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13. pride

 失敗した――  沈黙は時計の針に乗って無慈悲に流れていく。千晴と真正面で向き合ったまま、お互いに動けずにいた。まるで、スノードームで初めて顔を合わせたときのように。 「会社のビル、ですか?」  今回は千晴よりも先に正気を取り戻すことができた。俺の問いかけに千晴は突然夢から覚めたような表情になる。 「え、ええ。僕、ビル清掃のバイトをしているんです。半年くらい前に、あなたの会社のフロアのトイレで……その……痴漢のようなものに遭って、助けていただきました。その方が成海さんだと思ったのですが……」  半年前――トイレ、痴漢? 「え、あ、あああっ!」  いつもよりも偶然早く出社したときのことだ。トイレからくぐもった諍いの声が聞こえた。飛び込んでいった先にはくたびれたスーツの背中と、その灰色の腕に拘束された薄い水色のユニフォーム。  ひどく怯えた声と、なにもかも諦めたような表情、それから眼鏡の奥で光る涙。 「朝比奈さんだったんですか……」  どうして忘れていられたのだろう。改めて千晴を見ると、その理由がわかった気がした。 「ユニフォームと眼鏡で印象が全然違って……まったく気づきませんでした。あのときは確か――」 「縁の黒い眼鏡でした。あの眼鏡を割ってしまって。これは以前使っていたものです。度も合っていないし、歪んでしまっているんですけど」  縁が黒かった、なんてものじゃないぞと内心ツッコミを入れた。レンズも分厚くて、本来のアンズのような大きな目がせいぜいギンナンくらいになっていたはずだ。それでは気づくはずもない。 「あのとき……お礼も言わずに帰ってしまって、すみませんでした」  千晴が深々と頭を下げた。 「いえっ! あれから見かけなかったから気になってはいたんですが」  それは本当のことだ。だが、いつもの出社時間と清掃の時間がずれているから仕方ないかと思っていたのだ。 「あのあとそれらしい人を捕まえたんですが、シラを切られてしまって。証拠はあるのかと言われて、結局うやむやになってしまったんです。こちらこそ、役に立てなくて申し訳なかった。あれから大丈夫でしたか?」  千晴は逡巡するように視線を落とす。 「やっぱり、何かあったんじゃ――」 「いえ……ちょうど担当のビルが異動になったので、大丈夫でした」  俺が口を開こうとしたのを止めるように小さく首を横に振る。 「僕はとにかく、あなたにずっとお礼を言いたかったんです。あのとき本当はすごく怖かった。でもどうしようもないと思っていた。襲われたなんて言っても誰にも信じてもらえない。男のくせに抵抗する力もないのかって言われる。今まではそれが普通だった。でもあなたは違った。僕が怖い思いをしたことも、わかってくれた。僕のことを信じてくれた、その事実が僕にとって救いだったんです――きっと、あなたが想像している以上に」  背筋をすっと伸ばして千晴がまっすぐに俺を見た。 「本当にありがとうございました」  俺は真摯に訴える千晴の姿に言葉を失っていた。それから『誰にも信じてもらえなかった』という言葉にも驚いた。自分よりも強い力の人間に押さえつけられなんかしたら、男だろうが女だろうが怖さに身がすくむに決まっている。それが俺の中の常識だが、世の中にはそう思わない人間もいるということなのだ。  いえ、そんな、ともごもごと言葉にならない返答をして、また沈黙が降ってきた。店内に流れる陽気なボサノバは、二人の間に流れる妙な緊張感をほぐしてはくれない。 「それでは――」「あのっ」  鞄を掴もうとした手が空振りした。 「スノードームって、なんの話ですか?」  千晴は真剣な――いっそ深刻な、ともいうような表情で俺を見ている。 「あ、いや、それはもういいんです!」  立ち上がろうとした。が、テーブルの上の俺の手を千晴が掴んでいた。 「どうしてですか、教えてください!」  それほど力が強いわけではないが、ひんやりとした指先の感触に俺はひゅっと息を呑んだ。千晴の懇願するようなまなざしは俺を捕らえて離さない。  逃げ出すか、それとも腹をくくるか。俺はぎゅっと目をつむり、深く息を吐いた。 「笑わないで聞いてくれますか?」  ある日、突然知らない場所で目が覚めたこと。近くにあった雪の積もったモミの木やログハウスは陶器でできていたこと。巨人や怪物だと思った生き物はただの人間と猫で、自分自身が小さくなってスノードームに閉じ込められていると知ったこと。 「ログハウスの中には、たくさんの本と大きな暖炉がありました。それから絵本やぬいぐるみが転がっていた。あとは、紺色の地のハンカチ――」  ほとんど独り言のようにつぶやいた言葉に、千晴がはっと目を見開いた気がした。 「スノードームの持ち主の名前はチハル、飼い猫はナナと言っていました。……朝比奈さん、俺はそれがあなただったと思うんです」  千晴と視線を合わせることができず、空になったコーヒーカップに視線を落とす。 「気持ち悪い、ですよね。すみません。今の話は忘れてください」  千晴の指先の感触を消すように手の甲を虚しく拭った。千晴は黙ったままだ。その静寂が恐ろしい。 「……僕は、あなたのことをなんて呼んでいましたか?」  顔を上げると、正面から千晴の視線とぶつかった。俺は千晴から目をそらさないように慎重に答える。 「コウ。俺の名前は奏だけど……あなたは俺の言葉を読み取れなくて、コウと呼んだ」  千晴が何かを堪えるように眉をひそめた。そんな表情をさせているのは俺だ。腹の底で後悔が渦巻く。 「本当はあなたに会いに行かないほうがいいと思っていたんです。もし会えたとしても、黙っているつもりだった。こんなこと言っても気味悪いだけだってわかっていましたから……でも、あなたがどうしているのか、気になって。またひとりで泣いていないかって心配になって――一度だけでいいから、様子を見れたらって思っていたんです」  鞄を開き、折り畳んでいた紙を取り出した。広げると、雪と飾りで彩られた商店街のイラストが出てくる。 「これを見て、真ん中を歩いているのはもしかしてナナと――俺かな、なんて思って。あなたがデザインしたこのポスターを見て、どうしても会いに行きたくなってしまった。でも勘違いはしないでください。今回の仕事は本当に会社で企画として上がったもので、俺があなたに依頼したいと思ったものなんです。会いに行こうか迷っていたときに、偶然機会が重なったというだけですから。それだけは信じてほしい」  千晴はじっと、俺の裏側まで見透かすように見つめる。その瞳の端に小さな雫が浮かんだ。 「……信じられません」  俺は詰めていた息を深く吐き出した。情けないが泣きそうだ。やっぱり、話さなければよかった。いっそ探し出すこともなく、綺麗な思い出として胸の内に大切にしまっておけばよかった―― 「本当だったら、誰も信じてはくれません。スノードームの中に人がいたなんて。そうでしょう?」  千晴は俺の方に身を乗り出した。涙の雫が静かに頬を伝い落ちる。 「だけど、僕の家のスノードームには確かにコウと呼んでいた小さな人がいました。僕にとって彼はもう……ほとんど家族も同然でした。彼が突然いなくなって、本当に寂しくて、悲しくて――忘れようと思っていたんです。でも、あんなにも鮮やかに記憶に残っているのに、ただの妄想や幻だったとは思いたくなかった」  言葉を切って口元を和らげた。 「だから僕はあなたを信じます。あなたが、あのコウだったということを。あなたは僕を助けてくれた恩人です。もしこの話が本当なら、一度だけでなく何度も……」  千晴が眉を下げて泣き笑いのような表情になった。きっと俺も同じような顔をしている。分かれていた二つの世界がようやくひとつに繋がった瞬間だった。  俺は今、千晴の形の良い頭を半歩ほど後ろから眺めながら歩いている。 「ナナに会ってくれませんか」  俺をコウだと認めた直後に千晴はそう言った。どうやらナナの具合が良くないらしい。 「成海さんと遊んでいるときのナナは元気いっぱいだったから、もしかしたら……」  藁にもすがるような、という表情だった。一日中眠りっぱなしで食も細くなっているなんて、このまま衰弱しかねない。今会わなければ、もう――  そんな風に言われてしまったら、会いに行かないわけにはいかなかった。  千晴が住むアパートは喫茶店から徒歩で十五分ほどの場所にあった。最寄り駅は違うが、本当に同じ市内に住んでいたのだ。千晴の家の内側は知っているのに、外側をまるで知らないというのは不思議な気分だ。二階建ての古い建物で、外壁がなぜか煤けたように黒くなっている。  感動の再会――とまでは言わないが、摩訶不思議な出来事を共有したあとの割には、歩いている間も言葉は少なかった。千晴はなによりもナナのことが心配でたまらないのだろう。それは俺も同じだ。アパートが近づくにつれて少しずつ早足になる。 「ここです」  派手に軋む階段を上って一番端の扉を開いた。 「あっ……」  千晴の肩がちいさく震えた。玄関には艶のある革靴が置かれていた。明らかに千晴のサイズよりも大きい。 「千晴、帰ってきたのか――ん?」  奥の部屋から男が歩いて出てきた。ウェーブがかった少し長めの黒髪。個性的だがくどいわけではない洒落たジャケット、長い脚に沿った黒いパンツ。スーツではないし、俺は後ろ姿しか見たことがないが、この声だけはすぐにわかった。 「澤田さん、どうしているんですか」  千晴の声は小さい。澤田はその言葉を無視して、俺を値踏みするように上から下まで眺めた。 「へえ、俺以外に家にあげるような男がいたんだな」  余裕を見せつけるように腕を組み、ゆったりと片足に体重を乗せる。 「悪いが、俺は千晴と話があるんだ。きみは帰ってもらっていいかな?」  千晴がはっと顔を上げた。 「な……なにを言っているんですか、あなたが帰ってください!」 「おいおい、俺からの連絡を無視しておいてその言いぐさは酷いな。今日は仕事をもってきてやったんだよ。それも久々に実入りのいい案件だ。欲しいだろう?」  澤田の大きな手が千晴の腕を取った。 「あの」 「ああ、まだいたんだ?」  俺は冷ややかな視線の前に立った。千晴は身を固まらせたまま俺を見上げる。 「朝比奈さんから手を離してください」 「はあ? 何言ってるんだ」 「朝比奈さん、俺は帰ったほうがいいですか?」  千晴は目を見開いて大きく首を横に振った。帰らないでください、と怯えたようにつぶやく。実際怯えているのだろう。逆らいたくても逆らえない、そんな気配を千晴から感じる。 「朝比奈さんが嫌がっています。お引き取りください」 「どちらさんか知らないが、さっきも言ったとおり仕事の話をしにきたんだ。あんたには関係ないだろう」 「関係あります。俺は、朝比奈さんの――いえ、千晴さんの恋人ですから」 「はあ?」    澤田の手を俺は掴んだ。振り払われた拍子に千晴の腕が自由になる。千晴はわずかに後ずさった。 「千晴さんがあなたと関係があったことは知っています。それがどんな関係だったのかも。でも、今はもう千晴さんは俺と付き合っているんです。だから彼につきまとわないでください」  俺は千晴を振り返り、伝われ、と祈りながらうなずいた。千晴は目をしばたかせ、小さくうなずく。 「ふざけるなよ。そんなはずがないだろ。なあ、千晴? 俺と縁を切ったらどうなるのか、おまえが一番よくわかってるだろ?」  隣で千晴の薄い身体がびくっと跳ねた。  千晴の話を聞いたときから考えていた。偶然かそうではないのかはわからないが、この男は千晴が弱っているときには必ず現れ、その心の隙間にするりと入り込んでいた。最初はそれで良かったのだろう。千晴にとってはこの男の存在こそが支えとなっていたのだから。  だが、千晴の弱さを澤田は自分の都合の良いように利用した。澤田がいないと生きていけない。澤田と離れれば、再び悪夢が襲いかかってくる。長い年月で植えつけられた刷りこみのようなものは、いまだに千晴の心を縛っているようだった。 「あなたは、千晴さんがあなたに依存していたと思っているかもしれないが、それは違う。依存しているのはあなたのほうだ。何か対価がなければ千晴さんを繋ぎとめられないとわかっている。そうでしょう? 千晴さんはあなたみたいに弱い人間じゃない。懸命に努力して、自分の力で生きていこうとしている。それをあなたの自分勝手な欲求だけのために邪魔しないでほしい」 『きちんと自分の足で立って生きていきたい』  千晴が過去を語ったあの日に言った言葉を、俺は信じたいと思っていた。 「ふざけるなっ――」  ぐっと胸倉を掴まれた。鼻先がつきそうなほど間近で鋭く睨みつけられる。俺はてこでも動かなかった。幸いなことに俺のほうがわずかに背が高い。 「これ以上しつこくするようなら、警察を呼びますよ」 「なっ……」 「それに俺、空手の有段者なんです。素人に手を出すつもりはなかったんですが、正当防衛なら仕方がないですよね」  冷静に視線を返す。掴む力が緩んだ。澤田の胸を軽く突くと、そのまま後ろに一歩、二歩と下がっていった。 「千晴――」 「澤田さん」  千晴が前に出る。指が白くなるほど強く拳を握っている。 「僕は、確かにあなたがいなければデザインの仕事に就くこともできませんでした。それに、あなたに憧れていた。デザイナーとしても、ひとりの男の人としても。僕はあなたのことが好きだったんです。あなたからはいろんな経験や感情、数えきれないほどたくさんのものを与えてもらった。その全てに、僕は感謝しています」  千晴はまっすぐに澤田を見据えていた。そのまなざしには強い決意が浮かぶ。 「でも……あなたとの関係は、もうとっくに終わらせなければいけないものだった。あなたも、僕も、本当はわかっていたはずです」  震えを堪えるように拳を腹のあたりに押しつけている。 「今まで、本当にありがとうございました。それから、本当にごめんなさい」  頭を下げる千晴を澤田は黙って見ていた。険しい表情のまま、静かに目を閉じて息を吐いた。靴を履き、俺とも千晴とも視線を合わせずに外へと歩き出す。 「あ、ちょっと待ってください」  俺の声に澤田が怪訝な顔で振り返る。俺は手のひらを上に向けて澤田に向かって突き出した。澤田はもう一度ため息をついて鞄を探る。  放り投げられた鍵を掴みとる。その間に澤田の姿は見えなくなっていた。 「ありがとうございました」  千晴がはっきりとした声で言った。俺ははっと我に返る。 「ああっ! あの、さっき恋人とか言ったのは、そんなつもりで言ったわけじゃなくて、その――」 「わかっています。澤田さんとの関係を切るために言ってくれたんですよね」 「え、ええ。すみません、俺いつもお節介が過ぎるんです。大丈夫でしたか? あんなこと言ってしまって……」  口からデマカセとはまさにこのことだ。片想いについて考えすぎて願望が口から飛び出したとかそういうわけではない。断じて違う。 「本当は、最初から僕がきちんと言わなければいけなかったんです。それなのに、やっぱり少し……怖くて。でも、成海さんのおかげで勇気を出して、きちんと伝えたかったことを伝えることができました。本当にありがとうございます」 「いえ、そんな」  なんとなく妙な空気が流れる。俺はまだ自分の発言に対して思っている以上に動揺していたし、千晴もなぜか耳の端を赤くしている。 「お、俺、ナナに会いにきたんですよね!」 「は、はい。そうでした。向こうの部屋にいるのかな……」  玄関を上がり、奥の部屋の扉を開く。前をいく千晴をぼうっと見つめた。 「わっ!」  ごとん、と音が響き、不意に千晴の頭が前に揺れた。  俺は思わず腕を伸ばした。後ろから千晴の胸のあたりを掴んで引き寄せる。 「すみません!」  千晴が俺の腕の中で悲鳴のように謝った。足元を見ると、あのスノードームが転がっていた。きっとこいつにつまずきそうになったのだろう。 「あの……成海さん?」  腕をほどかない俺を千晴が見上げた。似合っていない歪んだ眼鏡。その奥にある長い睫毛が揺れる。 「さっきの話、恋人というのはもちろんあの人との関係を切ってもらいたかったからですが……それ以上に、俺は千晴さんのこともっと知りたいんです。ここで過ごしていて、あなたがどんなに辛くても、泣いても、一生懸命がんばっているのを見ていた。そばで応援したいって思っていたんです。だから、これからも、えっと――」  緩んだ俺の腕をとって千晴が振り向いた。 「成海さんが――コウが、ずっとスノードームの中から応援してくれていたから、あなたがいなくなってももう少しがんばろうって思えたんです。それにさっき、僕のことを『弱い人間じゃない』って言ってくれたこと、本当に嬉しかった」  伏せられた目元が赤く染まっている。これはもしかして、結構いい雰囲気……?  がたんっ 「なああああうッ!」  どたどたと床を叩くような足音と雄叫びが狭い部屋の中に響き渡った。 「うがっ!」  背中に衝撃が加わる。もふもふと温かな毛が首の横から飛び出した。  一体どこから跳んできたのか。ナナが俺の肩に乗って髪の毛をむしゃむしゃとかじっている。 「ナナ……めちゃくちゃ元気じゃんか……」  俺の情けない声にナナはご機嫌なようすで「なうぅ」と応える。 「ふ……ふふふっ……」  顔を上げると、千晴は口元に拳を当てて笑いを堪えていた。次第にその笑い声が連なり、困ったように俺とナナを見つめる。  目尻にはうっすらと涙がにじんでいた。それはもう、悲しい色ではない。  俺も思わず噴き出す。揺れる肩の上でナナは不満げにうにゃうにゃとしゃべっている。  スノードームの中では今もゆっくりと雪の欠片がひらひらと舞っている。小さな家の窓がまばたきをするようにきらりと光った気がした。

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