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降雪の音は聞こえるか

 さく……という足音が聞こえてきた。  さく、さく、さく、さく。  これは、地面の雪を、踏む音だ。積もっているのだな、と僕は外の凍てつく寒さに思いを馳せる。  雪はいつから降り出したのだろうか。  昨夜か。  今朝か。  昨日の昼間は降っていなかった。それだけは、確かだ。  だって、初瀬(はつせ)さまが此処にお見えになったから。  初瀬さまは少し足が悪くていらっしゃるので、足元の悪い道を歩かなければ辿り着かぬこんな場所には、天気の悪い日は寄り付かないのだった。  ガタリ、と戸が揺れた。  ガタガタ、ガタガタ。  建てつけの悪い戸は揺すりながら開かなければならないので、コツが要る。  それをよくわかっている下男は、いつも器用にそこを開ける。  やがて、冬の空気とともに、男が室内に入ってくる気配がした。 「おいで」  僕はそちらへ向けて、声を放った。  ゴソゴソと衣擦れの音を立てながら、男が歩み寄ってくる。板張りの床が時折軋みをあげた。  軽い振動を、正座の足に感じた。男が僕の前に座ったのだ。  僕は両手を差し出した。  冷えた男の手が、僕の手に絡み、そのままわずかに上の方に軌道修正される。  僕は導かれるままに指を伸ばして……探り当てた皮膚の感触に、てのひらを這わせた。  冬の空気に晒されてきた男の頬は、つめたい。  体温を移すかのように僕は、その頬の曲線を撫でた。  高い頬骨。がっしりとした顎。ちくちくするのは髭の剃り残しだろうか。  顎の先端まで行きつくと、こんどは逆に撫で上げる。  目のくぼみ、眉の形。髪の生え際……。  耳はことさら冷えていて、氷のようなその温度に千切れてしまうのではないかと心配になった。 「雪は、積もっている?」  僕の問いかけに、下男がこくりと頷いたのが顔の動きでわかる。 「どのくらい?」  重ねて問うと、男の指が僕の足首の、くるぶしの骨の下あたりに触れた。  なるほど、と僕は首肯して。 「じゃあしばらくは、溶けないね」    小さな声で、囁いた。  下男がまた頷く。    パチリ。  火鉢の中で、炭が弾けた。  その音は。  目の見えぬ僕と。  口のきけぬ下男。    二人だけの空間に、よく響いて消えた。  とある寺で僕は、稚児として仕えていた。家が貧乏で、ほんの子どもの頃に厄介払いされたのだった。  寺には僕のほかにも数人の子どもが居て。  住職や僧侶たちの(シモ)の世話が、僕たちの主な役割であった。    数年を寺で過ごしたのち、僕は初瀬さまに見初められた……と言えば聞こえが良いが、要は住職に売られたのだった。初瀬さまが寺にいくらの金を包んだのか、僕は知らない。  しかし、僕の身柄は僕のものではなくて、僕の意思もまた、ないものとして扱われた。  僕は諾々と寺を出た。  行く先がどこであっても、この寺よりはマシだ、と僕は思った。  毎晩、幾人もの下の処理を強要される寺に比べれば、どこでも天国のようなものだろう。    そんな僕の考えはあっさりと覆された。  初瀬さまは加虐の(へき)があり、(しとね)での行為には常に苦痛が伴った。  泣き叫んでも誰も助けてはくれない。  そんなところは、寺もこの屋敷も変わらなかった。  初瀬さま、という御方は随分と身分の高い御方のようで、彼の屋敷は広く、使用人は多かった。  目を合わせることは不敬ということで、僕は初瀬さまのお顔をきちんと見てはいないのだけれど、恐らくは二十歳を幾ばくか超えたぐらいの年齢で、当主にしてはずいぶんと若いなという印象であった。  使用人たちの間で、初瀬さまの評判は良い。  初瀬さまは平常はとても穏やかで、声を荒げる姿など見たことがないと皆は一様にそう言った。  しかし、ほんの一握りの人間は、恐ろしい御方だよ、と口にした。  初瀬さまの加虐癖の片鱗を、察知しているのかもしれないと僕は思った。    屋敷には、僕のほかに小姓もたくさん居た。  しかし、夜の相手を命じられているのは僕だけであった。そのことが要らぬやっかみを買うこととなり、夜のお声のかかったことのない小姓たちから僕は、嫌がらせを受けることとなった。  食事を抜かれる、水風呂に入れられる、着物が盗まれる……。  そういった行為が徐々に過激になってゆき、ついに僕は、同じ小姓たちからも犯されるようになった。  夜は初瀬さまに。昼間は小姓や下男たちに体を嬲られる。  そんな生活はしかし長くは続かなかった。  自分以外の男と僕が(ちぎ)っている現場を、初瀬さまが目撃したからだ。  初瀬さまの怒りは凄まじく、彼は一度ぶるりと大きく震えた。  そして初瀬さまはその場で僕に圧し掛かっていた男を切り捨てると、返す刀で僕の目を突いた。  両目を喪った僕は、昏倒し、その後は高熱に苛まれた。    ようやく体を起こせるようになったときには、僕は屋敷の裏から雑木林を抜けた先にあるこの離れの小屋へと、身柄を移されていたのだった。 「おまえは死ぬまで俺だけのものだ」  初瀬さまは、この小屋で僕を抱きながらそう囁く。  目が見えぬ僕になぜか、目隠しをして。  布で目元を覆われた僕を、初瀬さまは折檻するように貫き、おまえは俺だけのものだと繰り返す。  だから僕は、はい、と答えた。  僕は死ぬまで初瀬さまのものです。  けれど僕がそう口にするたび、初瀬さまは激怒して、僕を打擲(ちょうちゃく)するのだ。  頬を()たれ、尻を()たれ、ときには性器を叩かれる。  痛みに喘ぐ僕を初瀬さまは下から串刺しにし、つまらぬ嘘を言うな、と吐き捨てる。  僕の言葉が信じられないのならば。  なぜそれを言わせようとするのか。  僕は疑問を抱きながら、初瀬さまに揺さぶられ続ける。  視力を奪われ、小屋の虜囚となって以降、僕の周囲には初瀬さまを除いてたったひとりの使用人しか存在しなかった。  口のきけぬ、下男だ。  彼の名を僕は知らない。名前がないというわけではないだろうが、彼は声を出せないし、字も書けない。一度唇の動きでそれを伝えようとしてきたことがあったが、よくわからなかったので断念した。    そもそも此処には基本的に僕たち二人しか居ないのだから、呼び名がわからずとも不便はなかった。「ねぇ」とか「ちょっと」とか声を出せば彼を呼んでいるとわかるからだ。  僕の世話役を話すことのできないこの男にしたのは、恐らく、初瀬さまが目くらの小姓を離れで囲っていると周囲に言いふらす心配がないことに加えて、盲目の僕と(おうし)の下男では意思疎通が困難で、不義の仲に発展する心配がないこともその理由だろうと、予測がついた。  屋敷からこの小屋まで、水や(まき)、食料などを持って何往復もしなければならないから、世話役は男でなければならなかったのだ。    喋れない男との間には、当然のことながらほとんど会話は生まれない。  輪郭を触らせてもらったが、男がどんな顔つきをしているのか、視力を失ってさほどの月日が経っていない僕にはほとんどわからなかった。  しかし僕は、顔すらも判別できぬこの下男を、(ねや)へと誘った。  雨の降る日のことだった。  雨粒のバラバラと弾ける音が、うるさいほどに響く日であった。  盲目となって以降僕の耳は音をよく拾う。  初瀬さまの、足を引きずるような重い足音は、小屋の外からでも聞き分けることが容易いほどに。  僕は掴んだ下男の手を、浴衣の(あわせ)に引き寄せた。  下男が戸惑ったように指を引いた。それをゆるさずに、強引に乳首に触れさせた。  下男は反対の手で僕の手を握り、自分の頬へと当てて、首を横に振り、拒む動作をてのひらを通して伝えてくる。 「大丈夫だよ」  僕は雨音に消えそうな声で囁いた。 「あの御方は足がお悪いから、こんな天気の日には来ない」  初瀬さまは左足が悪い。  僕の前で初瀬さまはよくふくらはぎのあたりをさすっていた。痛みの強いご様子で、なんどもそこを撫でていたのを僕は見ていたから、下男へとそう告げた。  けれど、確信があっての言葉ではなかった。  地面の状態がどうであれ、初瀬さまは来たいときに此処を訪れるだろうし、雨降りだから来ないという確証もありはしなかった。    ただ僕は……見つかってもいいか、と思っていただけなのだ。  この下男と交わっているところを、初瀬さまに見つかっても構わない、と。  そんな思いから僕は彼を誘ったのだった。  下男にしてみればいい迷惑だろう。  だって、目撃されればきっと、殺されてしまうから。    僕のこの目に最後に映ったのは、うつくしい白刃のきらめきだった。  あの刀で初瀬さまは、僕を抱いた下働きの男を切り捨て……僕の両目の光を奪ったのだ。  こんどはいのちを奪われるかもしれない。  下男を抱き寄せながら僕は思った。  こんなところを見られたら、こんどは……こんどこそは僕は死ぬかもしれない。  けれどそれで良かった。  どうせ初瀬さまが僕に飽きれば……盲目の僕などひとりで生きてはいけないのだから。  いっそ、一思いに殺してほしかった。  そんな浅薄な考えで下男の牡を咥えこんだ僕を……。  下男は、驚くほどやさしい腕で、抱いた。  耳を澄ませば、しんしんと降る雪の音すら聞こえそうだ。  空気はキンと凍り付いて。  布団の中、合わせている肌だけがあたたかかった。 「今日は足元が悪いから、あの御方はお見えにならないよ」  僕のそんな言葉を合図に、僕は幾度となく口の利けぬ下男に抱かれた。    僕に罰を与えるかのように打擲と苦痛を与えてくる初瀬さまの手と、やさしいだけの下男の手は、まったく違っていて。  はじめは、初瀬さまに殺されたくて、この男に抱かれていたのに。  いまはただ、抱かれたいから誘っている。    初瀬さまにつけられた傷や、縄の痕を。  この男は唇で辿り、癒してくれる。  気持ちがいい。  下男の腕の中は、気持ちが良かった。    過去に一度だけ、下男と接吻をしているときに初瀬さまのおとないがあった。  僕の唇を吸っていた下男が、不意に離れた、と思ったら、数秒もせぬうちに初瀬さまが小屋に現れたのだった。  下男との口吻けに溺れていた僕の耳は仕事をしておらず、初瀬さまの足音にも気づいていなかったから、心臓が止まりそうなほど僕は驚いた。  見られただろうか。  僕と下男の関係を、勘付かれただろうか。  緊張に背を強張らせた僕へと、初瀬さまは、 「下男はどうした」  と横柄な声で問うてきた。  僕は正座をし、(おもて)を伏したままで室内の気配を探った。  下男はどこへ行ったのだろう。  初瀬さまが来る前に無事にどこかへ隠れることができたのか。  目が見えぬ以上下男の居場所を測る術もなくて、僕は咄嗟に「水を汲みに行っております」と答えた。  初瀬さまは気のない声で相槌を打つと、そのまま僕を抱いた。  両手は縛められ、尻は平手で打たれた。  僕を貫く強直の熱さだけは下男も初瀬さまも同じだな、と僕は思った。    それ以降僕は、下男に抱かれているときも、耳を澄ませることを忘れない。  初瀬さまに殺されたいと思って始めたことだったのに、下男が初瀬さまに斬られることが恐ろしくなってしまったから。  下男が僕の中に精液を迸らせる。  果てたあとのやわらかくなった陰茎を、ずるりと引き抜かれると、僕の孔からどろりとそれが溢れ出す。  下男はやわらかな紙で白濁を拭き取り、沸かした湯で体を拭ってくれる。  彼の指が、ときおり僕の目元をくすぐった。  僕は瞼を合わせたまま、小さく笑う。    下男がなにを思い、僕との密通を続けているのか、僕は知らない。  雨が降ったとき。  雪が降ったとき。  地面がぬかるんでいるいるとき。  僕は下男を求めるけれど。  きっと、永遠に秘匿することなどできないだろうから。 「もしもあの御方に見つかったら……」  僕は、手拭いで体を拭いてくれる男の腕を手探りで掴み、問いかけた。 「そのときは、僕と死んでくれるかい」  下男の指が、手首に絡んで。  僕のてのひらが、男の頬に押し付けられる。   「僕と一緒に、殺されてくれるかい」  こくり、と男が頷いた。  雪の降る気配がする。  風がガタリと扉を鳴らした。  初瀬さまの足音は聞こえてこない。  僕は男の顔を引き寄せて、唇を吸った。  斬られるときはこの男と一緒がいい。  下男ひとりを死なせたりはしない。  僕も一緒に斬られるのだ。  二人折り重なって。  息絶えた体を、雪の上に捨ててほしい。  白い雪の上に、椿の花の如く広がる赤い血は、初瀬さまの目をさぞ楽しませることだろう。  殺してほしい。  殺されたい。  下男が僕に飽きる前に。    雪は明日には止むだろうか。  明後日には溶けるだろうか。  ぬかるみはなくなるだろうか。  初瀬さまはいつ、此処を訪れるだろうか。  雪に閉ざされた小屋の中、口の利けぬ下男と二人。  僕は、埒もない空想に浸りつつ、下男の手に身を任せた。 「おまえは僕のものだよ」  僕の言葉に、下男が空気を揺らすようにして笑ったのがわかった。  僕も笑った。    おまえは死ぬまで俺だけのものだ、と。  そう言った初瀬さまと自分が、同じものになった気分がした。  なるほど、嘘とわかっていても言葉がほしくなるときがある。 「そうだな?」  僕の問いに、衣擦れの音が答えた。  てのひらを、男の頬から離していたので、彼が頷いたのか首を横に振ったのか、それすらもわからずに。  僕はただ、口づけを求めた。  ちゅ、と唇を吸われながら、僕は聴覚に意識を集める。    初瀬さまの足音はしない。  ただ、雪の降る音だけが、聞こえてくるようだった……。         

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