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1. inside

 成海(なるみ)(そう)、二十五歳。ただいま絶体絶命のピンチに陥っています。  自分の頭よりも大きい目玉が目の前にある状況は、ピンチ以外の何物でもないよな?  その水色のでっかい目が、俺をじっと見ている。  ずいぶんよく寝たなあ、とのんきに目を開けたら、これだ。人間は恐怖が行き過ぎると声もまともに出ないらしい。俺はただぱくぱくと口を開いて、無音の絶叫をあげた。その拍子に、怪物は唐突にふっと身を引く。息をつく間もなく、今度は鋭い爪が迫ってくる! 「うああああっ!」  ガツンッ、ガツンッ  怪物は執拗に爪を立てるが、俺と怪物との間にはどうやら見えない壁があるみたいだ。おまけに、壁を突かれるたびに地面ごとびりびりと震えている。 「な、なんなんだこれは……」  腰を抜かしたまま俺はじりじりと後ろに下がった。だが、すぐに背中に硬い感触にぶつかる。もう行き場がない。 『ナァーウ!』  大きく開かれた口の中で俺の腕ほどもある牙が鋭く光る。  ガツンッ  やはり振り下ろされた牙も同様に、怪物の攻撃は何かに阻まれているようだった。 「こっちに来るなあああ!」  無我夢中で手元にあるものを掴み、怪物に向かって思いきり投げつけた。 『ナウ?』  ひらり、ひらり。  キラキラと虹色に輝く雪のようなものが俺と怪物との間でゆっくりと舞い落ちる。全く攻撃にはなっていないが、怪物の動きがぴたりと止まった。これは効いたのか?  再び大きな目が俺を覗きこんだとき、それが失敗だったとすぐにわかった。瞳孔が開き、『新しいおもちゃを見つけた!』とばかりに爛々と輝いていやがる! 『ナァアアアウ!』  ガリガリガリガリ  見えない壁を削ろうとしているかのように、怪物の二つの腕がせわしなく叩きつけられる。べたん、とひと際激しい音と衝撃に尻が一瞬浮き上がった。 「……肉球?」  視界の端から端を占めているのは、まぎれもなく|あ《・》|の《・》肉球だった。まさか怪物の足の裏を拝むことになるとは。そんな状況で踏み潰されなかったのは幸運としかいえない。  しかし見れば見るほど丸くてふっくらとした小豆色の可愛らしい肉球だ。よく見れば怪物の手は毛むくじゃらであることに気づく。熊やライオンだって肉球があるし、獰猛な生き物にだってこんなに愛らしい肉球があってもおかしくは―― 「ひいぃっ!」  気づけば長すぎる舌が迫っていた。血のような赤色の舌が壁に打ちつけられる。 「誰か……誰かいないのか! 助けてくれ!」  どうにか身体をひねり、這うようにしてあたりを見渡す。とにかく、どこか隠れる場所はないのか?  壁は行き止まりではなかった。さらに奥のほうに、木の幹のようなものが見えたのだ。震える腕を叱りつけて、まるで戦地の兵士のように匍匐前進でずりずりと身体を引きずる。その間も何度も地面が揺れ、転がるようにして幹の裏側に身を隠した。  ばくばくとうるさい心臓を手で押さえつける。荒い呼吸を鎮めようと長く息を吸った。音を立てないように細く静かに息を吐き出し、次の衝撃に備える。だが、突然訪れた静寂はしばらく経っても破られる気配がなかった。  震える指先で力いっぱい腿の肉をつまむ。 「痛っ!」  思わず上げた声を呑みこむ。慌てて木の向こう側を覗きこんだ。怪物の姿はもう見えない。  よかった……じゃない。 「夢じゃないのかよ!」  つまんだ腿のあたりをさする。まぎれもなくじんじんと疼くような痛みが残っている。そのとき、奇妙なことに気がついた。  俺は真っ白で柔らかな布地のズボンを穿いていた。よく見れば上も同じく白い長袖のTシャツのようなものになっている。だが、こんな服を買った記憶もないし、俺は確か――  ズキン、と頭に鋭い痛みが走った。いったいなんだっていうんだ?  少しの間うずくまり、ようやく落ち着きを取り戻した。木の陰からそろそろと抜け出す。なんとか足にも力が戻ったようだ。怪物の気配を探りながら、ゆっくりと立ち上がる。 「木……じゃない?」  立ち上がって気づいたのは、俺の身を守ってくれたものが、作り物の木だったということだった。よく出来ているが、木の幹も枝葉も陶器のようなものでできている。綺麗な緑色に塗られた葉の上にこんもりと純白の雪が乗っている。絵に描いた三角形のクリスマスツリーのようだ。背丈はまっすぐに立った俺に頭をもうひとつかふたつ付け足したくらい。  その隣にあるのは、木と同じくらいの高さしかない小さなログハウスだった。俺が最初にもたれかかっていたのは、この小屋の壁らしい。木のでこぼこした造形や色は見事だが、つるりとした質感でこれも陶器だとわかる。いくらなんでも家も木も丸ごと焼き物なんてありえない。  いや、もうありえないことしか起こっていない。  口の中に苦いものが広がる。ふと顔を上げると、ログハウスの扉が薄く開いているのが見えた。中から柔らかな光が漏れ出ている。  中に誰かいるかもしれない。淡い期待を抱き、そっと扉に近づく。扉は俺の胸の高さの位置までしかなかった。ほとんどしゃがむようにして中を覗きこんだ。 「なんだこれ……」  警戒心も放り出して、魅せられたように部屋の中に足を踏み出していた。外から見たログハウスは、俺の部屋の浴室よりも狭いんじゃないかと思うほどの大きさだ。だが、部屋の中は違った。広々とした部屋の奥には壁一面を覆う大きな暖炉があり、すぐ隣には小さなキッチン、手前には大きなベッドと本棚が置かれている。部屋には他に扉も窓もない。残念ながらひと気もないが、それなのにどこか温かで居心地の良い空間に思える。  暖炉もキッチンも、よく見れば外側と同じように張りぼてだった。ただ、暖炉の中の薪(もどき)の隙間からは、赤い光がぽうっと滲んでいる。暖炉の前には丸く毛足の長いカーペットが敷かれ、その上には乱雑にモノが転がっている。  ボロボロになったテディベア、蓋が破れているクレヨンの箱、擦りきれたスケッチブックと絵本が数冊。ここは子どもの遊び場なのだろうか。  それにしては不釣り合いなものがひとつだけあった。  綺麗にアイロンをかけられた紺色のハンカチを手に取る。薄いグレーのチェック柄とブランドの刺繍が入っている。  ズキン、とまた頭が痛んだ。見覚えがあるような気がするのに、どうしても思い出すことができない。 『ナナ? 何してるの?』  遠くから人の声が聞こえた。人間がいる! 続けてまたあの怪物の鳴き声が響き渡った。もし人間がいるなら襲われてしまうかもしれない!  俺はハンカチを放り投げ、慌てて小屋を飛び出した。 「誰か……えっ?」  でかい目玉が、ふたつ増えていた。 『こら、ナナ。これは僕がじいちゃんからもらった大事なスノードームだって言ったじゃないか。引っ掻いたりしたら傷がつくから、遊んじゃダメだよ』 「スノードーム……?」  ぐらりと世界が揺らぐ。盛大に尻餅をつき、そのまま小屋の壁に背中を打ちつけた。 『あれ……これ、なんだろう?』  最初の怪物とは違う、焦げ茶色の目玉と目が合った。  巨人だ。目と、鼻と、口と……人間と同じ造形だが、あまりにもでかすぎる。  おいおい、これはもしかしてアレか?  俺、食われちゃうやつ?  いやいやいや。俺がいるのは夢でも漫画の世界でもない。ここは日本で、俺は平凡なサラリーマンだったはずだ。いったい俺がなにをしたっていうんだ?  そうだ、思い出してきたぞ……さっきまで会社の同期と二泊三日のスノボ旅行に行っていたはずだ。パウダースノーで覆われた山は最高だった! そりゃ、冬のボーナスにちょっと浮かれて多少羽目を外していたかもしれないけど、ただ俺は、飲んで騒いで滑ってまた飲んで滑って――  まとまりきらない考えのせいで頭から煙が噴き出している気がする。  ああ。俺の人生、ここでおしまいか。平和でそれなりに悪くなかったが、「特別」なんて言葉とは無縁だった。  だからこそ最期くらい、ゆっくり年をとって、可愛い奥さんと子どもと犬に囲まれて、穏やかに死ねると思ってたんだけどな……  頭の中で何かがぷつんと音を立てた。視界が急激に狭まり、俺はそのまま意識を失った。

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