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After story: side-C

 潰れた跡の残るレトルトパックのラベルを一時間は眺めている。いや、実際にはその裏側に浮かぶ奏の顔を思い出していた。  見損なった。  軽蔑した。  失望した。  きっとそんな表情だったはずだ。見なくてもわかる。千晴は奏に嘘をついたのだから。  奏と再会したあの日、彼は千晴を抱きとめたまま「あなたのことをもっと知りたい」と言った。嬉しかった。すぐそばでずっと見守ってくれて、普通なら知るはずのない千晴の姿――男を好きになることを知っている人が、再び千晴と関わり続けようとしてくれるなんて、思ってもみなかったから。  何度か食事をするうちに、相手のことをもっと知りたくなったのは自分のほうだった。  仕事の話をしている奏は落ち着いて見えるが、基本的に気持ちがいいほど明るい人だ。エネルギーが全身からあふれていて、前向きでおおらか。一緒にいるだけで元気をもらえるのは、彼がスノードームの中にいても外にいても変わらないと気づく。  彼ともっと一緒にいたい。そう考え始めるのにそれほど時間は必要なかった。  たまに送られてくるメッセージが嬉しい。さりげなく体調を気遣う言葉や、ナナの思い出話、何気ない日常の報告も、文字から優しさが伝わってくるようだった。でも仕事が関わっている間は自重するべきだと思っていたから、本当はもっと話したいのを堪えて切り上げるようにしていた。自分からメッセージを送るのだって我慢していたのだ。  依頼が終わってしまっても会ってくれるのだろうか。  奏の言葉や表情からにじみ出る淡い好意を信じてもいいのだろうか。  ひとりでいるとき、何度も奏のことを考えていた。考えるだけで、自然と頬が緩んでいた。  そして最後に食事をした日、奏は付き合っていた彼女たちの話をした。    千晴は突然頬を引っぱたかれたような気分になった。  何を勘違いしていたのだろう。奏は千晴と違って、もともと男を好きになる人間ではない。女性が好きで、今までに複数の人と付き合っていたのだ。  男同士で交際することは、いまだに世間で受け入れられないことが多い。たとえ一時は千晴のことを受け入れたとしても、そのうち耐えられなくなって離れていってしまうかもしれない。  そう考えると急に怖くなった。  奏の存在はすでに再び千晴の日常に溶け込み始めていた。温かな優しさはするりと肌に馴染んでいく。千晴を抱きとめた力強い腕の感触もはっきりと覚えている。あの大きな手でもっと触れてほしいとすら願ってしまう。  もうとっくに好きになっていたのだと――恋に、落ちていたのだと、あの瞬間に気づいてしまった。  制御できなくなっていた心で、つまらない嘘をついた。誘いを断っても責めない彼に、咄嗟に言い訳をしてしまったのだ。  少し時間が欲しかった。これ以上奏に近づいていいのか、わからなくなっていた。そんなのは自分勝手な理由だ。結局、奏の優しさを踏みにじることになった。  このまま奏と離れていいのか。何度も、何度も自分に問いかける。  ――嫌だ。  答えはあきらかだった。嫌だ、絶対に嫌だ。いつかは女性がいいと言い出すかもしれない。それでも今は嫌だった。  澤田に恋をしていたとき、その感情はふわふわとした捉えどころのないものだった。  でも今は違う。こんなにも強く焦がれる気持ちを抱いたのは初めてだった。  *  ビルの自動ドアが開くたびに、千晴は震える身体をぐっと伸ばして出てくる人の顔を窺う。金曜日だからか、定時の十七時にはどっと人が出てきた。二十時になった今では、人影もまばらになっている。それでも奏の姿は見えない。  昼間は春の気配に包まれていたはずなのに、夜になってぐっと冷えてきていた。家を出たとき、着るもののことを考える余裕なんてなかった。会えるかどうかわからないが、それでも行かなければ。その想いだけで今、ビルの前に立っていた。 「お疲れ様でしたー」  少しくたびれた声とともに複数の男女が出てきた。その中にひと際背の高い男がいることに気づく。一瞬怯んだ心を千晴は自分で叱りつけた。 「成海さん!」  からからに乾いた喉はそれほど大きな声を出してはくれなかった。それでも奏ははたと足を止める。 「……千晴さん?」  肝心なときに震えて足が前に出ない。奏が驚いた様子で駆け寄ってきた。 「え……もしかして俺を待っていたんですか? いったいいつから? こんな薄着で、身体冷えてるじゃないですか!」  奏が千晴の冷え切った指先を握りこむ。こんなときまで惜しみなく注がれる優しさに胸が痛くてたまらなくなる。 「あなたに、きちんと謝りたくて……」  奏の動きが止まる。指先から手全体を両手で包み込んで奏は千晴を見つめた。 「ここからは俺の家のほうが近いので、そこで話しませんか」  シューッと湯が沸く音の合間に、かちゃりと金属がぶつかる音が混ざる。次第に暖まってきた部屋の中央で、千晴は自分を包んでいた毛布を一枚だけ剥いで畳んだ。奏が部屋に入るなり千晴をソファに座らせて、大きな毛布を何枚も運び込んできたのだ。  広い部屋は綺麗に片づけられている。奏の几帳面な性格が現れているようだ。ソファの前にはガラス張りのカフェテーブル、その正面には大きなテレビが置かれている。テレビの横には本棚があって、文庫本からレシピ本まで大小様々な本が並んでいた。  背後から足音が聞こえてくる。 「ココア、苦手じゃないですよね?」 「あ……ありがとうございます」  手渡されたマグカップにはなみなみとココアが注がれていた。苦手じゃない、というのは以前、千晴が喫茶店でココアを注文したことを覚えていたのだろう。 「いただきます」  湯気がたちのぼるカップに口を付ける。一口飲んで驚いた。甘さはかなり控えめで、華やかな香りがする。 「身体が温まるように、少しだけブランデーを入れています。もう寒くないですか?」  そう言いながら、奏は千晴の隣に座った。千晴は顔を上げ、マグカップをテーブルに置く。 「成海さん……この間、僕はあなたに嘘をつきました。今日はそれを謝りにきたんです。本当にごめんなさい」  千晴は奏の目を見ていた。だが、奏はその視線を受け止めずに顔をそむける。 「……嘘をついてまで俺に会いたくなかったんですよね。それなのに俺がしつこくしたから――」 「それは違います!」  千晴の鋭い声に、奏は再び千晴を見つめた。 「僕は、怖かったんです。あなたが……きっといつか僕から遠いところに行ってしまうんじゃないかと思ったから」  奏が眉を顰める。千晴は震えそうになるのを堪えて話し続ける。 「あなたは僕のことを知りたいと言ってくれたけど、それはきっと僕があなたに対して抱いているものとは違う。もし僕と少しの間一緒にいてくれたとしても、あなたはきっと『普通の幸せ』が恋しくなる。結婚して、子どもをもって――あなたなら、僕とは違って温かい家庭を築くことができる……そうなったとき、僕は耐えられないと思った。だから、これ以上あなたに近づいたらいけないと思ってしまったんです」  奏は驚いたように目を瞠っていた。身を固まらせたまま、二度、三度とまばたきをする。そして魔法が解けたようにふっと笑みをこぼした。 「それってまるで俺のこと好きって言ってるみたいですよ」  その声には自嘲するような響きが混じっていた。 「好きです」 「え?」  千晴は身体ごと奏のほうに向きなおった。 「僕は、成海さんのことが――」 「ちょ、ちょっと待って!」  奏が千晴の両肩を勢いよく掴んだ。 「俺が先に言わないといけなかったのに……ああああもうっ!」  頭を下げ、そしてぶんと音が鳴りそうなほど素早く顔を上げる。   「千晴さんのことが好きです。俺はあなたから離れたりなんかしません。だって男とか女とか関係なく、あなただから好きになったんですから」  一瞬何を言われているのかわからなかった。僕だから好きになった――?  肩を覆う毛布ごとくるむように身体を引き寄せられる。たくましい腕に抱きしめられていた。奏は千晴の耳の上に頬を擦り寄せる。 「俺、ちょっと怒ってます。あなたが嘘をついたことよりも――俺のことをもっと信じてほしかったから。俺が将来どうするか、俺にとっての幸せがなんなのか、あなたがひとりで考えるなんて酷いですよ」  奏の静かな声に、自分の勝手な行動が彼をどれほど失望させたのか思い知らされる。 「千晴さんが考えているように、俺はこれからの人生で、どういう選択をすべきか迷うときだってあると思います。でも――そんなときこそ、あなたに隣にいてほしいと思う。回り道をしても、迷子になっても、一緒に悩んで、考えぬいて、選んだ道を歩きたいと思う」  千晴は息を呑んだ。ひとりではなく、一緒に。奏は千晴とともに歩く人生を考えている。 「……僕も成海さんとずっと一緒にいたいです」  吐息のような千晴の言葉に奏は腕の力を緩める。額と額を合わせて奏が千晴の目を覗きこむ。 「千晴さん」 「は、はい」 「もう、その『成海さん』っていうのは禁止」 「え?」 「敬語も禁止」 「でも……」  深い色の瞳に見つめられて、痺れるような熱が身体の内側で弾ける。 「名前、呼んで?」  奏がささやくように言う。 「奏く……んっ」  言葉を絡めとるように唇が合わさる。  互いの柔らかな形をゆっくりと確かめ合う。触れて、離れて、穏やかな会話を交わしているようにすべらかな線をなぞっていく。奏の大きな手が千晴の背骨をひとつずつ数えていく。一ミリの隙間もなく触れた場所すべてに彼の感触が残される。  奏が問いかけるように千晴の上唇をついばんだ。 「あっ――」  するりと入り込んできた舌は熱く、ブランデーの残り香がとろけるように香る。千晴の舌はいとも簡単に捕らえられ、甘く吸いあげられる。 「ふ、んっ……」  優しく歯を立てられただけで、頭の先からつま先まで鋭く電流が走ったようにくらくらとした。あまりにも丁寧なキスは千晴の脳を、身体を、溶かしてすっかりなくしてしまいそうだった。 「はぁ、ん、あっ――」  わずかな隙間からどうしようもなく熟れた声が漏れ出る。キスだけで、こんなにも気持ちがいい。彼は――奏は、どう思っているのだろう?  静かに波が引いていく。熱い吐息が重なる距離で、奏が小さくため息をついた。 「千晴さん。これ以上はもうだめ」  千晴の肩に手を置き、苦しげに鼻先を擦り寄せた。 「だめって、なにが……?」 「なにって、その……」  身を引こうとする奏のシャツを掴む。奏がぎゅっと目をつむって顔を背けた。耳の端まで真っ赤に染まっている。 「抑えが効かなくなるというか、暴発してしまいそうというか――」 「抑えないで」  千晴は伸びあがって奏の唇の端にキスをした。奏の身体が小さく跳ねる。急に恥ずかしくなって彼の胸に顔を埋めた。千晴の耳に、どくどくと速く力強い鼓動が響いている。  ああ、彼も同じだ。同じくらい緊張して、期待して、震えるほど相手を欲しいと思っている。  突然、ふわりと身体が浮かびあがった。床が一気に遠ざかる。 「わっ、ええっ?」 「もう――後悔したって知りませんよ」  ベッドの上で、先ほどまでとはうって変わって荒い呼吸の混じるキスを交わす。  蹂躙するのではなく、むしろ懇願するような仕草で奏は千晴の口腔を貪る。  奏はキスが好きなのだろうか。朦朧としながら千晴は考える。きっと今までもたくさんのキスをしてきたはず――でも今はすべて千晴のものだ。それだけで泣きたくなるほど苦しくて、嬉しい。  震える舌先で応えようとしたとき、奏の手が千晴の服をたくし上げた。 「あっ……!」  首筋に吸いつかれ、同時に胸の尖りに奏の乾いた指が触れた。背中が無意識にしなる。千晴の耳朶を甘く噛みながら奏がかすかに笑ったような気がした。 「あ、んあっ、ふ、んんっ――」  唇、顎、鎖骨――奏はキスを落としながら敏感になった乳首を優しく弾く。熱く濡れた唇がツンと立ち上がったものを覆った。 「ああっ!」  じゅっとわざとらしく音を立てて吸われる。肌にさざ波が立ち、腰からじんと痺れが走った。息をつく間もなく反対側にも歯を当てられ、なだめるようについばまれる。  奏の手が千晴の薄い腹を撫でる。うまく呼吸ができない。声にならない喘ぎが宙に浮かぶ。  降りてきた指先が昂る千晴のものを掠めた。 「あっ……だ、めっ」  思わず奏の腕を掴んだ。彼の唇が千晴の胸から離れる。千晴を見下ろす奏の表情は見たこともないほど熱を帯びていた。 「また余計なこと考えてる」  奏がふっと微笑んだ。その色めいた表情に目を奪われる。 「大丈夫。だって、ほら――」  千晴の腿に硬いものが押しつけられる。千晴の胸がきゅっと締めつけられた。奏の身体が、自分を相手に反応している。その事実が千晴の中の箍をひと息に崩してしまう。  奏の動きを止めていた千晴の手を掴み、彼はその青白い手首を口元に引き寄せた。唇が、舌先が、時間をかけて手のひらまで上り、指の間をくすぐるようにうごめいた。 「あ、――」  未知の感覚に千晴は目を見開いた。奏は口を大きく広げ、すっぽりと千晴の指を飲みこむ。淫靡な水音とともに何度も舐めあげ、啜った。  奏は反対の手で器用に千晴の下衣を解いた。促され、足先までするりと引き下される。  掴まれたままの手が、そのまま千晴のものにあてがわれた。唾液で濡れそぼった自分の指が恥ずかしいほど張りつめた屹立の上を滑る。 「っ――!」  突然の刺激に顎が跳ねあがる。奏の大きな手が指ごと千晴を包み込んだ。 「綺麗だ」  眩しいものを見るように奏が千晴の全身を見つめる。 「や、だ……」 「だめ、隠さないで」  身をよじろうとした千晴の脚を反対に大きく開かせた。 「あ……んあ、はあっ、ああっ」  ゆっくりと擦り上げられるたびに、ゆるみっぱなしの口からはしたなく声が溢れる。 「う、あ、奏く、ん……」 「うん?」  甘い声音に心臓が狂ったように跳ねた。  奏に触れたい。彼の熱をもっと感じたい。 「一緒に――」    奏は一瞬動きを止め、素早くスラックスを脱いだ。わずかな迷いのあと、千晴の上に覆いかぶさる。  奏の熱く硬いものが千晴のものと重なる。千晴は両手で包み、焦れったく腰を揺らした。奏がため息のような呻き声をあげる。  どちらのものともわからない雫が二人の間にとめどなく流れ落ちる。 「あ、ああっ、奏くん、んあっ――」  奏が身体をぶつけるように動き始めた。頭がおかしくなってしまいそうだ。ほどけそうになった手を上から奏が力強く握り込む。  上擦る喘ぎを唇で塞がれる。奏が激しく揺さぶりながら千晴の下唇を鋭く吸った。 「千晴――」  掠れた声で呼ばれるだけで身体の内側で火花が爆ぜる。  汗のにじむ額を合わせる。荒く苦しげな吐息が唇と唇の狭間で絡む。  互いの名前を何度も呼びあう。  言葉にならない想いをぶつける。  身体中が真っ白な悦びで満たされていく。昇りつめた先で、きらきらと光が弾ける。まばゆい輝きの奔流に二人で静かに身を委ねた。  奏が穏やかな寝息を立てて眠っている。  ベッドサイドに置かれた眼鏡を拾い上げ、奏の枕元に腰掛ける。いつもよりも少しだけ幼く見える横顔を見て、彼が年下だということを思い出す。  千晴は信じられないほど安らいだ気持ちになっていることに気づいた。奏の頬に触れ、唇にそっと指先をすべらせる。 「ん……」  奏は小さく身じろぎ、薄くまぶたを開いた。 「あれ……千晴さん?」 「シャワーとタオル、借りてしまったんですけど……」  千晴の言葉に奏は大きく目を見開いた。ぱっと身体を起こして、すっかり身支度を整えた千晴の姿を確かめる。花が萎むように表情が一気に曇った。 「あっ……帰るんですね……」 「はい。ナナがきっとお腹を空かせて待ってるから、早く帰ってあげないと」 「うわあ、そうか、そうですよね。気づかずに寝てしまってすみません!」  ナナが怒ってないといいけど、と頭を抱える奏を見て千晴は思わず微笑んでしまう。奏がナナと直接会ったのは一度だけだが、二人は驚くほどあっという間に馴染んでいた。猫は賢い生き物だ。ナナはコウのことを覚えていて、それが奏だということもわかっているに違いない。いや、もし初めて会ったとしても、ナナはきっと奏のことをすぐに気に入るだろう。 「ああ、みんなで一緒に暮らせたらいいのになあ……」  奏が眠気を追い払うように、ぐっと伸びをしながらつぶやいた。  ふと目の前が淡い光に包まれたような気がした。  朝目覚めた千晴が、隣で眠る奏を眺めている。もしかしたら奏が先に起き出して、自慢の腕をふるって朝食を作っているかもしれない。ベッドから降りた千晴の足元に、ナナがごろごろと喉を鳴らして身体を擦り寄せる。奏がおはようと言って、寝起きの千晴に軽いキスをする――  思い描いた光景はあまりにも自然な姿に見えた。二人と一匹で暮らす、小さくて温かな空間。大切なひとたちと過ごす穏やかな日常。今まで千晴が想像することもできなかった、幸せな家族のかたち。 「はっ……いや、今のは違うんです! そういう重い意味じゃなくて! ほら、ナナの世話のこととかもあるし――」  奏がひとりで焦って百面相になっている。千晴はこらえきれずに噴き出してしまう。気まずそうに頭をかいていた奏が、千晴につられて照れ笑いをする。 「僕が新しい仕事に就いたら、二人で考えてみませんか」  奏は動きを止め、穴が開きそうなほど千晴を見つめた。 「実は、以前仕事を依頼してくださった方からデザイン事務所を紹介していただいたんです。元々ご夫婦だけの事務所だったようですが、少しずつ事業規模を広げていて、ちょうどデザイナーを募集していたそうなんです。それで昨日はその面談に行っていて、帰り道だからって送っていただいて――」  車を降りたところで、まさか奏がいるとは思ってもみなかったのだけれど。車の中にいた夫妻から心配げに声をかけられるまで、千晴はその場に凍りついて動けなかった。 「ああ、それで――」  記憶をたどる奏に千晴はうなずく。 「今のままフリーで仕事を続けることも考えました。でも、やっぱり僕には経験が足りない。営業もうまくないし、コネクションも少ない。フリーの良さも捨てがたいけれど、もう一度どこかに所属して、ひとりではできないことをもっと吸収したいと思ったんです」  じっと耳を傾けていた奏が勢いよく千晴の手を握った。 「それで、その話はどうなったんですか……?」  力強く温かい手に期待が込められている。千晴はその手をそっと握り返した。 「今受けている依頼がすべて終わったら、うちに来てくださいって」  ほとんど息ができないほど強く抱きすくめられていた。 「すごい、すごいじゃないですか! 千晴さん、良かったですね!」  奏が自分のことのように喜んでくれている。それだけで、一歩を踏み出す小さな不安が一瞬にして消えていく。奏がそばにいると思うだけで、勇気がみなぎって、新しい未来が待ち遠しいとすら思えてくる。  奏と出逢って、千晴は自分が確かに変わったのを感じていた。小さな世界でひとり閉じこもっていた千晴を、奏が引っ張りだしてくれたみたいだ。  今なら胸を張って彼の隣に立てるだろうか。  広い世界を歩いていくのなら、今はもう、ひとりじゃなくて二人一緒がいい。 「ああっ、すみません、帰らないといけないんだ! 電車で帰りますよね? 駅まで送るので三分だけ待ってください!」  奏がばたばたと転がるようにベッドから飛び出していく。彼の背中を見送りながら千晴はたえず笑みをこぼす。  もしかしたら、今までの辛いことや悲しいことの引き換えに、奏が幸せを丸ごと抱えてやってきたのかもしれない。凍えるような冬のあとには必ず芽吹きの春がやってくるように。  二人の不思議な出会いは、偶然ではなく必然だった。 「千晴さん」  優しく響く声のほうへ、千晴は歩き出した。

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