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9. bedside
『コウ……どこにいったの、コウ――』
「――ウ、ソウ」
うるさいなあ、もっと寝かせてくれよ。
「お願い、奏。早く戻ってきて――」
かすれるような声にしぶしぶ目を開いた。視界に急激に光が入り込み、あまりのまぶしさにまぶたをぎゅっと閉じる。
「奏? ……奏!」
「ううん……?」
もう一度薄く目を開くと、白い天井が見えた。だが、すぐに暗くなる。ぱちぱちとまばたきをしていくうちに、だんだんと視界がクリアになってきた。
「奏、起きたの? 奏?」
目の前に母親の顔があった。目尻が赤い。薄っすらと涙まで浮かべている。
「どうしたんだよ、いったい……」
「どうしたんだよ……じゃないわよこの馬鹿息子があっ!」
肩を掴まれ、いったいどこにそんな力があるんだというくらいに激しく揺さぶられた。
「奏、起きたのか! ……って咲子さん! そんなに揺すっちゃダメだよ!」
父親の声までする。揺れは収まったが、ぐるぐると目が回っていた。
「奏、大丈夫か?」
「う、うん……?」
「ほら咲子さん、早く先生を呼ばないと。奏、もうちょっと待っててな」
珍しく父親が母親よりもしっかりしているように見える。母は目頭を押さえてどこかへ行ってしまった。
「きみの名前は?」
「成海奏です」
白衣を着た初老の男が大きくうなずく。
「どうしてここにいるのかは、わかってるかな?」
「いやあ、それが全然わからなくて……」
「どこまで覚えているか、話せるかい?」
そう言われても、すぐにはぱっと思い出せない。
「ここって、病院ですよね?」
今さらながら、自分の置かれている状況に目を向ける。左腕を動かすと小さな痛みが走った。細い管が延びていて、すぐ脇の点滴の袋に繋がっているのが見える。
「そうだよ。きみはスノーボードをしに雪山に行って、そこで雪崩に巻き込まれて滑落したんだ」
「え……」
スノーボード、雪崩、滑落?
背後から響く轟音、身体を押し倒す強い風圧、振り返った瞬間、真っ白な怪物の口が目の前に迫っている。
「あ……」
「思い出したかな?」
どうにかうなずく俺を、医者は神妙な顔で見つめる。
「幸いなことに、救助隊が派遣されてすぐにきみは発見されたんだ。おまけに手足の骨折や大きな内蔵の損傷もなかった。丈夫に産んでくれたご両親に感謝するんだね」
「そう、ですか」
横で話を聞いている母がずずっと鼻をすする。
「だがきみは丸一週間目を覚まさなくてね。眠っている間に行った検査では大きな問題は見つからなかったんだが、脳内になんらかの異常がないとはまだ言い切れない。今のところ直近の記憶障害はなさそうだが、もう一度ひと通り検査をさせてもらうよ」
「はい……よろしくお願いします」
俺の言葉に医者はうなずき、「少しご両親とお話しするからね」と言って二人と一緒に部屋を出ていった。
「一週間、か」
なんだか、もっと長い間眠っていたような気がする。それに、なにかとても大切なことを忘れてしまっている気もする。
身体を起こそうとして、脇腹に鈍い痛みが走った。寝間着をめくってみると、大きな内出血ができていた。滑落したと言うくらいだから、落ちる途中で木かなにかにぶつかったのかもしれない。
急に背筋がぞっとした。骨折もなく生きて帰ってこれたなんて、奇跡的すぎる。
すぐに看護師がやってきて、「とりあえず今からCTをとりますね」と言われた。他の検査は病院の都合で後日やるらしい。検査がひと通り終わるまでの間、しばらく入院して安静にするようにと言いつけられる。
あとはどたばたとわけもわからないまま連れまわされて、いくつか問診を受けたあとに機械台に乗せられた。途中で注射のようなものまで打たれて、終わってベッドに戻ったときには俺はへとへとになっていた。一週間も眠り続けたというのに、俺はまた気絶するように眠っていた。
「成海ぃぃいい!」
「おーい、大丈夫か?」
「おわっ! 木谷、峰岸も佐川も、わざわざすまんなぁ」
「すまんじゃねぇだろぉ! 心配したじゃねぇかよおおお!」
ひと際大声で叫ぶ木谷を残りの二人がたしなめる。
「意識が戻ったのは二日前だっておまえんとこの課長から聞いたけど……元気そうだな?」
「ああ。今のところは特に大きな異常はなさそうだってさ」
俺の答えに三人は思い切り安堵の表情を浮かべる。スノボ旅行には、俺を含めたこの同期四人で行っていたのだ。
「おまえが上級者コースのほうに行ったとは知っていたけど、まさかそこで雪崩が起きるなんて思ってもいなかったよ。っていうかおまえ、ちょっとコースから外れたところにいたんじゃないか?」
峰岸が鋭い目で俺を見る。俺は首をかしげることしかできない。コースを外れる? 雪山がいかに危険な場所か、学生のときから充分に叩きこまれているのに、そんなことをするだろうか。
「……まぁいい。とにかく無事で良かったよ。おまえが死んだら一緒に行った俺たちも後味が悪くてたまんないからな」
「はは、心配かけて悪かったよ」
頭をかく俺に佐川が「そういえば」と声をかける。
「退院はいつ頃になりそうなんだって課長が聞いてたぞ」
「うーん、まだいくつか検査が残ってるらしいから、あと数日はいないとダメかもしれない。あ、仕事はどうなってるかわかるか?」
休暇を含めれば二週間近く休んでいることになる。自分が担当していた案件が滞って迷惑をかけているに違いない。
「あー、大丈夫大丈夫。おまえ一人いなくてもなんとかなるって課長が言ってたぞ」
「げ、まじか」
「まじまじ」
佐川がにやにやと笑いながら俺の肩を叩いた。
「とにかくしっかり治してこいってさ。クビになる前には帰ってこいよ」
静かになった病室で、同期たちが置いて行った花や菓子のかごをぼんやりと見つめる。
『コースから外れたところにいたんじゃないか?』
峰岸の言葉が頭の中で引っかかって離れない。俺は目を閉じて、そのときのことを思い出そうとした。
『――助けて』
はっと目を開く。あたりを見回したが、ここは個室で俺の他には誰もいない。
ズキン、と一瞬だけ頭に鋭い痛みが走った。
そうだ、あのとき俺はなぜか声が聞こえたような気がしたのだ。痛みを抱えた声を無視することができずに、木々の間に入っていった。
「いったい、なんだったんだ……?」
わけがわからず頭をかきむしる。
ひらひらと、目の前に小さな破片が舞っていた。白い布団の上に音もなく落ちる。
指先に取って光にかざすと、白に見えたそれは虹色に輝いていた。
「あ、れ……?」
頭の中が突然嵐が吹き荒れたようにかき混ぜられる。あまりの激しさにめまいがして、俺は思わず息を呑んだ。
水色の大きな目、鋭い牙と爪、あずき色の……肉球?
『ナゥ!』
緩くうねる髪、少し上向きの鼻――似合っていない眼鏡。ほっそりとした顎のライン、真剣な横顔。きゅっと結ばれた薄い唇。涙がにじむ焦げ茶色の瞳。
『コウ』
キラキラ光る雪の破片の隙間から見えた、柔らかな笑顔。
「チハル……?」
胸のあたりをぎゅっと掴む。思い出した。俺は……俺は、チハルというひとと一緒に過ごしていた。それも、彼のスノードームの中で。
「あら、皆さんもう帰っちゃったの?」
母の声に顔を上げる。笑顔だった母の表情が一気に曇った。
「奏……どうかしたの? 大丈夫?」
俺は返事もできずにただ母の顔を凝視していた。肩に手を置かれて、ようやく我に返る。
「あ、ああ……大丈夫。ちょっと驚いただけだよ」
「そう……? なにか変だと思ったら、すぐにナースコールを押すのよ」
「うん……わかってる」
俺はとりあえず笑顔を作った。明らかに変なことは起こっているが、口には出さない。誤魔化すついでにベッドサイドに置かれたコップを手に取った。
母は眉を上げて、腰に手を当てて俺の顔を覗きこむ。そしてにやりと笑みを浮かべた。
「じゃあ、『チハル』ってだあれ?」
「ぐほっ!」
げほげほと咳き込む俺の背中を「あらあら」と言いながら母が撫でる。
「そんなに焦るなんて、もしかして彼女?」
「ち、違っ……」
「あら、違うの? 遼くんも私も楽しみにしてるってのに、あんたっていつもそろそろってときに別れちゃうんだから。いつか紹介してほしいもんだわぁ」
「だから、そんなんじゃないって」
遼くん、とは父のことだ。母は「ふうん?」と明らかに信じていないようすで俺を見ている。だが、急にふっと肩の力を抜いて微笑んだ。
「ま、元気で生きているならそれだけで充分だけどね」
俺はぐっと言葉に詰まった。両親にひどく心配をかけていたことに今さらながら気づく。
「……ごめん」
「なによ、よかったって言ってるのよ。ああそうだ、私は明日から仕事に復帰するから、夕方に顔を出すだけになっちゃうけど大丈夫よね?」
しっかり心配をした後で、今も現役でキャリアウーマンをやっている母らしいひと言に俺は思わず笑ってしまった。
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
母はにっこりと笑んで俺の頭をくしゃりと撫でた。カバンを手に持ち、「じゃあ、今日は帰るね」と扉を開ける。部屋を出る直前、母はくるりと振り返った。
「片想い、がんばんなさいよ!」
いやいや、片想いじゃないし。そもそも男だし!
一人取り残された部屋で、俺は悶々と考え続けていた。そして何度もチハルの顔を思い浮かべる。
男だというのに、綺麗だと思った。そしてとても寂しげな人だった。
なんとかしてやりたい、なんて思っていたのに、結局何もできないまま戻ってきてしまった。
ちゃんと食べているのだろうか。今もひとりぼっちで泣いていないだろうか。
泣き顔を思い出すだけで、ぎゅっと胸が締め付けられる。笑顔を思い出すと、身体中をほっかほかの温かな感情が駆け巡る。これじゃ、まるで――
「片想い……?」
肩のあたりからまたひとかけら、キラキラと雪の破片が落ちてきた。
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