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「依頼、ですか?」
『うん、そうなんだよ。商店街のポスターを見て、ぜひ同じ人にデザインをしてもらいたいって思ったらしく、僕のところに問い合わせが来たんだ』
電話から伝わる古橋の声は楽しげだ。千晴も思わず微笑んだ。実際に作ったモノを見て、良いと思ってもらえる。それが次の仕事に繋がるなんて、デザインの仕事としては理想的だ。
『それで、きみの仕事用のメールアドレスを教えたんだけど、大丈夫だったかな? 近いうちに連絡するって言ってたから、そのうち来ると思うんだけど……』
「はい、大丈夫です。直接連絡し合ったほうがいいですから。お気遣いありがとうございます」
『いやいや、僕としても今回のポスターもとても素敵に仕上げてもらったし、他所の人に気に入ってもらえるのは嬉しいんだ。お客さんも増えてくれるしね!』
しばらく商店街のクリスマスイベントの様子や、古橋の初孫自慢などを聞いて、千晴は電話を切った。
そういえば、どういった依頼がくるのか古橋からは何も聞いていない。納期によってはいくつか仕事が重なるかもしれないが、それほど時間のかからない依頼なら問題ないはずだ。
パソコンを起動してメールを開くと、新着メールが一通届いていた。
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件名:メッセージアプリのスタンプデザインのご相談について
朝比奈千晴様
初めまして。カミヤ食品株式会社 広報企画部の成海奏と申します。
突然のご連絡、申し訳ありません。
この度は頭記のとおり、朝比奈様に弊社のメッセージアプリのスタンプデザインについてご相談したく、ご連絡差し上げました。
先日、偶然にも花町商店街でクリスマスイベントのポスターを拝見いたしました。ポスターのデザインがとても印象的で、ぜひ弊社の広報物にも関わっていただきたいと考えていたところ、ちょうどスタンプをリリースする企画が社内で持ち上がりました。そこで可能であれば朝比奈様にデザインについて一度ご相談に伺えればと思っているのですが、いかがでしょうか。
具体的な条件や、弊社の商品のご紹介など、直接お話しさせていただきたいと思っています。
また、弊社のホームページのリンクを記載いたしますので、よろしければご参照ください。
何卒、ご検討のほどよろしくお願いいたします。
カミヤ食品株式会社 広報企画部
成海奏
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「カミヤ食品って……」
千晴はメールに貼られていたリンクをクリックした。『事業所一覧』のページを開く。本社はオフィスビルの六階。さらにビル名で検索する。
「やっぱり、あのビルだ」
千晴が半年前に清掃に入っていたオフィスビル。男に襲われそうになったのは、まさに六階のトイレだ。
千晴はぶるりと身を震わせた。背後から二の腕を強く掴まれた感触、身体をまさぐられた手の動きは、今でも忘れることができない。
まさか、この成海という依頼主は、あのとき襲いかかってきた男ではないだろうか。
背筋に冷たいものが走る。千晴は寒気を追い払うように首を振った。そんな偶然があるわけがない。知名度やオフィスの広さを見ても、カミヤ食品はそれなりに大きな会社だ。あの男と行き会う可能性は低い、はず。
「どうしよう……」
最近ではメールとデータのやりとりだけでも充分に仕事はできる。でも、依頼主は直接話をしたいと言っていた。もちろん、そのほうが物事がスムーズに進むことはわかっているし、最初にしっかりと依頼主の要望や条件を聞いておいたほうが、あとになって無駄にやり直したり、もめたりすることがなくなる。
千晴は小さく諦めのため息をついた。
窓の外から確認して、万が一あの男だったら。そのときは、店に入らずに立ち去ろう。あとで体調不良でもなんでもいいから言い訳をすればいい。
そうでなくとも、打ち合わせを終えたらすぐに家に帰りたかった。ここ一週間以上、ナナの様子がおかしいのだ。もともと活発というわけではないが、千晴が呼びかけてもほとんど身体を動かすこともなく眠り続けていた。そのせいか、ご飯もほとんど食べていない。医者に診せたが、目立った原因は見つからないと言っていた。ストレスのせいかもしれない、とも。
これまでと生活は何も変わっていない――コウがいなくなったことを除けば。千晴はどうしたらいいのかわからず、心配で心配でたまらなかった。
だから早く帰ろう。
そう決意して打ち合わせの場所に向かって歩いていた。びゅうと冷たい風が吹き抜け、マフラーをきつく結び直す。空はところどころ分厚い灰色の雲に覆われていた。
打ち合わせ場所は、千晴の家の最寄り駅にある喫茶店だ。あのオフィスに出向く必要があるかもしれないと身構えていたが、行きやすいところを指定してくださいと言われて拍子抜けした。用心して少しくらい遠い場所を指定したほうがいいかもしれないと思ったものの、さすがに自意識過剰じゃないかと、結局たまに美味しいコーヒーを飲みたくなったときに使う店を選んだのだ。
店の看板が近づくごとに、緊張で心臓がぎしぎしと軋む気がする。大きく切り取られた窓の端に立ち、そっと店内を覗きこんだ。駅の近くではあるが、平日の昼間のせいか人はあまり多くない。暖かみのある照明で彩られた店内にいるのは、おしゃべりを楽しむ女性客がほとんどだ。この位置からでは、お年寄り以外に男性客を見つけることができない。
カラン、とドアのベルが揺れる。
「いらっしゃいませ……?」
女性店員が中から出てきた。扉の前でうろうろしていたのを見られたのかもしれない。
「えっと、入られますか?」
「え、あ、はい……」
千晴の返事に彼女はにっこりと笑った。
「おひとりさまですか?」
「いえ、待ち合わせなんですが――」
「ああ、こちらに!」
案内をされながら店の奥まで歩いていく。突然、ガタンと椅子を引く音が響いた。
「あ――」
「朝比奈千晴さん、ですよね?」
目の前に背の高い男が立っていた。千晴は思わず心臓を掴むように拳を握りしめる。
「はじめまして、カシマ食品の成海奏です」
耳元でばくばくと激しく鼓動している気すらしている。千晴はどうにかうなずく。
何度も頭に思い浮かべて描いた、少し彫りの深い目元。薄い耳から骨ばった顎のライン。
間違いない。あのとき、僕を助けてくれたあのひとだ。
「パンフレットをご覧のとおり、カシマ食品は業務用の食材を主に取り扱っています。ですが、一般消費者向けの調味料や製菓材料なども商品として揃えており、今後これらの商品にも力を入れていこうと――」
千晴はパンフレットに並ぶ色とりどりの写真に目を向けながら、成海の声にじっと耳を傾けていた。低すぎず高すぎず、穏やかな声だ。初めて会ったときの印象とは少し違う。あのときは憤りがにじみ、ぴりりとした緊張感の中に力強い響きがあった。その声とまっすぐなまなざしに、どれほど救われただろう。
ふと声が途切れていることに気づき、顔をあげる。
成海と目が合った。
どくんと心臓が跳ねた。偶然合ったというより、じっと見つめられていたのではないかと思った。だが、すぐに成海は視線をそらし、手元の資料をめくり始める。
「スタンプのコンセプトですが、弊社にはイメージキャラクターはいないので、今回特にキャラクターを意識せずにオリジナルでデザインしていただきたいと思っていまして――」
千晴も最初に渡された資料を慌てて手に取る。話を聞きながら成海の様子を盗み見る。背が高いのはわかっていたが、肩幅もしっかりしていてスーツがよく似合っている。何かスポーツをやっていたのだろうか。話し方も丁寧で、老若男女誰にでも好感が得られそうだ。もし彼が営業をやってみたら、きっと成績がいいだろうと思う。
「猫のキャラクターがいいんじゃないかな、って思っているんですが……」
おずおずと窺うような声に意識を引き戻される。
「猫、ですか?」
「ええ。商店街のポスターに描かれていた猫がとても可愛かったので。ほ、ほら、今猫ブームですし!」
千晴の沈黙をどう捉えたのか、慌てたように付け加える。千晴は思わず微笑んでいた。
「成海さんは猫がお好きなんですか?」
成海はぴたりと動きを止め、照れくさそうに頭をかいた。
「はい。もともと動物は好きですが、最近もっぱら猫派になってしまいまして……」
きりっとした面持ちが不意に柔らかくなった。表情豊かな人だ。それに、本当に動物が好きだというのが伝わってくる。動物が好きな人に悪い人はいない。成海は最初に思ったとおり、きっと優しくて純粋な人だ。
「コンペと言うほど大げさなものではありません。課内で担当者が候補を持ち寄って相談する形になります。なので、三種類程度簡単なデザイン案を最初に出していただきたいのですが、問題ないでしょうか」
ほかにも細かな条件を伝えられて、千晴は問題ないと答える。
「朝比奈さんのデザインで通るように課内プレゼンがんばるので、どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いしますっ」
深々とされたお辞儀につられて千晴も頭を下げた。成海は微笑み、カップを手に取って残っていたコーヒーをすっと飲み干した。
ああ、話が終わったんだ。
冷めてしまったコーヒーに視線を落とす。この後は千晴がデザイン案を出して、もし採用されたとしたら追加でデザインしたものを成海に提出して――と、データのやりとりだけになるだろう。顔を合わせることはないかもしれない。
「今日はどうもありがとうございました。お会計はこちらでしておきますね。まだコーヒーも残っていますし、ゆっくりしていってください」
書類を足元の鞄に入れて成海が立ち上がろうとした。
「あのっ……」
無意識に声をあげていた。もう一度成海と視線が交差する。ぱちっと弾けるような音が鳴ったような気がした。
今、この機会を逃したくない。
「僕のこと、覚えていませんか?」
「え?」
成海の視線がどこか不安げに揺れた。その表情に千晴の決意も揺らぎそうになる。
ビルで顔を合わせた時間なんて、五分もないくらいだったかもしれない。しかも、助けてもらったというのに千晴は鳴海が戻ってくる前に逃げ出してしまった。覚えていないのも当然だ。
成海は浮かせかけていた腰をもう一度おろした。だが、居心地が悪そうに何かつぶやき、頭をかいている。
「あの、やっぱり――」
「俺のこと、覚えているんですか?」
先ほどまでの困惑していた表情とは一変していた。千晴を射抜くほどまっすぐな視線が向けられている。
「ええ。僕、成海さんにお会いしたことあるんです!」
「そうですよね!」
成海の返事に思わず前のめりになる。
「会社のビルで!」「スノードームで!」
千晴の頭の中が一気に凍りついた。
「……スノー、ドーム?」
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