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11. stride

「もしもし……あ、課長、成海です。おはようございます」 『おお、成海か! 大丈夫だったのか?』 「はい。ご心配をおかけして、申し訳ありません」 『いや、無事でよかったよ。佐川からは明後日くらいには復帰するんじゃないかって聞いていたんだが』 「あのお、それが、えーっと……」  俺は口をもぞもぞと動かす。言い訳だ。考えた文章をしゃべるだけだぞ、俺! 「身体のほうは問題がないみたいなんですが、記憶の混濁がある、らしいんです。まだしばらく安静にして、いくつか検査をしなければイケナイヨウデ……」 『……なんでそんなにカタコトなんだ?』 「え? そ、そうですか? 頭打ったからデスカネ?」 『そうか……』  う、課長。そんな憐れむような声を出さないでくれ。本当のこと言っちゃいそうになるだろう! 『それで、いつまで休むんだ?』 「えっと、とりあえずあと一週間くらいかと……」 『そうか。わかった。仕事のほうはなんとかしてやるから、しっかり治すんだぞ!』 「はい……すみません。ありがとうございます」   ぷつり、と通話が切れる音で一気に力が抜ける。まったく、慣れないことをするもんじゃない。  足元に置いていたボストンバッグを肩にかける。振り返り、先ほどまで自分がいた病室を見上げた。     久しぶりに帰ったアパートは、むっとこもった匂いがした。旅行と入院を合わせて二週間以上家を空けていたことになるが、思っていたよりも大した変化はない。  今回のような不測の事態のとき、ナナのような猫でも飼っていたら大変だろうなと思う。幸い、一人暮らしのこの家では何も飼っていないし、ベランダで育てていたバジルも秋のうちに摘み終えている。  床に荷物を放り投げて、ソファに腰を沈めた。 「はー……ただいまー」  これで「おかえり」なんて聞こえていたら飛び上がっているところだが、しんと静まり返る部屋はあまりにも寂しすぎた。ひとり暮らしなんて、もう何年も続けているというのに。  そんなことを考える理由はわかっていた。ほんの少し前までチハルたちと一緒にいたからだ。  チハルが家に帰ってきて、「ただいま」と言う。飛びついてくるナナを抱えて、チハルは俺にももう一度「ただいま」と言う。俺の「おかえり」の声は聞こえていないはずだけど、チハルは小さくうなずく。  その何気ないやりとりが、すっかり身体に染みついているようだった。 「早く脱出しないと、って思ってたんだけどなぁ」  目だけを動かして部屋を見渡す。会社の借り上げマンションだが、リビングだけでチハルの部屋の倍の広さがある。寝室は別に一部屋あるし、ひとり暮らしにしては贅沢なものだ。  手を伸ばしてみる。壁は遠く、なにかを掴もうと動かした指先が空を切る。 「んんん……んっ!」  身体をバネのようにしならせて、勢いをつけて立ち上がった。猶予は一週間。会社に大嘘までついたんだ。一秒も無駄にするわけにはいかない。 「さて、始めますか」  *  俺はノートパソコンを前に頭を抱えていた。開かれたブラウザの検索窓には履歴がずらりと並んでいる。 『広告制作会社 ちはる』 『グラフィックデザイナー ちはる』 『ちはる 二十五歳』  同じ年くらいだろうと睨んで検索したら、案の定いかがわしいサイトと思しきリンクが出てきた。以前なら……まあ、一回くらいアクセスしていたかもしれない。だが今は不思議と興味が湧かなかった。 「片想い、かあ……」  何度つぶやいたかわからない単語を繰り返す。自問自答しているというか、身体の中でこの感情をころころと転がして、居所を探しているような感じだ。  そして今、俺はシンデレラを探す王子のごとく、片っ端から検索をかけてチハルを探しているのである。だが、王子のように人手も財力もない俺は、一向にチハルの手がかりを得ることができずにいた。    まず、チハルの苗字を知らない。チハルという字は平仮名なのか、あるいは漢字を書くのかもわからない。  勤めていたかもしれない会社の名前はわかった。『広告制作会社 アートディレクター さわだ』で検索すると、ひとつの会社のホームページがヒットしたからだ。その中で『澤田隆介』という男がモノクロの洒落た写真付きで紹介されていたのだ。  だが、この澤田がチハルと関係している男だったとしても、こいつにチハルのことを聞くのは絶対に嫌だった。あれほどチハルに対して独占欲を剥き出しにしていた男が、そう簡単にチハルのことを教えてくれるはずもないだろう。澤田が見た目だけは男前だと言えなくもないのも腹立たしい。 「にしても、圧倒的に情報が少なすぎる……」  パソコンをソファに放り投げて横に倒れこんだ。王子だって、ガラスの靴がなければそもそもシンデレラを探すことなんてできない。とはいえ、よく考えれば靴ひとつで探し出そうなんて大した執念だ。どうしてそこまでシンデレラを見つけたかったのか。 「ただ会いたいからだよなあ」  今やっていることは若干ストーカーじみているという自覚はある。だから迷っていた。仮にチハルを見つけ出すことができたとして、会っていいのだろうか。 「ううっ、寒い」  夢中になって調べている間に日が傾いていたらしい。部屋は薄暗くなり、急激に室内の温度が下がっていく。 「ふえええっくしょい!」  これはまずい。くしゃみと同時に鼻水がずるずると流れてくる。ティッシュを取り出し、思い切り鼻をかんでゴミ箱へ入れようと立ち上がった。 「あれ……?」  キッチンの脇に置かれたゴミ箱を見て、なぜか違和感を感じた。いや、これは既視感か?  四角い黒のプラスチックのゴミ箱から紫色のビニル袋がはみ出ている。紫色、ムラサキ色……?  はっと息を呑んでパソコンを引き寄せる。指が絡まりそうになりながらタイピングする。 『指定ゴミ袋 紫色』  一番最初にヒットしたのは、『全国ゴミ袋マップ』というサイトだった。なんと有志の協力のもと、全国各地の指定ゴミ袋の情報を集めて収集しているらしい。  サイトの中には珍しいゴミ袋のコーナーが設けられていた。その中に、見覚えのありすぎるゴミ袋の写真が掲載されている。 『ピンク色や黄色のゴミ袋はいくつかの市の指定ゴミ袋になっていますが、紫色はここだけです!』 「もしかして……同じ市内に住んでるのか?」  目を閉じて、スノードームから見た光景を頭に思い浮かべる。がさがさと擦れ合うような音、ナナがとんとんとベッドに上がり、くしゃくしゃになったビニル袋を仰向けで抱えている。お気に入りのおもちゃのひとつは――紫色のビニル袋だ! 「ほ、他になにかヒントになるものはっ……」  記憶にある音に集中する。一番最近聴いたものは―― 『もう五時か……仕方ないなぁ。そろそろ休憩しようか』  穏やかな旋律、茜色の夕日。  夕方五時の蛍の光。 「アパートの近くに公園があるのかもしれない!」  ネットで地図を開く。そして一秒で絶望した。 「広すぎる!」  同じ市内で公園の近く、なんて選択肢が多すぎた。干し草の中から針を探す、だったか。こんな調子では、チハルを探し出すのは無謀すぎる話だった。  * 「休暇もこれで終わりか……」  映画館の前でしみじみとつぶやく。来た時には快晴だったが、今は帯のように雲が伸びて、傾き始めた陽の光を受けて鮮やかなグラデーションを作っていた。どことなく切なくなる景色だ。  退院後に会社に届け出た一週間の休暇が終わろうとしていた。毎日のんびり過ごしたおかげで、身体の調子はすっかり良くなっている。腹にあった大きな痣もだいぶ薄くなっていた。  今日は平日だからできること、ついでに頭が空っぽになること、という条件で映画館に来ていた。一週間、慣れない考え事で頭がパンクしそうになっていたのだ。  チハルの情報は、残念ながらまったく集まっていない。いくつか近場の公園に行ってみたが、平日の昼間に男一人でうろついていたら、子連れの奥様方から不審者を見るような視線を向けられてしまった。チハルを探していること自体にやや後ろめたさがある分、いたたまれなさが倍増してしまう。  三日ほどで諦めモードに入ったものの、どこかに出かける気分にもならなかった。家で飯を作って、ぼーっとテレビを見て、寝る。その間に、チハルを見つけたらどうするのかをずっと考えていた。  チハルは俺と会ったらわかってくれるだろうか。いや、ミニチュアになった俺の顔なんてよく見えていないだろう。気になっているのは、スノードームで見たスケッチブックに描かれた横顔だ。俺はチハルに会ったことがあるのだろうか。何度考えても、思い出すことができない。  結局、映画はガンアクションを選んだのに、内容はほとんど頭に入らなかった。とぼとぼと映画館を出て、そのまま最寄りの駅には行かず、しばらく歩くことにした。  空気はピリッと冷たく、空焚き状態の俺の頭を少しだけ冷ましてくれている。大通りから小道に入り、方向も決めずにひたすら歩き続ける。  静かな住宅街に入ると、コンクリートの塀の上にでっぷりとした三毛猫が居座っていた。 「おーい」  ナナと触れ合って以来、俺はすっかり猫派になってしまっていた。この三毛猫はナナよりもずいぶん貫禄があって目つきもなかなか鋭い。指先を伸ばすと、ふんっと顔を逸らされてしまった。 「なあ、ナナってシャム猫みたいなやつ、知らないか?」  あたりを見渡して小声でささやいてみる。三毛は胡乱な目で俺を見つめ、馬鹿にしたように大きくあくびをした。 「なにやってんだか、俺は……」  首を振ってため息をつく。 「びゃあ」  かすれた鳴き声に顔を上げると、三毛が大きな腹をたゆませて立ち上がっていた。そのまま塀の上をとんとんとん、と歩きだす。 「どこに行くんだ?」  興味を惹かれて三毛のあとを追いかける。三毛は速くも遅くもない速度で俺の前を進んでいく。  塀から伸びた枝葉が生い茂る家と家の間の狭い通路を腰を屈めて歩く。突然現れた細い階段を上って、どんどん上って、息が上がった頃に緩やかな下りカーブの道路に行き当たる。 「三毛……どこまで行くんだよ……」  横目に街を見下ろす。先ほどまでいた映画館や駅まで見えた。吐く息は白く、赤すぎるほどの夕焼けの空にたなびいていく。  三毛は容赦なく歩き続ける。確かな足取りはどこか目的地があるように見えた。対して俺にはチハルの手がかりもなく、目指す場所もわからないまま歩いているだけだ。  小高い丘の向こう側は、ひとつ隣の駅の街のようだ。三毛は大通りには出ず、脇の小道に入っていった。方角的には丘の上から見えた駅に向かっている。まさか三毛は電車に乗るつもりじゃないだろうな、と考えながら、積もった枯れ葉を踏みしめた。 「びゃあう!」 「うわっ、どうしたんだ?」  三毛が突然走り出した。道路を横切り、脇目もふらず跳ねるように駆けていく。 「あぶないぞ!」  慌てて追いかけたものの、猫の本気に運動不足気味の人間が追いつけるはずがない。 「はあ、はあっ……ここは……?」  膝に手をつき、息切れしながら顔を上げる。目の前には小さなパン屋があった。その向かい側から揚げ物のいい匂いが漂ってくる。匂いと人の気配に誘われて、俺は重い足を引きずるように通りを進んでいく。 『美味しいお肉、新鮮野菜、魚もお米もなんでもござれ!』 「ん? この歌、どこかで……」 『ごはんを食べたい? おしゃれをしたい? ランチもファッションもなんでもござれ!』  頭上のスピーカーを見上げる。リズミカルで陽気な音楽が通りを満たしていた。あたりを見渡してみるが、この商店街に来た覚えはなかった。この歌を聴いたことがある気がするのに、いったいどこで聴いたのだろう。 『みんなあなたを待ってるよ! 素敵な笑顔を待ってるよ!』  少し調子外れの鼻歌が頭の中で重なる。 『ふんふんふふん、みんながあなたを待ってるよ~、素敵な笑顔を待ってるよ~』 「……チハルだ! そうだ、チハルが歌っていた曲だ!」  あのとき、チハルは何をしていたんだったか。 「ミーちゃん、どこ行ってたんだい?」 「びゃう」  聞き間違えようのない鳴き声を探す。鮮魚店の店先で、三毛が魚のぶつ切りのようなものをもらっていた。 「なんだ、ここにいたのか――」  三毛のいる場所へ向かおうとしたとき、一枚のポスターが目に入った。  商店街のクリスマスイベントのポスターだ。赤と緑の鮮やかな飾りとイルミネーションに彩られた商店街が目を引く。  降り積もる雪は真っ白ではない。ひとつひとつがまるで貝殻のように虹色に輝いている――まるで、スノードームの雪のように。  真ん中の通りを歩いているのは、ナナにそっくりな猫のキャラクター、そして手を繋いで歩く黒髪の男の子。 『去年も引き受けたイベントのポスターなんだけど、去年のものが良かったからって今年も依頼してもらえたんだ』  そうだ、チハルはそう言っていた。それはきっとこのポスターのことだったんだ! 「あの、すみません!」 「はい、いらっしゃい」  三毛に餌あげていた鮮魚店の店主が顔を上げた。 「あそこに貼ってあるポスターを描いた人のこと、ご存知ですか?」  はやる気持ちを抑えてひと言ずつ噛み締めるように言う。 「ポスター? ああ、クリスマスイベントのね。いやあ、俺は誰が描いたかは知らないなあ」 「そう、ですか……」  細く繋がっていた糸がぷつりと切れたように感じた。だが、チハルに関してこれ以上の手がかりはない。糸の端にすがりつくように声を絞り出す。 「誰が、知っている人はいないでしょうか」 「うーん、そうだなあ……ああ、古橋さんなら知ってるかもしれないな。この町の商工会の広報をやっているんだよ。あのポスターにも関わっているんじゃないかな」  商工会、広報。そこにいけば、チハルにつながる。 「ありがとうございます!」 「え、ああ、うん?」  いきなり俺に手を握られて店主が目を白黒させる。俺の足元で三毛が不満げに「びゃあ」と鳴いた。

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