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After story: side-S

 成海奏、二十五歳。絶賛片想い続行中です。  俺の片想いの相手は今、テーブルの向かい側に座ってカルボナーラと格闘していた。紺色のジャケットにソースが飛ばないよう慎重にパスタをフォークに絡めながら、大きなプロシュートをどうやって口に入れようか迷っているようだった。小さめの口を大きく開いて、ひと息にぱくりと食らいつく。俺の視線などつゆ知らず、唇の端についた白いクリームをぺろりと舐めとった。跳ねる心臓の音が伝わらないように、俺はごくりと水を流し込む。  今日は俺が選んだイタリアンに来ていた。トラットリア、つまり大衆食堂のような肩ひじの張る必要のない店で、手頃な値段で本格的なメニューを楽しめる。今回のデートの口実は、デザインを依頼していたアプリ用スタンプのリリース祝いだ。  口実。そう、口実が必要なのだ。  千晴と再会したあの日、俺は思わず告白めいたことを言った。いい雰囲気かも、なんて思ったものだったが、もふもふの邪魔が入ってその空気は見事に流れていってしまった。(頼むから意気地なしだとは言ってくれるな!)  千晴とは再会以来、すでに何度か会って食事をしている。だがそれは全て仕事を理由にしていた。  会社で晴れて千晴のデザインが採用されたと決まったときのお祝い。その後の正式なデザインの相談のついでに数回。今日は久しぶりに会う約束を取りつけることができた貴重な一回。我ながら情けない成果だ。  仕事の合間に雑談をしていたときに判明したのだが、千晴は予想に反して俺よりも二歳年上だった。つまり、二十七歳。  目下の悩みはこれだ。年上の、しかも男性に対してごく自然に誘いをかけるにはいったいどうしたら良いのか。そもそも男女関係なく、俺は片想いの相手に自分からアプローチをするという経験がこれまで一度もなかったのだ。  今まで付き合ってきた彼女たちのことを考える。彼女たちとは自然と距離が近くなり、そしてほどよいタイミングで「好きだ」「付き合ってほしい」と言われた。いつのまにか、まあ付き合ってみてもいいか……と思っているという具合に。  その『自然と』『ほどよい』状態を彼女たちがいかに努力をして作り上げてきたのか――俺はまったく知らなかったということを思い知る。そのツケが回ってきて、結局は今、慣れないことに苦労しているというわけだ。  ただ、今日という日が終われば千晴と会う理由はなくなってしまう。ここはなんとしてでも次につなげればならない。  足元に置いてある鞄をちらりと見やる。その中には、以前千晴が興味があると言っていた美術展のチケットを入れてあった。もちろん、二枚。 「美味しいですか?」  俺の問いかけに千晴はもぐもぐと口を動かしながら大きくうなずいた。こくん、と飲み下すときに薄い皮膚の下で喉仏が上下する。それを見ればこの人は男性なのだと改めて思うのに、とてつもなく色っぽく見えてしまう。 「成海さんはこういったお店に詳しいんですね。毎回ジャンルが違うのに、いつも手頃で美味しいからびっくりします」  ふわりと微笑む表情は年上には見えない。千晴は食事をするときに、ひと口ひと口を大切そうに噛み締めて食べる。そして本当に美味しそうな表情をする。俺はそんな彼の姿を見たくて、毎回張り切って店を選んでいた。  俺は思い切って前から気になっていたことを口にしてみる。 「あの、俺のほうが年下ですし、仕事も終わるんだからもっと気楽に呼んでもらっていいんですよ。ほら、前は『コウ』って呼んでいたじゃないですか」  千晴はぱちぱちと音がしそうなほどはっきりとまばたきをした。 「コウ?」  小首を傾げる。まだワインを少ししか飲んでいないのに、千晴の色白の頬や首筋が赤く染まっていた。初めて見たときよりも少し伸びた柔らかなくせ毛が耳の上でふわりと揺れる。俺は思わず手にしていたフォークを皿にぶつけてしまった。 「うーん……でもやっぱり、本当の名前じゃないし……」 「じゃあそのまま奏って呼んでください。俺も千晴さんって呼んでますし。敬語だって要らないですよ」 「……奏くん?」  少し照れくさそうに言われるだけで、俺の心臓は倍速で跳ねてしまう。 「そ、奏くんは……やっぱり食べることが好きで食品会社に勤めることにしたんですか?」  ぎこちない問いかけに俺は少しだけ考えて答える。 「食べることももちろんですが、もともと料理をするのが好きなんです。うち、両親が共働きな上に母親がバリバリ働く人で、一時期単身赴任までしていたんですよ。父親に料理のセンスがないせいで、小学校の高学年くらいからは俺が母親の代わりに食事を作っていたんです」  ちなみに父に似たのか、現在大学生の妹はいまだにおそろしいほど料理が下手である。 「あとはちょっと良いスーパーって、いろんな食材や変わった調味料が並んでいるじゃないですか。ああいうのを眺めるだけでも楽しいんですよね。どうせ仕事にするならそういった好きなものに関わるほうがいいなと思っていたら、縁あって今の会社に採用してもらえたんです」 「へえ、そうだったんですね……やっぱり好きなことを仕事にできるっていいことですね。これだけグルメだから、料理が好きっていうのもイメージできるな」  どんな料理を作るのかと聞かれ、和食からエスニックまで、今までリクエストされてきたものはひと通り作ったと答える。 「リクエストしたものを作ってくれるなんて、羨ましいなあ!」 「そうですか? もし何か作ってほしいものがあったら言ってください。俺、なんでも作りますよ」  あ、しまった。  思わずぽろりと出てきた言葉に冷や汗が噴き出す。料理を振る舞うなんて、急に踏み込んだことを言ってしまったんじゃないだろうか。ああほら、千晴がちょっと呆けたような顔をしている。   「無茶なリクエストをしてくる人も多いんですよ! たとえば俺が中学生のとき――」  誤魔化すように、俺は中高で世話をしていた市川のエピソードを披露する。市川だけでなく、同級生たちが放課後うちに来て「吉田家の牛丼を再現してくれ!」だとか「ドレミピザのミートピザ作って!」だとか好き勝手騒ぎ立てたものだ。店に行くよりも楽しいだろ、というのが彼らの持論である。  俺の話を聞きながら千晴はくすくすと笑っている。 「奏くんは面倒見がいいんですね」 「いえ、面倒見がいいというよりお節介なんですよね……頼まれたこと以上にやってあげたくなってしまうというか。それで今まで結構からかわれたもんです。それに、やりすぎていろいろ失敗もしてきていますし」 「失敗?」 「ああ、いや……今まで付き合ってきた彼女たちに毎回、『母親みたいで嫌だ』って言われてフラれてるんですよ、俺。ちょっと行き過ぎてしまうんだろうなって反省しているんですが――」  その反省が生かされている気はしない。ひとりで泣いていた千晴のことを考えるといてもたってもいられなくなって、必死になって探し出して再会するということまでやってしまっているのだ。その「心配」が「好きになってしまって気になる」と重なっているのが厄介なのである。 「彼女――」  千晴がぽつりとつぶやいた。 「あ、今はもういないですよ!」  俺は必死に事実を伝える。勘違いしないでほしい。俺は今、あなたが好きなんだから――という言葉は、残念ながら言うことができない。  千晴にとって、今の俺はただの仕事相手だ。たとえ元「コウ」だったとしても、痴漢から助けられた相手だったとしても、関わった期間としてはとても短い。きっと今気持ちを伝えても、千晴は突然何を言っているんだと驚いてしまうはずだ。  それに、千晴はコウのことを「家族も同然」と言っていた。家族、という言葉は嬉しいが、恋愛対象として見てもらうにはまだまだ努力する必要がある。だが、今までの二の舞とならないために、焦りとやりすぎは禁物だ。連絡先も知っているし、これから時間をかけて距離を縮めていけばいい。  目標ははただひとつ。好きになった相手に好きになってもらうことだ。  千晴は困ったような表情で微笑んだ。 「アラビアータ、冷めちゃいますよ」 「あ……そうですね」  牛モツがたっぷり入ったペンネのアラビアータを見下ろした。ぴりっと唐辛子の辛さがアクセントになっていて、トマトの甘みを引き立てている。少し残った酸味のおかげでモツの臭みや重さを感じない。  急に静かになった気がして、俺は顔を上げた。千晴はまた大きなプロシュートとの闘いに戻っていた。先ほどまでよりも少し――表情が硬い。  あれ……俺、なにかおかしなことを言ったか?  千晴は黙々とパスタを口に運んでいた。俺はこの奇妙な静けさの理由を探して頭の中をぐるぐると駆け回る。先ほどまで美味しいと感じていたペンネまで、味がさっぱりわからなくなってしまう。  皿をすっかり綺麗にしてしまった千晴は、口元を拭って静かに息を吐いた。最後に残りのワインを一気に呷ったせいか、焦げ茶色の目が潤んでいる。  俺が食べ終わるのを見計らったように千晴が口を開いた。 「僕、今日まだやらないといけないことがあって……だから、そろそろ帰らないと」 「そ、そうですか」  食後はデザートとコーヒーを頼んで少し話すか、近くのバーに寄るか……そして次のデートの約束を取り付ける。一応はそんなプランを考えていた俺としては完全に出鼻を挫かれてしまった。  千晴が鞄を手に取ろうとしているのを見て、俺は慌てて鞄の中の封筒を取り出す。 「千晴さん、渡したいものがあるんですが」  封筒を開いてチケットを見せる。 「これ、この間行ってみたいって言っていましたよね。俺も興味があるので一緒に行けないかなと思って」 「あ……」 「会期は二週間後から三ヶ月間ですから、その間にまた連絡してもいいですか?」  差し出された紙を千晴は凝視していた。この重い沈黙はいったいなんなのだろう?  諦めかけたとき、千晴がそっとチケットを手に取った。 「ありがとうございます」  千晴はそのひと言だけを言ってぎこちなく笑った。  なにがまずかったんだ?  俺は自宅のベッドに寝転がり自問自答していた。  最後に二人で食事をしてから三週間が経った。その間に千晴とは一度も会っていない。何度かこちらから連絡はしてみた。話題はナナのことだったり、仕事のことだったりと他愛のないものばかりだ。それなりに会話が往復するものの、以前とは違って少しぎくしゃくしているように感じていた。  本音を言うなら、もっと連絡を取りたかった。たが、俺自身が千晴にしつこいと思われたくなかったのだ。  本当は、毎日「おはよう」と「おやすみ」を言いたい。ちゃんとご飯を食べたのか聞きたい。夢中で仕事をする横顔は好きだったが、眠れているのかが気になる。だがそんなことを、付き合ってもいない男から聞かれたところで気持ち悪いと思われるのがオチだ。付き合っていたって「母親みたい」と言われて煙たがられるというのに。  脈がまったくないとは思えないからこそ、今までと同じ失敗はしたくないという思いが強かった。 「会いたいなあ……」  思わずひとりでつぶやいてしまう。  千晴は以前よりもよく笑うようになっていた。俺のちょっとした冗談にも肩を揺らして笑ってくれる。ナナの話をするときにはくつろいだ優しい笑みを浮かべる。かつての憂いのある表情ははっとするほど惹きつけられるものだったが、今みたいに明るく笑う姿のほうがずっと魅力的だ。仕事の話をしているときは真剣そのものの眼差しで、凛としたたたずまいに俺はいつまでも慣れずにドキドキしていた。  最初はただ「放っておけない」という感情だったのかもしれない。でも今の千晴は静かに、だが確かな芯をもって、しっかりと自分の足で立って歩いている。前を向く千晴の隣で、俺も同じ景色を見ていたいと思う。  天井に向かって腕を伸ばす。  不意に抱きとめた薄い身体の感触が、まだ腕の中に残っている。硬い骨の形はまぎれもなく男のものだ。だがそんなことは些細なことだった。ただひたすら、もっと触れたい、いつだって彼の存在を近くに感じたいと心が叫んでいる。  これを恋と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう?  身体を起こしてスマホを探す。千晴とのトーク画面を呼び出してメッセージを打った。 『こんばんは。美術展の件ですが、三日後の土曜日はいかがですか?』  驚いたことにすぐに既読マークがついた。すぐに返事が来るかと待ち構えていたが、なかなか来ない。  結局返事は二時間後に届いた。 『ごめんなさい。その日は行けないんです』  ただそれだけだった。 『そうですか……また今度お誘いしますね』  落胆を隠しきれずにメッセージを送ってしまう。すると今度は数分後に返事が来た。 『今風邪を引いてしまっているんです。しばらくかかるかもしれないので……治ったら連絡しますね』 「風邪?」  すでに日中は暖かくなっているが、夜は冷え込む日もある。会社でも寒暖差にやられて休んでいる人がちらほらと出てきていた。  胸の内でむくむくと不安と心配が湧き上がってくる。 『大丈夫ですか? 美術展のことは気にしないでください。飲み物とか必要なものがあれば持っていくので、言ってくださいね』 『ありがとうございます』  ぴろん、という間抜けな音とともに千晴がデザインしたスタンプが送られてきた。猫のキャラクターがお辞儀をしている。なんとなく、こうやってスタンプを押されてしまうと会話を打ち切らなければならない気がしてくる。  スマホを放り投げ、俺はベッドの上で思い切り手足を広げた。 「どうしたものかな、これは……」  切ないつぶやきは空中にふわりと浮かんで消えていった。  *   俺は今、スーパーの袋を片手に夜道を歩いている。仕事終わりのスーツ姿のままで。  駅から離れるほど華やかな灯りが減っていき、代わりに家々の窓からもれ出る温かな光を頼りに進んでいく。  昨日のメッセージのせいで、今日は一日中千晴のことを考えてしまっていた。仕事でくだらないミスをしてしまいそうになって慌てて千晴の姿を頭の中でかき消す、そんな調子だった。  袋の中には、レトルトの粥が数種類とパックの野菜ジュース、ペットボトルのスポーツドリンクが入っている。  これでも、ものすごく悩んだのだ。余計なことをするなという冷静なささやきは当然聞こえていた。だが、治るのにしばらくかかるかもというくらい症状がひどいのであれば、買い物だってきついはずだ。別に顔を合わせる必要はない。袋に名前を書いたメモを入れて家のドアノブにかけておくくらいなら、それほど負担にならないんじゃないか?  そう何度も言い訳をしてのろのろと歩き続けている。最後はアパートの近くまで行ってから決めればいい。  そうこうしているうちに、目的地はすぐそこまできていた。最後の角を曲がった瞬間、突然現れたまぶしい光に思わず目を眇めた。 「送ってくださって、ありがとうございました」 「いや、帰り道だったからちょうど良かったよ」  聞き慣れた声がした。もうひとつの声は知らない男のものだ。  光に慣れた目が捉えたのは、車のそばに立ってにこやかに笑う千晴の姿だった。  ――風邪なんて嘘だった?  嘘をつくほど、俺に会いたくなかったのか。    重く押しつぶされる鈍い音に千晴がはっと振り返った。 「奏、くん……?」  俺は静かな夜の街に向かって無我夢中で駆け出していた。

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