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第1話 乾 五月
長くて退屈な夏休みが先週終わった。
しかし外の空気はまだ夏の暑さを残しており、鋭い日差しは容赦なく体に突き刺さってくる。
クーラーのきいた部屋でのんびりしていたい。
多くの生徒がそう思っているだろう。
そんな休み気分が抜けない最中、二学期に入って最初の体育はバスケットボールだった。
体育は隣のクラスと合同で行われる。
各クラスの生徒達は更衣室で体操着に着替えると、ゾロゾロと体育館へと向かって移動していった。
その中で、鵜飼 進は他の生徒達より少し後ろの方をゆっくりと歩いていく。
クラスメイトより頭一つ小さい彼だが、うつむき加減で歩く姿はさらに彼を小さく見せてしまっていた。
しかし、進はそんなことは気にもせずただ下を見ながら黙々と歩いた。
これからの時間が憂鬱だからだ。
生徒達が体育館で整列していると、体育教師がやってきて言った。
「各クラス2チーム作ってスタメンを決めること!決まったヤツはコートに出て準備して!」
その体育教師の言葉に進は小さなため息をついた。
そして進の隣に立っていたクラスメイトが案の定こう言ってきた。
「鵜飼って元バスケ部だろ、スタメン決定だな」
やっぱり・・
進にとってバスケットボールは今や気が乗らないスポーツだ。
しかし授業なので断るわけにもいかない。
進は気怠げにコートへ出た。
腕をグイッと引っ張り軽くストレッチをする。
気は乗らないが、怪我をするのはごめんだ。
すると、突然隣のクラスの奴に話しかけられた。
「鵜飼ってバスケ部だったんだって?なぁ賭けしない?」
進はチラリと体操着の胸元の名前を見る。
そこには『乾』と書かれていた。
乾のキラリと光るツリ目はどこかいたずらそうでもあり、自信に満ちているようにも見えた。
髪は茶色に染め、襟足は少し伸びている。スポーツをやるようにはあまり見えない風態だ。
知ってる。
こいつ、一学期はほとんど体育を見学かサボりかしていた奴だ。
時々出てきても適当にこなしていた。
なんでそんなやつが?
進は突然話しかけてきた得体の知れない人物に少しの警戒心を持った。
「俺と鵜飼で多く点とった方が勝ち。勝った方が負けた方の言うこと何でも聞くってどう?」
乾は進の返事など待たずにスルスルと会話を続ける。
こちらのペースなどお構いなしと言った雰囲気に進はイラッとして言った。
「悪いけどその賭けにのるメリットが何にもないけど」
「負けると思ってんだ?」
乾は笑って言った。
進はカチンときた。
これでも小学校三年生から去年までの七年間はバスケ一筋だったのだ。
進は思わず睨んでしまった。
「のったね?」
乾がニヤっと笑った瞬間、試合開始を報せるホイッスルが鳴った。
それが昨日の出来事だ。
進は見事に負けて、乾の『一緒に昼飯を食べろ』という命令に従って、今日は屋上で乾と昼食をとっている。
屋上はまだ暑く進と乾以外は誰もいなかった。
乾の明るい茶髪と、色素の薄い進の髪が生暖かい風になびいている。
「俺2年生になってから転校してきたんだよね。クラスには慣れたけどさ、他のクラスにも友達ほしいじゃん?」
乾は明るい笑顔でそう言いながらパンを頬張った。
何でそれで俺が??
進は不思議に思ったが口には出さなかった。
「ふーん・・」
その代わりに気の抜けた緩い返事をした。
「はは、鵜飼って本当見た目と違って可愛くねーな」
「背が低いだけで可愛いわけあるか」
「まぁいいじゃん、週に二回くらいは屋上でこうやって飯食おうよ!授業早く終わったら購買でパン買っといてやるからさ!」
そう言って乾はニコリと笑った。
その屈託のない笑顔に、進は最初こそ警戒していたが次第にその気持ちも解けていった。
乾は適当でヘラヘラとしていて、つかみ所のない奴だった。
しかしその適当さが進には楽だった。
進は元々人当たりの良い性格ではない。
背の低いことをからかわれる事が多かった彼は、いつの間にか誰に対しても馬鹿にされないように強気な態度を取る癖がついてしまった。
そのため、本当に気が許せるようになるまでに時間がかかってしまい、親しい友人と呼べるのもクラスでは片手で数えるくらいだ。
しかし乾は進の懐にするりと入ってきた。
進がどんなに冷めた反応をとっても、乾はヘラヘラと笑いながら会話を続けてくる。
そんな乾に頑なに強気な態度を取る事が馬鹿みたいに思えてきて、進はいつの間にか自然と会話をするようになっていった。
昼飯を一緒に食べるようになって四回目。
「鵜飼って彼女いねーの?」
その日も乾はいつも通り、なんの遠慮もせず唐突な質問をしてきた。
「・・いたらお前と飯食ってないよ」
進は乾が買っておいてくれた焼きそばパンにかぶりつきながら言った。
「はは!確かに」
乾は声を出して笑う。
「お前は?前の学校にいたりしなかったのか?つーかなんで転校してきたんだっけ?」
進はふと思ったことをまとめて聞いてみた。
「今更それ聞く?本当俺に興味ないんだなぁ・・」
乾はそう言うと軽くフーっとため息を吐いた。
そして続けて言った。
「転校は・・この学校でやりたいことがあったんだよね。まぁ叶わなそうだけど・・」
「何それ?そんな簡単に諦められることで転校してきたわけ?」
進は少し呆れたように言う。
「叶うのが難しいってわかっただけだよ」
乾は何かを諦めたような笑顔で言った。
「ふーん・・」
進はそれに対してどう答えて良いか分からず、視線は正面を向いたまま空気に溶けてしまいそうな小さな声で相槌を打った。
すると、乾が突然の告白をしてきた。
「ちなみに彼女はいたよ。でも別れてきた。あれなんだよね、女子にトキメかないって気付いたんだよね」
乾のその言葉に進はドキリとした。
しかしその動揺を隠そうとした。
「あぁ、そう・・」
進がそう答えた瞬間、乾が進に覆い被さってきた。
「それだけ?俺、鵜飼のこと結構気に入ってるんだけど」
乾はいつになく真剣は眼差しで、しかし口元に笑みを残したまま言った。
「おい、冗談やめろよ!!」
進が慌てて払い除けようとした瞬間、乾は進の肩を床に押さえつけながら唇を重ねてきた。
「つっ」
乾の勢いのある口づけに、進は上手く抵抗出来ずただぎゅっと唇を結んだ。
それは・・知っている感触だった。
懐かしく、でも『彼』のものとは違う、力強い口づけだった。
キスをしていた時間はきっと数秒だっただろう。
乾は無遠慮に重ねてきた唇をそっと離し、進の潤んだ瞳を見つめながら言った。
「はは、嫌そうじゃないじゃん。もしかして鵜飼もそっち?」
乾のその言葉で進は顔がカッと熱くなった。
無言で乾の腹に拳を入れると、進は逃げるように駆け出した。
乾の呼び止める声が聞こえたが、無視して屋上を出て行った。
今の自分の顔を見られるわけにはいかない。
進はクラスメイト達が談笑する教室に戻ると、自分の机に突っ伏し目を閉じながら先ほどの出来事について考えた。
正直、嫌ではなかった。
多分、乾の事は嫌いじゃないから。
そして・・図星をつかれた。
なんでわかったんだ。
そんなに俺は分かりやすいのだろうか。
もう、恋とかそういうものには絶対に振り回されたくないのに・・
そういった感情はいらない・・
進は手の平をギュッと握ると心の中でポツリとつぶやいた。
乾とはそういう関係にはならない。
絶対に・・
「来てくれてよかった〜!」
乾は青空によく似合う笑顔で手を振っていた。
次の日、乾から『昼休みにいつもの屋上で』という呼び出しがあったのだ。
進は行くかどうか迷ったが、万が一変な噂を流されては困ると思い乾の真意を確認するため会うことにした。
「・・この間のこと・・広めたりする気か?」
進は乾を睨みつけるようにして聞いた。
「まさか!俺は鵜飼と仲良くしたいだけだって。ついでにたまにキスとかさせてくれたらラッキーかなくらいには思ってるけど〜。ほら、こっち側の人間ってなかなか相手いないからさ〜欲求不満解消的な?」
乾はヘラヘラと笑いながら答える。
そんな乾の態度に進は拍子抜けしてしまった。
さっきまでは、もし脅されたり何か関係を進展されるような事を言われたら一貫して拒否の意思を伝えるつもりでいたのに・・
「俺たち・・友達だよな?」
進は確認のために聞いた。
すると、乾はまたもヘラっと笑って答えた。
「やっと友達認定してくれたの?時間かかる奴だな〜」
その表情に進はまた毒気が抜かれたような気がした。
つかめない奴だ・・
でも・・なんだろう、乾といると気持ちが軽くなる。
進はそう思った。
それからは一緒に昼飯を食べる以外にも、時々放課後遊ぶようにもなった。
その間でたまにキスをする。
いつも決まって乾から仕掛けてくる。
ふざけるような、遊びのような、あくまでスキンシップの一環のような口づけだ。
進もそんな乾の態度にすっかり慣れていった。
あくまでスキンシップ、欲求不満の解消、遊びの一つ。
『その行為』にいくらでも簡単な言い訳はつけられた。
そしてそれは、少しエスカレートしてきても変わらなかった。
カラオケや人気のない公園など、人目のない所で触り合いもするようになった。
乾は笑いながら、進の気持ちの良いところはどこか聞いてくる。
進は最初戸惑ったが、所詮は気持ちの良いことに弱い若者だ。
ほとんど意味のない抵抗の後に、あっという間に乾のペースに持っていかれる。
そしてそんな時は、心の中でこう呟くのだった。
あくまで友達。
ちょうど良い性欲処理。
気楽にいければいい。
そんな日々が三週間ほどたった時、
「鵜飼、そろそろさぁ・・最後までやってみる?」
乾がふざけて聞いてきた。
「はぁ?ないだろ」
進はわかりやすく嫌な顔をしてすぐさま否定した。
さすがにそれは・・
遊びの延長と言うには、苦しい行為だ。
もし、本当に最後まで身体を重ねた時、この関係が変わってしまうのではないか・・
それだけは絶対に嫌だった。
しかし、何のことでもないようにヘラヘラしながら聞いてくる乾の誘いに、進は少しの迷いも持ち始めていた。
乾だったら、大丈夫じゃないだろうかと。
たとえセックスしても、彼は変わらないかもしれない。
進はそんな風に思い始めていた。
乾と遊ぶ事が当たり前になってきた九月の終わり、その日の放課後も進は乾と約束をしていた。
しかしクラスの掃除当番に時間がかかった。
乾はおそらく昇降口で待っているはずだ。
進は急ぎ足で廊下を駆けていく。
その時、曲がり角で人とぶつかった。
ばん!!
ぶつかった相手が持っていたらしいノートが、大きな音を立てて床に落ちた。
「すみません・・」
進は謝りながら自分の足元に落ちたそのノートを拾おうとした。
しかし、そのノートの表紙に書かれた文字を見てドキリとした。
『バスケ部 練習記録』
ノートにはそう書かれている。
「進?」
下を向いていた進の頭上から聞き慣れた声が自分の名前を呼んだ。
進はゆっくりと相手の顔を見た。
そこには、なんとも言えない顔をした清瀬 集が立っていた。
「・・っ」
進は何か言うべきか迷い、声を出そうと喉の奥の方でヒュっと音がなるのを感じた。
しかしその瞬間だった。
「清瀬君?」
清瀬の後ろから一宮 リカの声がした。
一宮は進に気づいて驚きの表情を見せた。
「鵜飼君、何やってんの?」
「別に・・帰ろうとしてぶつかっただけ」
進はそう答えると、足元に落ちたままになっていたノートを拾って清瀬に渡した。
「ほら、悪かったな」
進はなるべく自然な態度を装った。
「いや・・」
清瀬は何か言いたげな瞳で進を見つめながらノートを受け取る。
「鵜飼君、今は部活何もやってないの?」
一宮はそんな二人の空気を察する事なく、明るい声で話かけてきた。
進は早くこの場を去りたくて仕方がなかったが、一宮に不審に思われない様あくまで自然に答えた。
「うん、帰宅部。今日はこれから友達と遊びにいく予定だし。まぁ・・楽しくやってるよ」
「そっか・・あんな辞め方だったから何かあったのかなって気になってたの。でも今元気そうならよかった!」
一宮は笑顔でそう言うと清瀬の腕をつかんだ。
「じゃあ行こっか清瀬君、みんな待ってる」
「あぁ、じゃぁ・・」
清瀬はそう言うと、節目がちになりながら進に背を向け一宮と歩き出した。
進はそんな二人の後ろ姿を見て心が波立つのを感じた。
清瀬と一宮が付き合ってるらしいと言うのは六月頃に噂で聞いた。
一宮は清瀬の事が好きだったし、こうなるのも時間の問題だろうとは思っていた。
しかし、その噂を聞いた後で二人が一緒にいるのを見るのはこの時が初めてだった。
昔、清瀬の隣にいたのは自分だ。
けれど、それを捨てたのも自分だ。
それなのに落ち着かない自分勝手さに嫌気がさした。
「鵜飼!」
昇降口の下駄箱で乾は普段通りの明るい笑顔で迎えてくれた。
そんな乾に進はしがみつきたくなった。
しかしそれはしなかった。
そのかわりに、腕を掴んで進は下を向きながら言った。
「乾・・俺と最後までしてくれない?」
初めては乾の部屋だった。
乾の家は学校から電車で三十分ほどの所にある。
向かう途中、乾はほとんど話さなかった。
進も黙っていた。
乾の両親は共働きでまだ誰も帰ってきていない。
シンと静まり返った乾の部屋に入ると、進は後ろから抱き竦められた。
「本当にいい?」
耳元で乾の声がする。
進はゴクリと喉を鳴らして小さく頷いた。
朝起き抜けの状態のままであろう、すでに乱れたベッドに二人は横になった。
そしてすぐさま乾は進の上に覆いかぶさると、啄む様な口づけをした。
それがなんだかくすぐったくて、進はフッと笑ってしまった。
乾はそんな進の様子に少し安心したのか、優しく微笑んで進の気持ちの良いところを撫で始める。
優しく丁寧な手付きは、普段のいい加減そうな乾からは想像つかない。
きっと、本来彼はとても優しい人間なのだろう。
でなければ、こんな唐突なお願いに理由も聞かず付き合うはずがない。
少しづつ気持ちの良いところを刺激され、進の身体は解けていった。
時々、乾の熱い吐息が耳元をかすめる。
優しかった乾の手も、興奮からか少し荒々しくなっていた。
「大丈夫?」
乾は熱を持った眼で進を見つめながら聞いた。
「大丈夫」
進はその眼をまっすぐ見つめながら答えた。
十分に解されたそこに乾のものがあてがわれる。
ゆっくりと、少しづつ、進の中を乾の熱が埋めていった。
久しぶりの感触。
しかしそれは、以前のものとは別だ。
当たり前だ、相手が違うのだから。
今はただ、乾のことだけ考えていよう。
熱く火照ってきた頭で進はそう思った。
「ねぇ、進ちゃんて呼んでいい?」
ことが終わった後、乾はペットボトルのジュースを飲みながら聞いてきた。
「俺、名前で呼ばれんの苦手。しかもそれ一番嫌いな呼ばれ方。なんかバカにされてる気がするし・・」
進は先ほどの行為の照れ隠しで、少し素っ気無く答えた。
「えー似合ってるじゃん!俺なんて五月だぜ、女みたいな名前でさぁ、全然あってないだろ」
乾はベッドに腰掛けていた進の横にドカっと座って言った。
「自分の名前嫌いなのか?」
進は乾の顔を覗き込むように聞いた。
「うん」
「じゃぁ五月って呼んでやろ」
進は意地悪そうに笑った。
いつもヘラヘラとしてる乾にも嫌なことがあるんだな。
その事が知れて進はなんだか嬉しく感じた。
「まじか、じゃぁこっちも遠慮なく進ちゃんて呼ぶわ」
乾もお返しと言わんばかりに意地悪そうな笑顔で言った。
「勝手にしろよ」
進はフフっと小さく笑って返す。
自分の身勝手な感情をぶつけたのに乾は受け止めてくれた。
進にとって、いつしか乾は誰よりも自分を出せる人物になっていた。
この居心地の良い関係がずっと続けばいいのに・・
進は頭の隅でそっと思った。
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