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5. inside
スノードームの中は寒くも暑くもない。
ついでに言えば、俺は汗もかかなければ腹も減らない。眠くもならないし疲れもしない。身体はちょっと軽くて、腰痛も肩こりもない。
ただひとつ、この場所から抜け出せないこと以外は、いたって快適な場所というわけだ。布団も張りぼてではなくふかふかなのもいい。
ログハウスのベッドの上で俺はごろごろしている。
もうひとつ困ったことと言えば、ひたすら退屈なことである。
チハルはいつも忙しそうにしていた。家を空けることがほとんどで、いたとしてもデスクに向かってなにやら作業をしていることが多い。
作業中のチハルを見るのは、俺の退屈しのぎのひとつだ。チハルはたまに「うーん」とか「ダメだなぁ」とか言っているが、言葉で言っている割に楽しそうに見えた。よほどその作業が好きなんだな、と俺は思っている。なにかに没頭している横顔は、とても綺麗だとも思う。時々眼鏡がずり落ちてきて、ちょっとだけ眉をしかめるのも、なんだか可愛げがある。
そんな風にぼうっと見ていると、時折思い出したようにチハルが俺のほうを向く。「よっ」と手を上げると、チハルは控えめに微笑む。そしてナナの頭をひと撫でして、再び作業に戻る。
ナナは甘えるように『ナゥ』と鳴いて、チハルの腕に額をこすりつける。そして俺をちらっと見て、フフンと勝ち誇ったような顔をする。ここまでがひとセットというところだ。
チハルからすれば、俺はもはやエサやトイレのしつけのいらない金魚みたいなものだ。つまり悲しいかな、俺の立ち位置はナナと同列かそれ以下ということになる。
最初の頃はチハルも質問責めだったが、やっぱり言葉が一方通行でしか届かないのはなかなか辛いものだった。俺の全力のボディランゲージにも限界がある。結局、チハルからは脱出するのに必要な情報を得ることはできなかった。
諦めたわけではないが、できないことにしがみついても仕方がない。常に楽観的であれ、が俺のモットーだ。臨機応変に、まずは今できることを探るのが重要なはずだ。
そんなわけで、俺はまずログハウス内の本棚にある本を片っ端から読んでいっている。ここにある、というだけで何か意味があるのではないかと考えたからだ。念のため言っておくが、決して暇すぎるからではない。たぶん。
大きな本棚には、文庫本やハードカバーなどさまざまな本が隙間なく並んでいる。児童文学からミステリー、SF、ノンフィクションのものもあるが、一番多いのはファンタジーのようだ。
最近はめっきり読書の機会が減っていたが、児童文学は俺にとっても懐かしいものが多かった。小学生の頃に人気があった作品で、どれも図書館では引っ張りだこだったのを覚えている。
今俺が読んでいるのは、他の本とは少し毛色の違うライトノベルだ。主人公が男子高校生で、冒頭でいきなり交通事故に遭ってしまう。そしてそのまま異世界に飛ばされてしまうのだ。
この本を読み始めたとき、俺はぎょっとしてしまった。
ここは異世界なんじゃないか。少なくとも、俺がいるスノードームは異空間だ。このログハウスだけを見ても、かなり不思議な空間なのだ。外から見たサイズと内側のサイズが大きく違うことから、時空のゆがみのようなものがあるんじゃないかと俺は考えていた。(すっかりファンタジー脳になってしまっているが、いたって正気だ。)
主人公が飛ばされた先の世界では当然のようにさまざまな困難が待ち受けている。だから主人公はことあるごとに元の世界に戻りたがっていた。俺はこれ以上小説に共感することはないだろうというくらいに主人公に感情移入しているのである。
それと同時に、嫌な考えが浮かぶ。
もしかして、俺も死んじゃってたりして?
ズキン、とまた頭に鋭い痛みが走る。
この本はシリーズもので、全部で四巻だ。主人公が無事に元の世界に戻ることができるのか、結末を知るのが怖くて、最終巻を手に取ることができない気がしている。
それでも、元の場所に戻るためには何か行動しなければ。
意を決してベッドから降りる。臙脂色の絨毯を踏みしめ、すとんと腰を下ろした。
目の前には絵本がある。
絨毯の上の品々に触れることを、これまで何度も考えた。だが、どうしても手を出すことができなかったのだ。誰かの大切なものだというのがありありと伝わってきたから。
ではなぜ今になって決意したのか。それはある予感が芽生えたからだ。
『ゆきのふるのよる』
やわらかなタッチで描かれているのは、このログハウスとそっくりな小屋が入ったスノードームだ。横に長い絵本を開く。
長い冬の夜をひとりぼっちで過ごしていた男の子が、どこからともなく聴こえる声に誘われてスノードームを見つける。ガラスに触れると、男の子はいつの間にかスノードームの中に入りこんでしまうのである。中のログハウスでは妖精だけでなく、ウサギやクマ、キツネなどの動物たちが身を寄せ合ってパーティーをしていた。小鳥が歌をうたい、タヌキが拍子を合わせて腹太鼓を叩いている。
俺は顔をあげ、部屋の中を見渡す。暖かな火を抱く大きな暖炉、くつくつと煮立つスープの大鍋が乗ったキッチン。絵本のイラストにそっくりだった。
男の子は寂しさを忘れてパーティーを楽しむものの、ずっとここにいたい、またひとりぼっちになりたくない、寂しいおうちに帰りたくないとぐずりだす。妖精たちに自分の家族を大切にしないといけないよと諭され、男の子はお腹いっぱいになって眠ってしまう。目が覚めると、いつものベッドの上に戻っている。雪の事故で足止めされていたという両親もようやく帰ってきて、最後には家族揃ったパーティーのシーンで幕を閉じる。
俺は絵本を閉じて、自分の予感を頭の中で反芻する。
ここはチハルの、記憶か想像の中の世界なのではないだろうか。
最初は俺自身の記憶が関係しているのではないかと思ったが、すぐに違うとわかった。見たことのないものが多すぎたからだ。次に、児童文学の本の種類から本棚の本の持ち主は俺と同世代の人間なのではないかと考えた。
そうなると、最も身近なところではチハル以外に考えられない。やっぱりチハルが、脱出の手がかりを握っているはずだ。
隣に置いてあったスケッチブックを手に取った。鉛筆でさまざまなものが描かれている。皿の上に載ったりんご、花瓶に活けられた大ぶりなユリの花。ページをめくると、今度は街の風景が加わる。カフェで新聞を広げる老人、おしゃべりをする男女、待ちぼうけのようすの青年。繊細で線にあまり迷いがないように見える。なにより、絵の中のものも人も生き生きとしていて、見ているほうも楽しくなる。
ページをめくると、次に今よりも少し幼いナナが描かれていた。
「やっぱり……」
このスケッチブックもチハルのものに違いない。小首を傾げているナナの目はこぼれおちそうなほど大きい。
「今のナナはもっとふてぶてしいぞ」
絵の中のナナに言って次のページをのぞきこんだ。
「これって……」
一枚のページに男の横顔が描かれていた。男、っていうかこれは――
「俺?」
自分の頬に手を当ててみる。久しく自分の顔を見ていないが、どことなく似ている気がする。
これまでの絵と違うのは、線がかなり多いことだ。輪郭や目元は特に何度も描きなおしているのがわかる。
もし本当にこの絵が俺だとしたら、俺はチハルに会ったことがあるのか?
『サワダさん、どうして来たんですか? 先日の依頼のデータはもう送っているはずですが』
外からチハルの少し緊張したような声が聞こえてくる。
『仕事がなければ来ちゃいけないのか?』
『他に理由がありません』
『あるさ。俺がおまえに会いたい。それだけで充分だろう』
俺はログハウスからそっとようすを窺う。知らない男の背中が見えた。スーツを着ている。チハルの顔はよく見えないが、男の前に立っているのだろう。
『お酒を飲んできたんですか?』
チハルの声はまだ緊張をはらんでいる。あまり男のことを歓迎しているようには聞こえなかった。
『ああ、会社の上の人間とちょっとな。まったく景気も悪いし嫌な話ばかり聞かされたよ。あいつらは現場の苦労なんてなにもわかっちゃいない』
やや長い髪をかきむしり、男がジャケットを脱いだ。
『だから途中から千晴のことをずっと考えていたんだ。そうしたら、いてもたってもいられなくなった』
ん?
俺の疑問をよそに男がチハルの肩を掴んだ。
『もうやめてください』
『どうして?』
チハルは黙ったままでいる。
『まだ信じていないのか? 何度も言っただろう。あの女とは離婚する。娘のこともあって協議では条件がまとまらなかったんだ。調停に移ることになって時間がかかっているだけなんだよ』
んん?
いやいやいやちょっと待て。こういうのって、絶対嘘だよな。奥さんと別れるフリをして愛人をキープ。不倫の典型みたいなもんだろ?
『あっ、やめ――んんっ』
どん、と壁が揺れた。男は顔を傾け、チハルに覆いかぶさっている。
というかそもそも男同士、だよな? このサワダとかいう男、奥さんがいるのに男に――チハルに手を出してるってことか?
ちゅっと生々しい音が静かな部屋に響く。
『前は会社で毎日会えていたのに、今は月に数回しか会えていない。俺にはもう千晴しかいない。もっと一緒にいたいんだよ。おまえもそうだろ?』
『でも……あっ、やめて――』
『難しいことを考えなくていいんだ。俺が全部面倒を見てやるから』
『んっ……』
なにかを堪えるようなチハルの声に胸を締めつけられる。
俺は見えない壁を叩いた。何がなんだかわからないが、今すぐチハルの手を引いて助け出したい。だが、この壁は俺の叫びも願いも通してはくれない。
『どうして声を抑えてるんだ? いつもみたいにもっと聞かせてくれよ』
『だめっ……あ、んんっ』
鼻にかかったような喘ぎ声に水音が混じる。
『お願い……見ないで』
チハルがはっきりとそう言った。俺ははっと我に返る。
『何言ってるんだ?』
男はチハルの身体をまさぐりながらチハルの首筋に顔をうずめる。
この距離で目が合うはずがなかった。だが、チハルは確かに俺のほうを見ていた。
俺は咄嗟にログハウスの中へと飛び込んだ。
『あ、いや、だ……あぁっ』
『嫌だ嫌だと口ではいつも言うが、身体はそうは思っていないみたいだ』
『は、あああっ』
『おまえの身体はどこもかしこも敏感で可愛いよ』
『んあ、だめ、もう――ああっ』
「チハル!」
なぜか俺は叫んでいた。チハルの声を聞きたくなかった。身体の内側から、悔しいのか、悲しいのか、腹が立っているのかわからないような、ぐちゃぐちゃの感情が噴き出してくる。
それでも俺の声は届くはずがない。
耳を塞いでも、目を閉じても、部屋の中でわんわんと音が響いている。
『ん、あ、イく、――』
俺は自分の頬を鋭く叩いた。チハルのものだと思っていた荒い息遣いが、自分の呼吸だと気づく。鼓動が激しく、煮えたぎるように熱い血液が身体中を駆け巡るように錯覚する。
ベッドに駆け寄り、布団を跳ね上げて飛び込んだ。頭から布団を被る。枕をひきずりこみ、役立たずの耳に強く押し当てた。
いつのまにか眠っていた、というよりは気を失っていたらしい。
慌てて身体を起こす。あたりは静かだ。人の声も物音もしない。俺はおそるおそる扉を開いた。
部屋は薄暗かった。デスクのスタンドだけが点けっぱなしになっている。カーテンの隙間から弱い光が入りこみ、ベッドの上を照らしていた。
チハルはこちらに背を向けて眠っている。その隣に、誰かがいるようすもない。
もしあの男が恋人だというのなら。本当にチハルのことを想っているというのなら。毛布から見える薄い肩が、これほど寂しげに見えるはずがない。
せめてそばに行くことができたら――いや、俺なんかになにができただろう。
「チハル……」
目の前にいるというのに、手が届かない。
自分ではない、誰かのためにスノードームから抜け出したいと願ったのは、そのときが初めてだった。
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