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4. outside

 午前四時。夜明け前の街はまだ眠りの中にいる。千晴が漕ぐ自転車のきしみ音だけが響いては消えていく。吐き出された息は白くけぶり、耳をなでて後ろへ流れる。  しびれるような冷たい空気が千晴の頬をピシャリと叩く。結局よく眠れていないが、おかげですっかり眠気が吹き飛んだ。バイト中にうとうととする心配はなさそうだ。  ようやく身体が温まったころに、背の高いビルの前に到着した。複数の企業が入るオフィスビル。ここが千晴の仕事場のひとつだ。  自転車を降り、リュックの中からカードを取り出す。ゲートが開く機械音で居眠りしかけていた守衛がぎくりと肩を震わせた。 「ああ……清掃ですね。ご苦労さん」  取りつくろうように笑みを浮かべる男に、千晴は会釈だけを返してエレベーターへ向かった。 「えー、今日もまあ、作業分担はいつもどおりでいいですかね。誰も休んでないよね?」  いつも通り頭痛がひどいと言いたげな顔でチーフが話す。指示は雑だが、余計なことも言わないので千晴はこの初老の男が嫌いではない。  千晴の周りには五十から七十を超える年齢の男女が並んでいる。ぎりぎりとはいえ二十代の千晴は、本来なら異色の存在のはずだ。ところが、同じ水色の薄い割烹着のようなユニフォームを着て、ピンク色のゴム手袋をつけてしまえば、全員もれなく「掃除のおばちゃん」に変身できてしまうのだ。 「千晴ちゃん、おはよう」 「キヨシさん、おはようございます。行きましょうか」  おっとりとした声につられて千晴も微笑む。キヨシさんは頭のてっぺんが千晴の胸のあたりと小柄な男性だ。キヨシさんとはこのビルに配属されて以来、ずっとペアで仕事をしている。極力人と話さないようにしている千晴の唯一の例外だ。七十代くらいではないかと踏んでいるが、正確にはわからない。キヨシさんも、千晴のことはほとんど知らないはずだ。  ゆっくりと歩きだしたキヨシさんの後ろを、数歩遅れて歩く。  そう、これくらいの距離感がちょうどいい。  ビル清掃のバイトを選んだのは、早朝のシフトで他の仕事と掛け持ちができること、それから人と密接に関わらなくても済むことが理由だった。それでも最初の頃は、若いのにどうしてこんなところにいるのか、何か訳ありなんじゃないか、どんな学校に行っていたのか、奥さんや恋人がいるのか――なんて面倒な質問を矢継ぎ早に投げかけられたりもした。そんな質問をするのは、決まって母親くらいの年齢の女性だ。きっと親心のようなものがあるのだろう。  根掘り葉掘り訊こうとする人に悪意があるとは思っていない。だから最初はなんとか応えようとしたのだ。ただ、嘘も含めて気の利いた返しをできるほど器用でもない。うまく応えられないたびに、相手に呆れられたり、がっかりしたような顔をされたりするのが千晴にとってはとても辛いことだった。それが自分の母親と重なるような相手なのであれば、なおさら。  それなら、最初から関わらなければいい。そうすれば相手に迷惑をかけることも、失望されることもない。  その点、キヨシさんは千晴が話そうとしなければ何も訊かず、穏やかに接してくれる。自分を可愛がってくれた祖父にどこか雰囲気が似ているのも居心地がいい理由かもしれない。 「おやまぁ……」  キヨシさんの声で我に返る。担当フロアの給湯室に着いたところだった。  コーヒーの香ばしい匂いがあたりに漂っている。普通であれば心地よいアロマかもしれないが、床は茶色に染まって埃までこびりついていた。 「キヨシさん、僕手伝いますよ」 「うーん……そうだねぇ。お言葉に甘えていいかい?」 「はい。他の場所はあとでやっておきますから」  いつもなら給湯室はキヨシさんの担当だが、この惨状を時間内に片づけるには一人では難しいはずだ。千晴はうなずき、掃除道具を手に取る。  マットの端の染みを叩きながら千晴は家でのことを思い出していた。給湯室の反対側で床を磨いているキヨシさんをちらりと見る。  スノードームの中に小さな男の人がいた、なんて誰も信じないよね?  最初は強い幻覚でも見たのかと思っていた。ここ一年以上ずっと不眠気味だったし、仕事のことも澤田とのことも、頭の中でいつかパンクしそうだと思っていたからだ。  部屋での光景を思い出すだけで思わず笑みがこぼれる。幻覚だったとしても、妖精と話ができるなんてまるで童話の世界みたいだ。小さい頃お気に入りだった絵本にも可愛らしい妖精が出てきて、いつか自分の目の前にも彼らが現れるのだと頑なに信じていた時期があったっけ。  妖精じゃないって言っていたけど、本当だろうか。  彼の名前はコウというらしい。白い衣服に包まれた身体はすらりとしていた。元気いっぱいに飛び跳ねている姿も、やっぱり絵本の中の妖精みたいだった。 「あとは僕だけでできるから、次に行っても大丈夫だよ。ありがとう、千晴ちゃん」  キヨシさんの声に顔を上げる。するとキヨシさんは、おや、という表情をした。 「千晴ちゃん、何かいいことがあったんだねぇ」 「え?」  千晴は首をかしげた。キヨシさんはただにこにこと微笑んで作業に戻る。  いいこと、か。  いいことなんてナナと出会って以来なかったんじゃないかな、と考える。それどころか、悪いこと続きだった。そんな生活の中で摩訶不思議な体験ができているのは、確かにいいことなのかもしれない。 「しまった……」  担当のトイレに向かう途中、すでに二人の人間にすれ違った。  時刻は五時半。普通に考えれば出社するには早すぎる時間だ。本当であれば、トイレの清掃は人が来はじめる前に済ませておきたかった。いつもなら最優先で終わらせていたが、今日はもう仕方がない。  軽く全体の床を掃いて個室に入ったとき、がたんと物音がした。千晴は無意識に身を強張らせる。  そろそろと個室を出て様子を見る。隣の個室に人が入っただけのようだった。心臓を押さえながら、一度トイレの外に出る。  情けないな、と千晴は思う。壁にもたれかかり、手袋を外してポケットを探る。  紺色の地に薄いグレーのチェック柄が入ったハンカチを取り出し、固く握りしめた。  *  半年前まで、千晴は別のビルの清掃チームに配属されていた。朝早くにビルへ赴き、黙々と掃除をすることは今と何も変わらない。  その日も、いつも通り男性トイレを担当していた。個室に入り、床を拭いて立ち上がろうとしたときだった。 「君、若いね。いくつ?」  背後の気配に気づかなかった。二の腕のあたりを両側から強く掴まれる。耳元でささやかれた言葉にぞっと肌が粟立つ。 「いつもここの掃除をしているよね。若くて綺麗な子がいるなって前から気になってたんだ」  背中から男の熱を感じる。吐息が荒い。力いっぱい振り切りたいのに、恐怖のせいで意思に反してまったく力が入らない。 「ああ、やっぱり腕も……腰も細いね。想像したとおりだ」 「ひっ……」  抱きすくめられ、うなじに鼻をこすりつけられる。腰のあたりに硬いものが当たっていた。これから起こるであろうことが頭に過ぎり、吐き気が込み上げてくる。早朝のこの時間、人はほとんどいない。男はそれをわかった上でやっているのだろうか。 「やめて、ください……あっ」  千晴の腹をまさぐっていた分厚い手がベルトにかかった。 「大丈夫、優しくするよ」  留め具は簡単に外され、男はジッパーを引き下げようとした。 「やめて!」 「何をやってるんだ!」  壁の向こうから若い男の声が飛んできた。千晴を押さえつけていた腕が強張る。慌ただしく近づく足音に救い求めて振り返る。個室の出口を塞ぐようにスーツを着た背の高い男が立っていた。 「くそっ」 「うわっ!」  千晴を襲おうとしていた男が若い男に体当たりをした。そのまま男は滑るように走って逃げていく。千晴を助けてくれた男は背中を壁に打ちつけられ、苦しげに呻いていた。 「逃げられた……いや、まだ間に合うか」  後を追いかけようとする男の腕を千晴は掴んだ。 「だ、大丈夫です」 「え、どうして? 早く行かないと――」  いまだに駆け出そうとする男をもう一度引き留める。 「いいんです。あなたが来てくれたお陰で、何もされなかったから」 「そんな……でもあなたは怖い思いをしたでしょう? あの男が誰かわかれば、会社に言って――」  男がまっすぐに千晴を見つめた。綺麗な目だなと思った。正義感が強くて、優しくて、純粋な人なんだろう。 「僕が男に襲われそうになった、と報告することになるんですよね。それを聞いた人は、いったいどう思うんでしょうね」  男は虚を突かれたような表情になる。わからないんだろうな、と千晴は思った。 「でも、あなたは被害者だ。泣き寝入りするなんて――」  千晴が頭を横に振ると、男は口をつぐんだ。 「もう大丈夫ですから。助けてくれてありがとうございました」  頭を下げて踵を返そうとしたとき、今度は男に腕を取られた。 「じゃあ……なんで泣いているんですか?」 「え?」  袖で顔を拭おうとするのを止められる。男はポケットから薄いハンカチを取り出した。 「これ使ってください。あ、まだ一度も使ってませんから」  千晴の手のひらにハンカチが押しつけられる。 「俺……やっぱり行ってきます。ここのフロアの人間なら、今見に行けば背格好でわかると思う」 「あっ」  男はそのまま走り出した。引き留める間もなく姿が見えなくなってしまう。  千晴はハンカチを握りしめたまま呆然としていた。   清掃会社の本社に電話で呼び出されたのは、その翌日のことだった。 「君が担当しているフロアの企業から苦情が来てね」  人事担当の関と名乗る男がソファでゆったりと足を組む。 「うちの会社の若い清掃員が男性トイレでふしだらなことをしていると言ってきたんだ。それは本当か?」 「なっ……」  思わず絶句する千晴に向かって関は疲れたように言う。 「若い清掃員、って言ったら君しかいないんだ。本当のことだったら、君を解雇するしかない」  そんなこと、と言いかけて千晴は息を呑んだ。襲ってきた男の顔は見えていなかった。それに、千晴は警察にも雇用主にも誰にもこのことを言うつもりはなかった。だが、そのあと助けてくれた男が追いかけていった。何か追求されたのかもしれない。本人は証拠も何もないと白を切るだろう。  だが、千晴がその後何か言ってこないとも限らない。そう思った男が、千晴を切り離すために手を打った可能性がある。 「誤解があります。僕はそんなことをしていません」  千晴は迷いながらも、前日に起きたことをかいつまんで説明した。  関は千晴をじっと見つめたあと、小さくため息をついた。 「それじゃあ、君が被害者だって言うんだね?」  千晴はうなずく。 「でも、それが本当だと誰が証明できる?」 「え……」  投げかけられた問いかけに愕然とする。 「いや、疑っているわけじゃないんだ。君のことは他のスタッフから聞いている。真面目で、仕事をきっちりとする子だとスタッフ全員が口を揃えて言っていたよ」 「じゃあ――」 「だが、クレームに対応しなかったら契約を切られてしまう。うちとしてもそれは困るんだ。それに、結果的に何もされていないんだろう? 向こうにはうまく言っておくから、違う場所に移ってもらえないかな。解雇されないんだから、君にとっても悪い話じゃないだろう」  ぽつぽつと雨が降る中、千晴は傘もささずに社屋を出た。ぐるぐると頭の中で悔しさとやるせなさが渦巻く。  結局、千晴が受けた被害についてはまともに取り合ってもらえなかった。いつだってそうだ。性被害を受けたと言っても、男のくせにどうしてと言いたげな表情をされる。 「でも、あなたは被害者だ」  ふと千晴を助けてくれた男を思い出した。彼だけは違った。千晴を軽蔑することもなかった。あの強いまなざしは本気で心配してくれていたものだと今ならわかる。  男が再び戻ってくる前に千晴は逃げ出した。怖かった。千晴を助けて、信じてくれたにも関わらず、千晴自身は男のことをすぐに信じることができなかった。  *  ハンカチは、返せないままだ。  何度か昼間に彼のいるビルに行こうとした。だが、千晴を襲った男と遭遇する可能性を考えると、どうしても足が動かなかった。  もう二度と彼と会うことはないかもしれない。半年も前のことで、お互いに会ったとしてもわからないかもしれない。  それでももし、またどこかで会えたなら。信じてくれて嬉しかった、ありがとうと彼に直接伝えたかった。  千晴はお守り代わりのハンカチをもう一度ポケットの奥底にしまいこんだ。

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