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7. inside
寂しいひとだな。
俺は、すぐ目の前で倒れ込むように眠っているチハルを見てそう思った。チハルの目尻には涙の雫が残っている。
これまで本当の意味で誰からも愛されなかったのかもしれない。そして愛することもできなかったのかもしれない。家族に頼ることもできなかったと言っていた。それはどれほど寂しいことだろう。平凡な人生を歩んできた俺には、薄っぺらい想像しかできないのがもどかしい。
絵本の中の男の子と、チハルの姿が重なる。ひとりぼっちで、賑やかなスノードームから帰りたくないとぐずる男の子。絵本では最後に家族が戻ってきたが、チハルのもとには誰もいなかったのかもしれない。
唯一すがることができたのが、サワダという男だったのか。
「どうしてそんな男に捕まっちゃったんだろうなぁ……」
他人事なのに、深くため息が出る。
チハルは確かに、独特の雰囲気を持っている男だ。綺麗だが、透明や純白というわけではない。薄く墨を溶かしたような濁りがある。それがかえって、どこかに繋ぎとめておかないと消えてなくなってしまいそうな儚さにつながっているような気がする。サワダが執着するのも、そういうことなのかもしれない。
「だからと言って不倫はいかんよ、不倫は!」
ぴしりとチハルを指さした。もちろん俺の声が虚しく響くだけである。
俺はチハルのことを可哀想だとは思わない。どんなに身の上が寂しいものでも、やっぱり自分の行動は自分で責任をもつべきだ。チハル自身が言っていたように、自業自得なところもあると思う。
だが、取り巻く環境や人に恵まれず、他人も自分も信じることができなくなってしまったことは不幸なことだ。彼を支えてあげられる人が傍にひとりでもいれば、ここまでこじれることはなかったはずだ。
「なんとかしてやりたいよなぁ」
つぶやいた自分の言葉にはっとした。
『いやいや。こんなやつ放っておいて、ここから早く脱出したほうがいいんじゃないのか?』
左側からささやくような声。
『チハルを助けてあげなくていいのか? もしかして、そのためにおまえはここにいるんじゃないのか?』
右側からも問いかける声。どっちが悪魔か天使かなんてわからない。
「ああああ、もう!」
頭をかきむしってその場に座りこんだ。じっとチハルを見つめる。
俺は中高一貫の男子校出身で、中学からの同級生は、今でも俺をからかうときに『なるみママ』と呼ぶ。スナックの妖艶なママじゃない。オカンという意味での『ママ』だ。
中学で所属していた空手部には、市村という同期の男がいた。こいつがもう、破滅的にダメなやつだった。試合があるのに道着を忘れる、そもそも合同練習や試合の日程も忘れる、合宿所にはひとりでたどり着けない、など挙げていけばきりがない。
二年生からはクラスも同じだったが、当然のように教科書を忘れ、宿題も忘れ、本人も困ったなぁと笑うもんだから、先生からは毎日のように雷が落とされていた。いったいこいつは今までどうやって生きてきたのだろう。俺の目には市村は地球外生命体のように見えていた。
だから聞いたのだ。「おまえはどうしてそんなに忘れっぽいんだ?」って。
『うーん、どうしてだろう。俺も忘れたくて忘れているわけじゃないんだけどさー。いつのまにか、ぽっかりなくなっちゃってるんだよね』
まったく答えになっていないが、どうやら悪気はないらしい。
そうとわかれば、俺には市村を放っておく、という選択肢はなかった。
次の日に何かイベントがあるときには夜に電話させてその場で準備をさせたり、朝にはモーニングコールをしてやったり。とにかくメモをとるように訓練させたり、地図を描いて読む方法を覚えさせたり。食べるのを忘れることもあるから、一緒に飯を食ったり、たまにうちに呼んで食べさせたり。
そのことを知った同級生たちが俺のことをまるでオカンのようだと言い始めた。成海なんていう名字も女の子の名前みたいだから、『なるみママ』となったというわけである。陰湿なからかいではなく、俺の面倒もみてくれ! なんていうアホなやつしかいなかったのは幸いといっていいのかどうかわからないが。
まぁつまり、お節介なのだ、俺は。
母親が父親よりも稼ぐバリバリのキャリアウーマンで、俺がのほほんとした父親と幼い妹の面倒を母親の代わりに見ていた、というのが原因だと思っている。
そうして形成された習性や性格というものは、そう変わるものでもない。
むさくるしい男だらけの高校を卒業して、心機一転、華々しく大学に進学した俺は、期待を胸にスノボサークルに入部した。何を期待したかって、それは当然、彼女を作ることである。
その願いは案外あっさりと叶うことになった。なんと、入部して三ヶ月もたたないうちに、サークルの同級生の女の子に告白されたのだ。
『成海くんは一番優しいし、背が高くてかっこいいなって思ってたんだ』
頬を赤らめてそう言われれば、名前も曖昧だった相手ですら一瞬で好きになるというのが、年ごろの男の性である。
彼女は俺のためだと言って一生懸命おしゃれをしてくれたり、手料理をふるまってくれたりと健気な子だった。同じ年頃の女の子とは縁がなかったから、ちいさくて、ふわふわしている女の子はなんて可愛いんだろう! と日々思っていたものだ。
付き合いが半年も経つころには、俺のほうが彼女に夢中になっているような気がした。彼女はだんだんとおしゃれに手を抜くようになったし、なんとなくだらしなさが見えてくるようになった。でも俺は、俺に気を許しているんだと思えばかえって可愛く思えて仕方なかったのだ。たとえまゆげがなくても、惚れてしまえばなんとやら、である。
それならば、と俺はせっせと彼女の面倒を見始めた。中高で定評のあった『オカン力』を発揮してしまったのだ。
デートの日のモーニングコールはもちろん、彼女のバイトが終わるころに家で飯を作って待っていたり、寝起きの髪をセットしてあげたり(妹の髪を結うのも俺の仕事だったのだ)。
そんな日々がしばらく続いたある日、バイトへ行く彼女の服装が気になって、俺は声をかけた。
「ちょっと……丈が短すぎないか?」
なにおっさんみたいなことを言ってるんだ、と思うかもしれないが、本当にお尻がぎりぎり見えるかというくらいのデニムのショートパンツを穿いていたのだ。トップスもへそが出るかでないか、というくらい。彼女は細身でスタイルが良いから似合ってはいるのだが、仮にも俺の彼女なんだし、あまり他の男の目を引かれるのも気持ちが良いものではない。
俺の言葉に振り返った彼女は、ものすごく怪訝な顔をしていた。いっそ嫌悪といってもいいかもしれない。
「……お母さんみたいなこと言わないでよ」
そのままドアを叩きつけるように出ていった。そして翌日、メールであっさりとフラれたのだった。
繰り返すが、性格はそう簡単に変わるものではない。
俺はその後も在学中に三回、社会人になって一回、なぜか女性のほうから告白してくれるのに、似たような展開でフラれているのである。
最後の彼女にフラれた頃、あの市村から突然連絡があった。なんと、結婚するというのだ。
「なぁ、市村。俺がおまえにやってたことって、ただのお節介でメーワクだったか?」
結婚式の披露宴で、俺は他の同級生と一緒にビール瓶を片手に市村に絡みにいった。酔いも相まってべそべそとする俺に、市村はあの頃と変わらずのんびりとした顔で笑いかけた。
「え、俺は成海のお節介はありがたかったけどねぇ。おまえがいなかったら飢え死んでたかもしれないし」
隣に座る新婦がぱっと表情を明るくした。
「ああ、あなたが成海さんね! 話はよく聞いているわ。この人、成海さんの料理が旨かったんだって今でも言ってるのよ? おかげで比べられちゃうんだから!」
彼女は俺たちよりも五歳年上とのことだったが、綺麗で明るくて、はきはきとした元気いっぱいの女性だった。姐さん女房か。市村、いいひと見つけたな……と俺はまたべそべそ泣いた。
最初は相手からの告白とはいえ、今まで付き合った彼女のことは全員全力で好きだった。でも、相手のためだと思っていても、それがエゴにしかならないことだってある。今までの苦い経験でようやく学んだことだ。
でも今は、できることが限られている。
チハルは、誰かに話しをすることもできなかったのだと思う。自分の内側にため込んで、ため込み過ぎて感情のコントロールができなくなっているようにも見えた。
今回みたいに、チハルが話すのを聞いてあげるだけでも役に立てるんじゃないだろうか。
「それくらい、いいよな」
脱出するのがもう少しくらい先になったって、今さら何が変わるということもないはずだ。
*
あの日以来、俺の居場所はチハルのベッドのヘッドボードから動いていない。
「ナナ、ナーナー!」
ベッドの上で眠るナナに呼びかける。ナナはぴくりと耳を動かした。のっそりと顔をあげて、しぶしぶといった風に俺のところへ近づいてくる。やっぱり、ナナには俺の声が聞こえているように見えた。
「ナナ、おまえの御主人はそろそろ休憩したほうがいいんじゃないか? もうずっとデスクにかじりついてるだろ。ちょっと呼んできたらどうだ」
ナナはふわわ……かふっとあくびをして(言葉は可愛いが相変わらず牙は鋭い)、しっぽを揺らめかせた。
「おまえなぁ、チハルが倒れたらおまえだって食べていけなくなるんだぞ? ほら、行った行った!」
『ナゥ……グルル』
不満げに喉を鳴らしながらも、ナナはぼすっと音を立ててベッドを降りた。集中しているチハルはその音にも気づいていないようだ。
『ナァゥ』
あいつ、チハルには甘えた声を出しやがる。
『ん……ナナ? どうしたの?』
チハルは大きく伸びをして首を回した。いてて、というつぶやきが聞こえてくる。
『ナァァ』
『こら、ナナ。邪魔したらダメだよ』
チハルの手元に座りこみをきめたナナは、頭を腕にぐりぐりと押しつけている。よしよし、いいぞナナ。その調子だ。
どこからか懐かしい曲が聞こえてきた。蛍の光だ。ゆるやかな旋律がオレンジ色の西日とともに部屋の中へ流れ込んでくる。
『もう五時か……仕方ないなぁ。そろそろ休憩しようか』
眼鏡を外してナナを抱き上げ、チハルはベッドのほうに近づいてきた。
『あー、疲れたぁ』
チハルはナナを腹の上に乗せて寝転がる。
「ほら、やっぱり疲れてるじゃないか」
『あれ? コウ、きみも休憩?』
「まあ、そんなところだな」
会社を休んでこんなところにいるのだから、休憩といえば休憩だ。そういえば、会社はどうなっているのだろう。
チハルの目の下にはうっすらと隈ができていた。ここ最近、なにか根詰めて作業をしているようだが、何をしているのかはわからない。
「チハル、大丈夫か?」
『ん? 何か言ってる?』
「……ちゃんとご飯食べてるのか?」
『ごめん、コウ……何を言っているのかわからないよ』
困ったように笑う顔が、なんだか弱々しい。
「俺が外にいたら飯でも作ってやるんだけどな」
なんて、またオカンみたいなことを考えてしまう。日に日にチハルのことが心配でたまらなくなっているのは事実だった。いや、心配――とも少し違う気がする。こんなにも毎日そばで見ていれば、もう他人事でもなくなっていた。
『ナァ!』
抗議するようにナナが俺とチハルの間に割って入ってきた。
「おい、ナナ。どうせ俺は何も出来ないんだ。おまえがちゃんとチハルの面倒をみてやらないといけないんだぞ?」
『ナァゥゥ』
ナナがぺしぺしとドームの壁を叩いてくる。俺は足元の雪の欠片をかき集めて思いきり投げてやった。ナナが大好きな遊びだ。飛び跳ねるナナとは反対方向に俺はジャンプする。ちょこまかと動き回る俺を追いかけようとナナは目を真ん丸にしておしりを振る。
『うわ、ナナ。暴れないで!』
そう言いながらもチハルは苦笑いをしている。飛びかかってくるナナに向かってもう一度雪を投げた。
『ナゥッ!』
「うわあああっ!」
ナナが加減もせずに全身でぶつかってきた。ごつん、という固い音に次いで世界がぐるりと回り始める。
『こら、ナナ! 倒しちゃダメじゃないか!』
『ナゥゥ……』
俺は丸い壁に思い切り頭をぶつけた。そしてまた急に地面が足元に戻ってくる。
『コウ、大丈夫?』
体重が降りきっていない俺は足をばたつかせた。目が回って、まっすぐに立っていられない。まるで酔っ払いが千鳥足で歩いているみたいだ。
『ふ……ふふっ……』
「んん?」
頭上から降ってきた大量の雪が目の前でキラキラと舞っている。その隙間から、チハルが笑っているのが見えた。寒いのか、鼻先や頬が淡く染まっている。いつもの寂しそうな笑顔ではない。小さな発作が起きたように、チハルはずっと笑い続けている。
「……普通に笑うと、こんな感じなのか」
あれ?
俺は思わず胸のあたりを掴んだ。
甘いような、酸っぱいような、苦いような。ぎゅっと凝縮した果汁を一粒飲み込んだような気分だ。それは喉の奥を通って、胸へ、腹へと音もなく落ちていく。
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