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3. inside
目を覚ましたとき、俺は家のベッドにいて、愛用の布団にくるまれてぬくぬくとしていた。
――なんてことを、俺は目を開けるその瞬間まで頭の中で妄想していた。現実と向き合うのが恐ろしすぎて、意識が戻ってしばらくは断固として目を閉じたままでいたのだ。「カミサマ、どうか哀れな俺にご慈悲を……」と祈りながら薄くまぶたを持ち上げる。
結果としては残念ながら、俺の願望はまったく無視されてしまったらしい。
「まあ、神様には初詣くらいしか挨拶しないしなあ」
ひとりごちながら身体を起こすと、そこはそのまま意識を失った場所だった。目の前にはログハウスの壁がせりたっている。俺は右腕、左腕、右脚、左脚……と順番に持ち上げ、ぐるりと自分の身体を見回して五体満足であることを確認した。
食われていない。
「はあ……」
安堵感から長い息が漏れ出た。食いちぎられるのも丸呑みされて胃の中でゆっくり溶けるのも御免である。これが現実かどうかはさておき、ひとまずの危機は脱したということだ。
『うーん、もうちょっとかなあ』
頭上から響き渡る声に、俺はぎくりと身をこわばらせた。
おそるおそる振り返る。そこには、あの焦げ茶色の目の巨人がいた。唯一安全そうなログハウスに飛んで行こうとしたが、ふと我に返った。
意識を失っている間に食われなかった。つまりあいつは俺を食う気がないか、食うことができないかのどちらかだ。少なくとも今すぐどうこうしようというつもりはないのだろう。
俺は物音を立てないようにそっと立ち上がった。巨人は俺がいる場所から少し離れた位置に座っているらしい。最初は目玉くらいしか見えなかったが、今はその横顔がよく見える。
男、だろうか。肌の色は白く、顎の線はほっそりとしている。横から見ると、鼻の先がほんの少し上向いている。その上に縁の細い眼鏡が乗っかっていた。髪は短いが柔らかくうねっていて、明かりに照らされて淡く光っている。
こんな状況でなければ、綺麗な顔立ちだと褒めちぎっていたかもしれない。少し疲れたような、憂いを帯びた表情にも惹きつけられる。
いやいや、巨人相手に何言ってるんだか。まったく、俺も相当疲れてるらしい。
だが、この男がいったいどんなやつなのか、もう少し観察するべきだ。なぜか自分に言い訳をしながら、男に近づこうとした。
「うおっ!」
ごつん、と激しい音を立てて思い切り額をぶつけた。痛みを堪えながら、身体の前や頭の上に手を伸ばす。
目にははっきりと見えていないが、やはり俺と怪物との間を隔てていた壁がある。それはつるりとした感触で、上方に向かってなだらかに湾曲していた。壁に手をついたまま少しだけ歩いてみる。途切れる気配も継ぎ目すらもない。
「スノードーム……」
そう、巨人は言っていた。『これはじいちゃんからもらったスノードームだ』と。
俺は膝を折り、足元に散らばる白い破片を拾った。光にかざすと、貝殻のように虹色に輝いた。
まさか、そんなことあるはずがない。
混乱する頭を振って首を伸ばす。男の向こう側に――あれはベッドだ。そしてその上には、クリーム色の毛皮をまとった猫が丸くなって寝ていた。
ここは……ひどく狭いが、ごく普通のアパートだ。
つまり――つまりこの男と猫が巨人や怪物なわけじゃない。俺が本当の本当に、見知らぬ男の家のスノードームに閉じ込められてしまったということなのか……
『ううーん……ん?』
伸びをした男がこちらを見た。
『うわっ、え、うわああっ! や、やっぱり動いてる!』
どたばたとバランスを崩しながら男が立ちあがった。その音に驚いた猫が『ナァ!』と不機嫌に鳴く。
男は今にも心臓が口から飛び出しそうという顔で固まっていた。なんでわかるかって、こっちも同じ心境だからだ。というか、もうわけがわからなくて頭も身体もフリーズしている。そのまま、無言でお互いに見つめ合っていた。
先に復活したのは男のほうだ。ぱちぱちと目をしばたかせ、そろそろと俺に近づいてくる。
『僕もいよいよ頭がおかしくなったのかな……夜食べたもやしが傷んでいたのかも』
「いや、もやしのせいじゃないだろ」
思わずツッコんでしまったが、急に動き出した俺に男は目を見開いた。
『妖精、みたいな感じなのかな……でも羽が生えているわけでもないのか』
「違う、妖精なんかじゃない! 俺は人間だ! 助けてくれ!」
『ふふ、元気のいい妖精だなぁ』
大げさに壁を叩き、ジャンプを繰り返したというのにこの言われようだ。
もしかして、俺の声が届いていない?
とにかく注意を引こうと動き回る。男は眼鏡をずり上げて顔を近づけてきた。
やっぱり整った顔だ。だが、歪んだ眼鏡が驚くほど似合っていない。色白の肌は綺麗というより、どこか血色が悪く見える。年の頃は……俺と同じか、いや、少し下くらい?
『あれ……もしかして、何かしゃべってる?』
「そうだよ! た・す・け・て・く・れ!」
『うーん……』
「SOS! ヘルプ・ミー!」
俺の全身全霊の叫びも虚しく、男はベッドのほうへ向かってしまう。男はごそごそと何かを探っている。
突然、巨大な黒い筒が俺に向けられた。カメラのレンズのように見える。ぎょっとする俺に向かって『もう一度しゃべって』と男が声をかける。
「助けてくれ!」
『…アウエウエ?』
「違う……」
俺はがっくりと膝をついた。絶望だ……俺は一生このままここに閉じ込められてしまうのか。
『……もしかして、ここから出られないの?』
心配げな声音に、俺は顔を上げた。とにかく大きくうなずく。おまけに、腕で大きくマルを作ってやる。
『そうなのか。僕の声は聞こえてるんだね?』
マル。
『あなたは妖精なの?』
バツ。
『そっか……じゃああなたはいったい何者?』
それは俺が聞きたい。
だが、このカオスな状況に一筋の光明が差し込んだ。イエスかノーで答えられる質問であれば、なんとかコミュニケーションをとることができそうだ。
『そうだ、名前は?』
ただし、この綺麗だがぼんやりとした男はそのことをいまいち理解していないらしい。
「ソウ!」
どうせ長く答えても仕方がないと下の名前を答えるが、『オウ……コウ?』と言われてしまう。肩をすくめたのすら肯定と捉えられてしまった。
『コウくん、だね。僕はチハル。あそこにいるのはナナ』
ベッドの上でナナの耳がぴくりと動いた。
『あっ、まずい。バイト行かないと!』
チハルと名乗った男はそのまま慌ただしく荷物をまとめて部屋を出て行った。
扉が閉じるのを見計ったように、ぽす、と何かが落ちるような音がした。ナナがデスクに上がり、ゆったりと近づいてくる。
「おまえ、猫だったんだな……」
『ナウ』
まるで俺の声が聞こえているように返事をする。猫は普通「にゃあ」って鳴く気がするが、こいつはちょっと変な鳴き方だ。
ナナの身体全体はクリーム色だが、顔は鼻先に向かって焦げ茶色になっている。耳も同じ茶色だ。シャム猫の血が入っているのかもしれない。最初に見たときはあの薄い水色の目玉が恐ろしくてたまらなかったが、猫だとわかれば可愛らしく見えてくる。まあ、ちょっとデカすぎるが。
俺がじっとしているからか、ナナはつまらなさそうにあくびをしてデスクの奥をあさりだした。がさがさと音がしたと思ったら、紫色の大きなビニル袋のようなものに噛みついて遊んでいる。まったく、俺が窮地に陥っているというのに呑気なものだ。
急にくたびれた気分になる。チハルとの会話はひどくもどかしいものだった。なにせこちらから質問を投げかけることができないのだ。結局俺がわかったことと言えば、チハルと猫の名前だけ。ここがどこで、今が何月何日で、どうやったらここから出られるのかわからないままだ。
もう一度壁に手を当ててみる。壁は見えていないが、足元に境界がある。地面と壁の間に隙間はない。
スノードームの構造を思い出してみれば当然だ。中は液体で満たされているはず。漏れるようになっているはずがない。雪を模した軽い破片が液体の中でゆっくりと落ちるのを楽しむものだ。
そう考えると不思議なものだ。俺は今までどおり――普通の人間と同じように呼吸をしている。味を感じるわけでもないし、そういえば腹も減らない。用を足したいとも思わない。
身体をぐっと伸ばしてみる。おお、あれほど悩まされていた肩こりもない。ふと思いついて、その場でジャンプをしてみた。
「うがっ!」
勢いがつきすぎて見えない天井に頭突きをしてしまう。どうやらこのスノードームはそれほど高さもないらしい。それに、思った通り身体が軽かった。ぴょんぴょんと軽く跳ねてみる。やった、宙返りだってできる。月面着陸した宇宙飛行士はこんな気分だったのだろうか。
だんだん楽しくなってきて飛んだり跳ねたりしていると、ナナが俺の動きに誘われて再び近づいてきた。
「ほれっ」
『ナァ!』
「どうだ!」
『ナゥウ!』
右、左、上にジャンプ。人間猫じゃらしで遊ぶナナは野性味たっぷりだ。興奮で尻尾が膨らんでいる。
ナナがもう一度大あくびをするまでたっぷり遊んでやったというのに、なぜか俺は疲れ知らずだ。だが、身体を存分に動かしたおかげで頭の血の巡りが良くなった。
この摩訶不思議な状況を鬱々と過ごしたって仕方はない。
ナナという相棒を得て、俺はそう考えることにした。
「ま、入ることができたんだ。そのうち出ることもできるさ」
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