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2. outside

 澤田(さわだ)が僕の部屋で煙草を吸わないだけの分別があってよかった。  千晴(ちはる)は唐突に彼が訪れ、去っていく度にそう思うことにしている。一連の行為の中でたったひとつでもよかったところを見出さなければ、自分への嫌悪感に気が狂いそうになってしまうから。  いっそ気が狂えたなら、もっと楽だっただろうに。  澤田も、僕も、いつまでこんなことを続けるつもりなのだろう。 「千晴」  先ほどまでとは打って変わって、澤田が落ち着いた調子で名前を呼ぶ。 「ちゃんと食べているのか?」  返事をせずにいると、澤田は小さくため息をついた。 「アルバイトで食いつなぐなんて、体力ももたないだろう。本当に会社に戻る気はないのか? 俺なら、またお前を部下につけてやれる――」 「その代わりセックスしようって?」  ベッドの上で伏せたまま千晴はつぶやいた。聞こえていないと思ったのに、澤田はぐっと言葉を詰まらせる。 「……仕事の件はあとでメールする」  すっかり身支度を整えた澤田は滑らかに艶めく革の鞄を掴んだ。千晴はようやく上体を起こし、ただうなずく。澤田は黙って千晴をじっと見つめた。どこか失望したような表情に、千晴の胸はちくりと疼く。  結局、彼は何も言わずに部屋を出て行った。鍵が閉まるカチリという音は、世界と切り離される音に聞こえる。  ぶるりと肌が粟立つ。カーテンの隙間から冷気が降りてくるのを素肌で感じる。早く、このべたつく身体をなんとかしなければ。  がりがりがり  扉の向こう側から控えめな抗議が飛んできた。 「ナナ?」  バスタオルを身体にかけ、扉を開く。冷たいキッチンの床にちょこんと、千晴の同居人――猫のナナが座っていた。 「ごめんね、ナナ。寒かったでしょう? もう入っても大丈夫だよ」  ナナはペールブルーの瞳を鋭く千晴に向ける。「なぁう」と不満げな声を上げて、熱の残る部屋へ入っていく。ただし、乱れたベッドには見向きもしない。彼女は千晴が愛用しているデスクチェアにぽんと飛び乗り、もの言いたげな目で千晴を見た後、くるりと回って丸くなった。  そんなナナの仕草に千晴は苦笑いしてしまう。ナナは澤田のことが大嫌いだ。そんな風にはっきりと態度にあらわすことができる彼女が千晴には眩しい。  澤田が家に来れば、ナナはすぐにキッチンの戸棚の上に避難する。澤田もそれをよくわかっているらしく、ナナの存在を完全に無視していた。まあ、彼女の視線があってはまともな人間ならセックスなんかできるはずがない。  熱いシャワーを出すと、浴室全体が真っ白な湯気で満たされた。凝り固まった肩に湯を当てて、千晴はほっと息を吐く。  次に澤田から与えられる仕事はいったいどんなものだろう。  イベントのフライヤー、企業の社内パンフレット、ウェブ素材、ライブグッズ――世の中のどんなにちっぽけなモノだって、ありとあらゆる「デザイン」によって成り立っている。  クライアントの望みを現実世界にデザインとして落とし込む。それが千晴の仕事だ。フリーランスのグラフィックデザイナー、といえば聞こえはいいが、今はほとんどフリーターみたいなものだ。澤田が指摘したように、千晴は複数のアルバイトで生計を立てている。    ただ、セックスをするのは仕事ではない。  手首に薄く残る澤田の指の跡を見つめながら千晴は自分に言い聞かせる。ベッドに強く押しつけられたときについたものだろう。今日はやけに性急で、いつも以上に高圧的だった。 『誰のおかげでデザイナーとしてやっていけていると思っているんだ?』  澤田はベッドの上で千晴が抵抗を見せる度にそう叱咤する。当然、反論することなんてできなかった。デザインの仕事のほとんどは澤田から斡旋されたものだったから。  出会った頃は――もう六年も前のことだ。デザイナーとして、上司として、千晴はただ純粋に澤田に憧れていた。  恋を、していた。  男なのに、男を好きであること。千晴はそのことに長い間引け目を感じていた。澤田と出会うまでは今よりももっと酷かった。  初めてだったのだ。恋をするということも、誰かに受け入れてもらえるということも、身も心も明け渡すことも、なにもかも。  シャワーを止めて、薄いタオルを手に浴室を出る。すぐ目の前が小さなキッチン、右を向けば玄関という、ひどく狭い1Kのアパートだ。  突然思い出したように千晴の薄い腹が鳴り出した。普段は腹が空かないように省エネで生きているのに、たまに身体を動かすと急に飢えが襲いかかってくる。  適当につかんだ服を身に着け、冷蔵庫の中を覗きこむ。死にかけているもやしが二袋、エノキ茸が一袋。冷凍庫の中にラップに包まれた豚小間がほんのひとつまみと、小さいおにぎり程度のご飯。今日は冷えるし、腹持ちが良いように雑炊にでもするのがいい。  調理に取り掛かる前に、千晴は戸棚からキャットフードを取り出した。ただのカリカリではあるが、腹を下しやすいナナのために、獣医に勧められた添加物の少ないものを買っている。  カリカリが皿にぶつかる音を聞きつけたのか、ナナが飛んでやってきた。千晴の食費よりもナナの食費のほうがずっと高くついているし、栄養だってきっとナナのほうがバランスよく摂れている。千晴にとってはそれが当然のことだった。自分のことよりも、唯一の家族といえるナナのほうが大事に決まっている。  夢中になってカリカリを噛みしめるナナを見ていると、先ほどまでの鬱屈した気分が和らいでいく。よいしょ、と言って立ち上がり、腕まくりをする。今週末には今月のバイト代が入る。そうすれば、少しはまともな食材を買ってこれるはずだ。デザインの仕事が入るなら、さらに収入が上乗せされる。ナナのお気に入りのおやつを買ってあげよう。  大丈夫。ナナと僕と二人、まだ生きていける。  たっぷりと湯気がたちのぼる器を手に部屋に入ると、ナナがデスク横の棚でなにやらごそごそと動いていた。 「ナナ? 何してるの?」  普段のナナは、猫だというのにとても聞き分けがいい。デスク周りは千晴の仕事場であって、いたずらをしていい場所ではないとわかっているのだ。そんなナナが棚の中に顔を突っ込み、何かを必死になって追いかけているように見える。 「なぁぁぁう!」  近づくと、ナナの執着の対象は本と本の間に置いてあったスノードームだとわかった。今まで見向きもしなかったのに、突然どうしたのだろう。 「こら、ナナ。これは僕がじいちゃんからもらった大事なスノードームだって言ったじゃないか。引っ掻いたりしたら傷がつくから、遊んじゃダメだよ」  それは、今は亡き祖父が千晴が小学校に入ったばかりの頃にくれたクリスマスプレゼントだった。家族の中で、たった一人千晴のことを理解して、味方になってくれていた祖父。その祖父との思い出の品を、千晴はいつも身近なところに置くようにしていた。子どもの頃はキラキラと舞い落ちる雪を飽きることなくいつまでも見つめていたものだ。それなのに最近は、しばらくゆっくりと眺める余裕もなくなっていたことに気づく。  ナナの腕をよけて、久しぶりにスノードームを手に取る。土台の部分はどこかヨーロッパのクリスマスの街並みが細かく描かれていた。上に乗るガラスの玉は拳よりも大きく、中には陶器でできた雪の積もったモミの木とログハウスが入っている。窓は暖かな光の色に着色されていた。幼い頃、この家の中にはきっと大きな暖炉があって、家族みんながその火を囲んで仲良く冬を過ごしているのだろうと想像していた。そんな家にいられたらと思っていた。 「あれ……これ、なんだろう?」  ログハウスの前に、何かが倒れている。よく見ると、白い衣服を着た男の人形のようだ。  人形なんていたっけ?  そう思った瞬間、千晴は中の人形と目が合った気がした。しかも、その人形が動いたような気さえする。  千晴はデスクに置いてあった眼鏡をかけた。度が合っていないせいでなんとなく滲んでいるが、さっきよりはよく見える。  確かにそこには、目を閉じた男がぐったりと倒れていた。

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