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10. confide

 コウがいなくなって、一週間が経った。  千晴はデスク脇の棚に戻したスノードームを見つめていた。ふう、と息を吐いてデスクに伏せる。 「やっぱり、全部僕の妄想だったのかな……」  柔らかな感触がふくらはぎをかすめる。 「なぁぅ」  ナナが小首をかしげて千晴を見上げていた。抱え上げて膝に乗せてやる。落ち着く場所を探してふんふんと鼻を動かし、くるりと身体を丸めた。  ディスプレイには依頼を受けている仕事の編集画面が映っている。最近、ポスターの依頼を皮切りにデザインの仕事が少しずつ順調に進み始めていた。珍しく少し先のスケジュールまで埋まってきているのだ。内容としては小規模のものでも、仕事を途切らせることなく続けることができるというのは幸せなことだった。でも―― 「コウにも見せるって、約束したのにな」  嬉しいことも、悲しいことも、全部コウに話した。小さなコウは全身をめいっぱい使って千晴の声に応えてくれようとしていた。  コウがいたとき、ガラスの中のログハウスはまるで本物の家のように見えていた。いつか夢に見たような、室内の温かな光を映し出す窓、ゆっくりと開く扉。今は固く閉じられた陶器の家でしかない。  膝の上の温もりを撫でる。あれほどスノードームに執着していたナナも、今ではすっかり興味をなくしてしまっていた。  ドームを手に取って傾けてみた。さらりと雪の欠片が流れ落ちる。  コウが慌てて飛び出してくるようすを思い浮かべた。いったい何事だときょろきょろあたりを見渡して、千晴に何か訴えようと必死に動き回るだろうか。目を回して転んでしまって、照れくさそうに頭をかいて笑うのだろうか。実際に見ていたときよりも、なぜか彼の表情を鮮明にイメージできた。その上、心がほかほかと暖まるような気持ちになる。  全部幻だったとは思いたくない。都合のいい夢だったと思うにはあまりにも鮮やかな想い出だ。  *  ガシャン、と派手な音で我に返る。 「あっ……」  足元がじっとりと濡れる。バケツが横に転がり、汚れの残った水がみるみる間に丸く広がっていく。 「千晴ちゃん、大丈夫かい?」  キヨシさんがぱたぱたと近づき、茫然とする千晴の足にタオルを押し当てた。 「あ……すみません!」 「ああ、動かないで。一度靴を脱いだほうがいいんじゃないかなあ?」  綺麗な雑巾を選んで床に広げている。促されるままに千晴は靴を脱いで布の上に足を伸ばした。裸足の足先に冷気が触れて、じんじんと痺れていく。 「千晴ちゃん?」 「ご……ごめんなさい」  慌てて足を拭き、そのまま膝をついて床の水を拭う。手がかじかんできて痛いのに、力いっぱい握りしめてしまう。  心を、どこかに置いてきてしまったみたいだ。  仕事はうまくいっている。それなのに足元がぐらぐらと不安定で、一歩でも踏み間違えればすぐに崖から落ちてしまいそうな、そんな不安がつきまとっていた。 「大丈夫だよお」  千晴の腕にキヨシさんがそっと触れる。皺だらけの優しい手だ。ぽんぽんと子どもをあやすように撫でられ、千晴は涙が滲みそうになるのをぐっと堪えた。 「千晴ちゃん、僕ねえ、この間スマートフォンを買ったんだよ」 「……は、い?」  唐突に何を言い出すのだろう。キヨシさんは千晴の冷えた指先を手で包み込んでにっこりと笑う。 「娘がね、ずっと買え買えってうるさくてねえ。そんなものは要らんって言ってたんだが、娘が勝手に持ってきたんだ。それで孫とも連絡取れるようになるって言われたら仕方ないって思うだろう?」  じんわりと伝わる熱を感じながら千晴はうなずく。 「それで、もらったものを触ってはみたんだけど、使い方がさっぱりわからなくてねえ。でも意地になっちゃって。娘には聞けなかったんだよね」 「キヨシさんが、ですか?」 「そうだよお。父親っていうのは、いつまでも娘にはみっともないところを見られたくないっていう気持ちがあるんだよねえ。壊したくもないしなあって思って放っていたら、この間久しぶりに孫が遊びに来てくれたんだ。それで、『じいちゃん教えてやるよ』なあんて言ってきてね」  嬉しそうに頬を緩める姿に、孫が可愛くて仕方がないというのが伝わってくる。 「教えてもらっても大変なんだ。覚えることが本当に多くてねえ。昔よりももっと忘れっぽくなってるし。それでも孫が根気強く教えてくれるんだよ。特製の説明書まで作ってくれてねえ」 「優しい、お孫さんですね」  キヨシさんはうんうんとうなずく。 「昔は、僕がおしめを替えてやったり風呂に入れてやったりしてたもんだ。娘夫婦は仕事で共働きだったから、小さい頃はほとんどうちで面倒をみてやっていたんだよ。それが今はもう、逆に世話になるばかりになってしまった。娘に頼りたくないとは言ったけどね、まめに顔を出してくれるのも本当はありがたいもんだよお」  しみじみとつぶやく声に千晴は顔を上げた。優しい瞳が千晴を見つめている。 「きっと、人間はこうやってうまくバランスをとっているんだよね。誰かを思いやった分、誰かが自分を助けてくれる。頼ったり、頼られたり、そうやってまあるく人の輪がつながっていくんじゃないかなあって僕は思ったんだ」 「あ……」  千晴は思わず目を伏せた。キヨシさんがなにを言いたいのか、ようやくわかってきた気がする。 「キヨシさん――僕はもっと自分の力で立っていかないといけないって思っていたんです。誰かに頼ってしまうと、どんどん自分が弱くなってしまう気がして……」  澤田の存在にすがっていた。仕事がうまく進めば、距離をおいて自立できると思っていた。でも、コウがいなくなって、突然また不安が襲いかかってきた。  そして気づいてしまった。  今度はコウにすがろうとしていただけだ。それでは結局何も変わらない。いったいいつになったら、ひとりでいることに耐えられるようになるのだろう。いつになったら、弱い自分から抜け出せるのだろう。  うーん、とキヨシさんがうなる。 「弱くたっていいんじゃないかなあ」 「え?」  細められた目尻に柔らかな皺が集まる。 「弱さを知っている人じゃなければ、他の人のことを思いやることなんてできないよお。千晴ちゃんは、とても思いやりのある子だ。僕だっていつも助けてもらってるしねえ」 「そんなこと――」 「そんなことないって、思ってるのかい?」  千晴がうなずくと、キヨシさんは不思議そうな顔で小さな目をぱちぱちとしばたかせた。 「大げさなことをすればいいってもんじゃない。受け取る相手が嬉しいと思ったなら、それは立派な思いやりじゃないかなあ。足が悪い僕に合わせて千晴ちゃんはゆっくり歩いてくれる。階段の上り下りで手を貸してくれる。僕に代わって水を替えに行ってくれたり、重いものを運んでくれたり……千晴ちゃんは大したことないと思っているのかもしれないけど、僕は本当に嬉しいと思っているんだよお」   キヨシさんが千晴の手を優しく撫でた。 「それに、必ずしも替わりばんこに助け合うわけじゃないかもしれない。いつか千晴ちゃんが誰かの助けになるために、今はたくさん人を頼っていっぱい力を溜め込むときなのかもしれないよお。ほら、うちの孫と僕みたいにね」 「キヨシさん……」  「誰かのために、千晴ちゃんにしかできないことがきっとあるんだよ。それがどんなことなのか、見つけることができたらいいねえ」  僕にしか、できないこと。いったい何があるだろう。 「なんだか説教くさくなっちゃったかなあ」  ぱっと手が離れる。千晴はぶんぶんと首を横に振った。そんな千晴を見て、キヨシさんは「そうだ」と手を合わせてつぶやいた。 「それじゃあ千晴ちゃん、さっそく頼りたいことがあるんだ」 「なんですか?」 「写真の撮り方を教えてくれないかなあ? 孫に送りたいんだ」  ポケットからスマートフォンを取り出して照れたように笑う。  ふっと千晴の中で張りつめていたものが切れた気がした。なんだか、泣きたいような笑いたいような気分だ。キヨシさんのおかげで、忘れかけていたことを思い出すことができた気がする。 「もちろんです。僕に手伝わせてください!」    *  ディスプレイの中には、クリスマスの飾りに彩られた商店街の絵が描かれている。真ん中の通りを歩いているのは、ナナにそっくりな猫のキャラクターだ。丁寧に描きこんだふわふわの毛のまわりに虹色に輝く雪が舞っている。  幼稚園で母の似顔絵を描いたとき、母はすごいと手をたたいて抱きしめてくれた。中学や高校で、美術部に入っているからと学園祭のポスターデザインを任されたとき、知らない生徒や先生からも良くできていると声をかけられた。一年前、ポスターの依頼を受けて作ったとき、商工会の人たちは想像した以上の出来だと言って喜んでくれた。  その瞬間の笑顔があるから、この仕事をやめられないんだ。  これまでは、とにかく必死だった。生きるのに必死すぎて、なぜ自分が仕事をしているのかわからなくなっていたのかもしれない。  でも、自分が何かを作って、それを見た誰かに少しでも幸せな気持ちになってほしい。シンプルだけど、とても大切なことを思い出すことができた。  千晴はポスターを編集画面に移し、最後にひとつだけ手を加える。  カーテンを閉めようと立ち上がった。足元にひんやりとした空気が溜まっている。ふと思い立って窓を開けた。真ん丸の満月がぽっかりと浮かんでいる。小さな星たちが月のまわりで静かに瞬く。まるで、舞い落ちる雪の中で笑うコウの笑顔に見えた。 「コウ……きっと、どこかで見ていてくれるよね」  千晴のつぶやきに応えるように、毛布の中からナナが「なうぅ」と鳴いた。

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