしめた。微かに残っていた体温が腕の中で無情に失われていく......。嵬の喉から嗚咽が湧き上がり、零れた。
しばしの後、嵬は瀞(せい)の身体を寝台に横たえ、その頬に、唇にそっと口づけた。そして宮中の医官を呼ぶために、よろよろと庵を出た。
懐に残っていた全ての薬包を携え、ひとつずつ雪の中に棄てながら、長い道筋をよろめきながら、内廷へと向かった。
先帝の第四皇子、蒋瀞季瑛は淡雪の如く、誰にも知られることなく、儚い生を終えた。
亡骸は嵬によって密かに東の海を見下ろす丘の上に葬られた。墓石には『瀞慈君』と刻まれた。
嵬は、瀞(せい)の死後、宮中を辞し、この丘の麓に移り住み、僧侶となった。
「主さま、どうか私をお赦しください......」
嵬は花束を備え、瀞(せい)の墓石に手を合わせる。孤児だった自分を見下すことなく、優しく接してくれた、清らかで美しい人......。
嵬の、瀞(せい)の眼差しが自分だけに注がれる日々の幸福を『あの方』......桂紆は奪った。
そして、今も.....瀞(せい)の魂は桂紆のもの。
それは、主を恋慕いながら、その生命を奪った自分に対する罰......毒に蝕まれていく主が儚くなればなるほど、その美しさに打ち震え魅了されていった自分への永劫の罰。
嵬は、自ら生きながら骸となり、喪われた日々に涙する。
その肩に季節外れの雪が、静かに舞い降りた。
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