2 / 2
Answer
醜いな、と下男は思った。
顔の傷が醜いな、と。
屋敷から雑木林を抜けた先に建てられたこの小屋は、初瀬家の先々代が愛妾を囲うために造った檻だと、聞いていた。
愛妾は見世物小屋に居た纏足 の少女で。自分の足で歩くことのできぬ女だったという。
いま、褥 の上にぽつねんと座っているのは、十代後半の青年だ。
両目の周囲には大きな刀傷があり、ミミズがのたうっているようなその傷跡は、醜かった。
目を奪われた青年は、ある日なにを思ったのか下男を閨 へと誘ってきた。
下男の手を取り、自身の胸元へと導いたのだ。
ああそうか、と下男は思った。
目が見えぬから彼は、己の醜さに気づいていないのだ。
稚児として住職たちに体を開かれ、初瀬邸でも当主やほかの下働きの者たちに凌辱されていたこの青年は、自分の容色が衰えているとは夢にも思っていないのだろう。
双眸を刀で傷つけられた彼は、その後高熱を出し、実にひと月もの間意識を混濁させていたし、解熱してからも完全に床払いができるようになるにはさらにふた月の期間を要した。
その間に彼は窶 れ、肌艶は悪くなり、おまけに顔には大きな傷跡が残った。
青年の身に起きた変化を、彼自身だけが気づくことができない。
だから彼は、誘えば誰もが喜んで自分を抱くと、思っているのだろう。
下男は青年の胸の突起に指を掛けながら、彼の顔をまじまじと見つめた。
醜い傷だ。
これを見て尚、青年に情欲を覚える人間が居るとすれば、それは、青年を此処へ連れてきた張本人、初瀬直征を於いて他には存在しないだろう。
くり……と指先で乳首を弄 れば、「あ」と乾いた唇が開いて喘ぎをこぼす。
彼の体を布団の上に横たえて……そこで下男は手を止めた。
わずかの躊躇をどうとったのか、青年が両手で下男の頬を包み、傷跡を引きつらせて微笑んだ。
「大丈夫だよ。あの御方は足がお悪いから……こんな天気の日は来ない」
あの御方、と直征 のことをそう呼んで。
青年が頭を持ち上げ、唇を合わせてきた。
足が悪い……なるほど、彼にはそう見えていたのか、と下男は思った。
外では雨がザアザアと音を立てている。
直征の足は、実のところ跛 を引いたりするほど悪くはない。
ただ、痛む。
青年の顔を見ると、古傷が、痛む。
それは恐らく、この青年が。
死んだ妹によく似た目をしていたからだ。
初瀬直征 の妹、時子は、幼いころより直征によく懐いた。
兄さま兄さまと後ろをついてくる、可愛い妹。
時子は兄さまと結婚いたします、と兼ねてより公言していた時子は、十二の歳に本当に直征と体を繋げた。
父は既に亡く、初瀬家は齢 十六の直征が継いでいた。
直征と時子のただならぬ関係に気づいた母は、二人を別れさせようと画策し、時子の嫁ぎ先を探した。
それに気づいた時子が、母を殺した。
止める暇もなかった。
着物を母の血で真っ赤に汚した時子と一緒に、直征は母の遺体を雑木林に埋めた。
蜜月は二年続いた。
やがて時子は妊娠した。
子は、産声を上げる前に流れた。
胎児と一緒に時子の気持ちも流れてしまったのか、時子は以降、直征を拒むようになる。
閨 が別れ、食事の時間が別れ、会話が途絶えた。
それでも直征は時子を愛した。
実の母までも手に掛けた、彼女の激しいまでのこころを、愛した。
しかし時子の方はそうではなかった。
直征の目を盗み、使用人と不義密通を重ねていた。
時子の立ち回りが巧みであったからか、直征は長い間それに気づくことができなかった。
すべてが明るみとなったのは、時子の腹に新しい命が宿ったときである。
懐妊の報 せを医師から受けたとき、直征は耳を疑った。
直征が直ちに時子の部屋へ駆け込むと、時子は使用人と駆け落ちの準備を行っているところであった。
直征は刀を抜き放ち、使用人を斬った。
半狂乱になった時子が、短刀を手に直征と対峙した。
直征は血で汚れた刀を床に捨て、片手で短刀を防ぎながら、もう片方の手で時子の腹を殴った。
二度、三度とこぶしを下腹部にめりこませる。
時子が腹を庇い、体を丸めた。
堕 ろせ。
短く、直征は命じた。
そして、うずくまる時子を置いて部屋を出ようとした、そのとき。
時子が直征に躍りかかり、直征のふくらはぎに短刀を突き立てたのだった。
直征は咄嗟に反対の足で時子を蹴り飛ばした。
時子は横倒しになり、その後、腹を押さえてのたうち回った。
結局、時子は腹の子ともども死んだ。
直征は深い虚脱の中、葬儀をあげ、妹を弔うために訪れた菩提寺で……この青年を見つけたのだった。
青年のうつくしい黒い瞳は、時子に生き写しで。
衝動のままに直征は青年を寺から買いあげた。
なにをしたかったのか、自分でもよくわからぬ。
しかし夜伽のために青年を呼びつけ……閨に訪れた彼を見た瞬間。
時子への憎悪が膨れ上がり……暴発した。
直征は青年を縛り、打擲 を与え、ひぃひぃと掠れた悲鳴を上げる彼を見て胸の透く気分を味わった。
跪 いた青年の喉奥に自身の欲望を突き立て、小さな頭を乱暴に揺さぶってやると、時子に似た瞳が歪み、涙をこぼす。
時子に罰を与えている気がして、ひどく興奮した。
同時に、時子に傷つけられたふくらはぎがズキズキと痛んだ。行為の最中、その痛みに耐えかねて直征はなんどもふくらはぎを撫でた。
おまえは死ぬまで俺のものだ。
俺だけのものだ。
青年の中の時子に、直征はそう声をかける。
すると青年が諾々 と頷き、「はい、僕は死ぬまで初瀬さまのものです」と応じる。
その言葉は直征を苛立たせた。
不貞を働いたくせになにを言う。
時子。おまえは俺を裏切った。
俺のものなどというつまらぬ嘘に、俺は騙されたりはしないぞ。
腹の中でそう言い返しながら、直征は青年の体を貫いた。
青年が時子と同じ行為をしているのを目撃したとき。
直征の内側は怒りというよりはむしろ、この男はやはり時子であったのかという喜びに打ち震えた。
おまえは俺に罰されるために、こうして俺の前に来たのだな。
直征は抜いた刀で使用人を斬り捨て、そして青年の……時子の両眼を突いた。
断末魔のような悲鳴が、屋敷中に響いた。
青年はしばらく、顔の上半分に包帯を巻いて過ごしていた。
高熱を出し寝たきりとなった青年の世話は、直征自らが行った。時子を看病しているのだと思えば楽しかった。
しかし。
その包帯が取り払われたとき。
直征は初めて、彼が時子と別人であることに気づいたのだった。
時子の目。
うつくしい時子の目を喪った彼は、時子とはかけ離れていて……。
ただの貧相な青年に見えた。
声も出せずにただ茫然と彼の素顔を眺めていた直征に、彼は……。
僕のお世話はずっときみがしてくれたのか、と問うた。
使用人に間違えられている。そのことはすぐにわかった。
俺が初瀬だ、とひと言言いさえすれば、青年は勘違いに気づくだろう。
それなのに。
直征の喉から、声は出なかった。
贖罪のつもりだろうか。
よくわからぬ。
なぜ、自分は下男として彼の世話を焼くのか。
口がきけないふりまでして、なぜ。
初瀬直征は足が悪い、という青年の思い込みを利用して、直征は下男と初瀬を使い分けた。
足を引きずって小屋に行くと、青年は怯えた様子で正座をして待っている。目が見えぬぶん耳がよく働くようになった、と下男に語っていたが、本当によく聞こえているようだった。
青年は時子とはべつの人間だ、ということはもう直征にもわかっている。
しかし、彼に目隠しをして醜い顔の傷を隠してしまえば、彼の顔は、時子が息づいていた以前の面差しに近づいて。
時子が居るかもしれぬと思うだけで直征は猛り、押さえられぬ性衝動に駆られ、乱暴に彼を抱いた。
青年に無体を強 いたあと、直征は下男となり青年を癒す。
己のつけた傷を黙々と手当しているうちに、なんとも言えぬ不思議な気持ちが湧いてくるのだった。
青年が下男の正体にまったく気づいていないのか、それとも知らぬふりをしているのか、ある日ふと疑問に思った直征は、接吻の途中で体を離し、玄関へ行くと、初瀬が突然現れたがごとく振舞った。
青年は大層驚き、下男が初瀬に見つかってはいないかと随分と気を揉んでいるようであった。
そのとき直征は、青年が下男を憎からず想っていることに気づいた。
顔も知らない、言葉すらも交わしたことのない、下男。
そんな存在に、彼は情を抱いているというのか。
青年はたぶん、死にたがっていた。
最初に下男を褥へ誘ったとき、口ではあの御方に見つからないように、なんて言っていたが、たぶん、失明したことに消沈して、下男と体の関係を持つことで初瀬に斬られようとでも考えていたのだろう。
しかしいまは、少し違っている。
願っているのは死による結末でも、彼はそこに、下男の姿を求めているのだった。
一緒に死んでほしい。
僕と一緒にあの御方に斬られて死んでほしい。
下男に抱かれながらそう願う彼は、醜くて。
そして、うつくしい。
時子の持っていた激情とはまた違う、しかし頑なで激しい感情が、彼の中にも存在している。
青年に乞われて、下男は頷いた。
彼の手を己の頬に当てて、顔の動きが伝わるようにして。
こくり、と静かに頷いた。
青年が微笑んだ。
目の周囲の傷が、ぞろりと歪んだ。
今日は雪が降っている。
今朝早くからちらつき始めた雪は、くるぶしのあたりまで積もっていて。
彼にそれを教えると、じゃあしばらくは溶けないね、と青年は隠しきれぬ喜びに頬を染めていた。
足の悪い初瀬は、足場の悪い日はこの小屋を訪れない。
青年のその勝手な思い込みは、直征自身により真実へと変わっている。
いつまで直征は下男でいられるだろう。
下男が初瀬直征であると青年が知ればどうなる。
時子のように、直征に刃を向けるだろうか。
下男とともに初瀬に切られたい、という青年の願いは、下男が直征である以上叶うことはない。
口のきけぬ下男と、目の見えぬ青年。
二人の空間が綻びる日は、存外に近いのかもしれない。
「おまえは僕のものだよ。……そうだな?」
不意に青年の声がくっきりと冷えた空気の中に響いた。
下男は頷いた。
つらつらと埒もないことを考えていたものだから、青年の手を頬に当てるのを忘れていた。
だからこちらの動きは、盲目の彼には伝わらない。
それでも青年は、もう一度返事をしろとは言わなかった。
彼は頷きの代わりに口づけを求めて、唇を合わせると、静かに吐息を漏らした。
「雪の降る音がする」
下男は青年の隣に横たわり、痩身を布団で包んでから耳を澄ませた。
降雪の音など、聞こえるのだろうか?
首を傾げ、少しの間集中してみたが、下男には聞こえぬ音だった。
下男はそれを聞くのを諦め、寝る態勢に入った青年の顔を見つめた。
時子ではない男の顔の傷は、やはり、醜かった……。
終幕
ともだちにシェアしよう!