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8. outside

「では、今回も出来上がりを楽しみにしていますね」 「はい。ご期待に添えるようにがんばります」  古橋は千晴の返答を聞いて嬉しげにうなずいた。  錆びた手すりのざらりとした感触を指先でなぞる。とん、とん、とんと階段を下りる足音も心なしか軽い。穏やかな太陽の日差しに目をすがめた。振り返り、小さなビルを仰ぎ見る。二階の窓から古橋が手を振っていた。  千晴はゆっくりと通りのようすを眺める。休日の昼下がり、親子連れや老婦人がのんびりと買い物を楽しんでいた。この小さな商店街は古くからこの町の台所として親しまれてきたと、ちょうど一年前に古橋から説明を受けていた。マフラーを引き上げ、町の人々に混ざって千晴も歩き出す。  古き時代の雰囲気が残る金物屋、奥には老主人が彫刻のように座っている。海の匂いに満ちた鮮魚店、魚たちがまるで生きているような澄んだ目で千晴を見返してくる。どこからか芳ばしい香りが漂ってきた。こじんまりとしたパン屋だ。小学生くらいの子どもたちがやきそばパンを片手に飛び出してきた。その向かい側からも食欲をそそる匂いがする。精肉店でコロッケを揚げているらしい。ぐう、と千晴の腹が鳴った。  八百屋の前に並べられた大ぶりの野菜の安さに千晴は目を見開いた。 「白菜がひと玉で百円……!」  千晴の足よりも太い大根は一本七十円。大きいものを買っても、切って冷凍庫に入れてしまえばもつはずだ、と頭の中で素早く算段する。 「あらぁ、いらっしゃい」  店の奥からエプロンをつけた女性が顔を出した。手にはみずみずしい葉色のほうれん草を抱えている。ここにあるものを食べていれば今よりずっと健康になれそうだな、と千晴は思った。 「えっと、白菜と大根と……そのほうれん草をいただけますか?」 「はい! ちょっと待っててくださいねー」  目尻に笑い皺をたっぷりと作って、跳ねるように野菜のもとへ向かう。 「このあたりが綺麗で大きいと思うけど、どう?」 「ええ。それでお願いします」  女性はうなずき、丁寧な手つきで袋に入れていく。 「あれ、それは買ってませんけど……」 「ああ、いいのいいの。おまけだから! 最近また急に寒くなったでしょお? 風邪予防だと思って食べちゃって!」  薄いビニル袋にころころと濃い橙色のみかんが四つ入れられる。 「ありがとう、ございます……」 「こちらこそ! また来てちょうだいね」  小銭を手渡して袋を受け取る。ずっしりとした重みが、なんだか嬉しい。  商店街の端まで歩いて振り返る。頭上には『花町商店街』と書かれたアーチ状の看板がかかっている。暖かな空気の残る商店街だ。家からバスで二十分ほどと普段の買い物をするには少し遠いが、たまには足を伸ばして来たいと思える場所だった。  冬晴れの空は高くどこまでも澄んでいる。千晴は袋を抱え直して、バス停へ向かった。 「ただいま」 「なぁう!」  ナナが飛んできて足元に絡みついてくる。小さな足を踏んでしまわないようにそろそろと歩き、荷物を下ろす。 「コウ、ただいま」  ベッドへ向かうとコウも手を上げて千晴を出迎えた。もうすっかりこの家の一員だ。ベッドに腰かけると、ナナがすぐに膝の上に乗って頭を擦りつけてきた。 「あのね、今日は仕事の依頼をもらったんだ。去年も引き受けたイベントのポスターなんだけど、去年のものが良かったからって今年も依頼してもらえたんだ」  スノードームに向かって話かけるなんて、最初は自分でも頭がおかしくなったんじゃないかと思っていた。それが今では大切な習慣になっているなんて、不思議なものだと思う。  コウはその場で何度かジャンプをして、足元の雪の破片を集めてふわりと投げた。 「お祝いしてくれてるの?」  コウが大きくうなずく。心がぽうっと温かくなるような気がした。 「できあがったら、見せるからね」  そっとドームに触れる。コウがその指先に手のひらを当てる。 「ふんふん~、美味しいお肉、新鮮野菜、魚もお米もなんでもござれ~」  商店街で流れていた曲がどうしても頭から離れない。千晴は作業をしながら調子外れの鼻歌を歌っていた。ポスターをどんなデザインにするのかは、今日実際に買い物をしながらイメージを固めていっていた。あとはどんどん手を動かすだけだ。  あの日――澤田が家に来た翌日、コウに全てを話したことによって千晴の中で何かが変わった気がした。今まで誰にも話すことができなかったことを吐き出したおかげで、自分が本当に何をしたいのか、何をしなければいけないのか、考えることができたのだと思う。  澤田からは一度だけ連絡があったが、無視していた。その後も特に何も言ってこない。澤田だって仕事がある。千晴にばかり構ってはいられないのだろう。 「ふんふんふふん、みんながあなたを待ってるよ~、素敵な笑顔を待ってるよ~」  やっぱり、デザインの仕事が好きだ。  商店街のポスターは、一年前に別の依頼主からの紹介で引き受けていた。先日、商工会の古橋から「去年好評だったから、またぜひお願いしたい」と連絡が来たのだ。  単発の仕事で、収入としてはとても少ない。それでも、自分が作ったものが人の目に触れて、少しずつでも評価をもらうことができれば、今回のように次の仕事につながることもある。  澤田に頼る必要はない。これからは自分の力で生きていくのだ。  『チハル』  名前を呼ばれた気がした。目を開けると、そこには小さなログハウスが立っていた。隣には雪をかぶったモミの木がある。  千晴は歩き出そうとして、足元のざらりとした感触に視線を下げた。虹色の雪の破片が散らばっている。おそるおそる足を踏み出し、ログハウスの扉を開いた。 「わあ……」  中は外観とは違ってとても広く見えた。奥の暖炉に近づくと、丸い絨毯の上に見覚えのあるものがいくつも転がっていた。 「懐かしい……」  ぼろぼろのテディベアは、千晴が生まれたときに祖父からプレゼントされたものだったと聞いている。赤ん坊の頃の千晴は、このテディベアから引き離そうとすると永遠に泣き続けたらしい。  クレヨンの箱は、幼稚園で絵を描いていたときに使ったものだ。千晴は何でも絵に描いた。初めて行った水族館で見た魚たち、幼稚園の花壇の花、それから母親と自分。走るのは苦手だったけど、絵はたくさん褒めてもらえた。母親が迎えにきても夢中になって描いていて、家に帰りたくないとまで言っていたのを思い出す。  表紙にスノードームが描かれた絵本を手に取った。開いたページを見て顔を上げる。この部屋にそっくりな絵が描かれていた。部屋の中では、妖精や動物たちが賑やかにパーティーをしている。  だが、ここは静かだ。誰かがいた気配があるのに、誰もいない。  そしてここにあるものは全て、失くしてしまったはずのものだ。    スケッチブックを拾い上げ、ページをめくる。今はグラフィックデザイナーでありながら、イラストレーターの役割もこなさなければならない。千晴は以前、街に出かけてはスケッチをして、絵の練習を繰り返していた。ナナを拾ったばかりの頃に描いた絵もたくさんある。 「あっ」  一枚のページに男の横顔が現れた。千晴がバイト中に襲われそうになったときに、助けてくれた男だ。  彼と会ったのはあの一度きりだった。顔だって、まともに見ていたわけじゃない。だが、いつか偶然にでも出会えたときに必ず礼を言いたかった。だから、彼の顔を忘れないようにと絵に残していた。  彼は優しくて、強い目をしていた。記憶を探りながら、納得がいくまで何度も描き直した。  男の頬の線を指先でたどる。 「……コウ?」  千晴ははっと顔を起こした。身体をぶるりと震わせる。背中がぴしりと音を立てた。カーテンの隙間から薄闇に包まれた夜明け前の世界が見える。よほど集中していたのか、デスクに突っ伏したまま寝てしまったらしい。  長い、長い夢を見ていた気がする。  ぼうっとする頭を横に振る。ディスプレイには、ほぼ形になったポスターが映っていた。期日まではまだ時間がある。一度寝かせて修正するほうがいいだろう。  肩を回して立ち上がり、ベッドへ向かった。こんもりと丸みのあるところの布団をめくる。ナナが丸くなってすやすやと寝ていた。ナナを起こさないようにそうっと布団に入り、頭上のスノードームへ視線を向けた。  何か違和感がある。 「コウ?」  ドームの中が冷たく、無機質に感じられた。いや、もともとすべて作り物だ。でもいつもなら――コウがいるその場所は、とても暖かで優しい色をしているように見えていた。 「コウ……」  呼びかければ、コウはいつだってすぐに千晴の前に現れた。肩をすくめるように軽く手を上げて、千晴の声に耳を傾けてくれる――はずだった。  何度も名前を呼んだ。それでも、コウが再び姿を現すことはなかった。

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