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第1話
強い風が、馬車の窓をけたたましく叩いている。その音の大きさに、初めこそ驚きはしたものの、数日も経てばそれも慣れた。あまりに風が強いため、窓が割れはしないかとヒヤヒヤしたが、特別な硝子で造られているのか、ひび一つ入っていない。窓の向こうは、一面の銀世界を覆うほどの猛吹雪だ。
国境検問所を越えたあたりから降り始めた雪は、日に日に量が増えているように思う。
その中でも、馬車は出発した時と変わらず、同じ速さで走り続けている。先頭に座っている御者が人間であれば、とてもこうはいかないだろう。
ノエルは最初に深々と自分に対し頭を下げた、虎族の青年の姿を思い浮かべる。大柄で、屈強な身体はノエルと同じ二足歩行で人間と変わらなかったが、長い体毛に覆われた頭は虎と同じものだ。
これまでも何度か虎族を見たことはあったが、ほとんどは耳や尾はつけているものの、頭や身体は人とそう変わらなかったため、少しばかり驚いた。
ビロードのカーテンの向こう側にいる、ノエルを迎えに来た使者である男性も、耳こそ虎と同じものが頭についているが、それ以外は人間の姿とさほど変わらない。
ヤコフと名乗った柔和な容姿の男性は、見た目通りに優しく親切で、馬車に乗る以前から細やかにノエルを気遣ってくれている。馬車を進めながらも、定期的に休憩をとってくれているのもそのためだろう。
「……あの」
自分で思うよりも、出た声は小さく、か細いものだった。
元々、大きな声を出すのは苦手なのだ。
王都を出てからすでに十日は経っているが、その間ノエルが自分から話しかけたことはほとんどない。話しかけずとも、常にヤコフの方からあれこれと話しかけられるため、ノエルは返事をすれば十分だったからだ。
今の声の大きさでは、とても聞こえなかっただろう。
どうしよう、もう一度、今度はもっと大きな声で話しかけるべきだろうか。
けれど、もし休息をとっているなら自分が話しかけては迷惑になる。
次に話しかけてもらった時に言うべきだろうか、いや、やはり……と思っていれば、目の前にあるカーテンが揺れ、そこからヤコフが顔を出した。
「如何されましたか、皇妃様」
どうやら、しっかり聞き取ってくれていたようで、俯き、顔を難しくしていたノエルは慌てて顔を上げた。
「あ、あのお休みのところ、申し訳ありません……えっと……」
なんと言えば、失礼にならないのだろうか考える。
そもそも、今の言葉だってヤコフは休んでおらず、仕事をしていたとしたら、失礼になってしまうのではないか。
「……お疲れになりましたか? 馬車の速度を、少し遅くさせましょうか」
馬車の走らせ方は丁寧ではあるものの、それなりにスピードを出せばやはり振動も大きくなる。
ノエルとしては、ある程度覚悟はしていたしそれほど気にならないのだが、ヤコフは振動が大きくなると御者の男性に対しすぐに指摘していた。
「そ、そうではなくて」
首を振り、早く話さなければと心が急く。ヤコフが、不思議そうにこちらを見ている。
「今日は、一段と風が強いため、雪で前を見るのも大変だと思います。決して、御者の方のお力に疑心があるわけではないのですが、こういった中での走行は集中力を要するため、お疲れになると思います。それで、その、もう少し速度を弱めるか、休憩を多くとられてもいいのではと……」
一気に、自分の思っていることをノエルは口にする。
自分を見るヤコフの細い瞳が見開いているため、何か間違った言葉を使ってしまっただろうかと不安になる。
ノエルが生まれ育ったヘルブストで使われている公用語はヘルブスト語で、虎族が使うヴィスト語とは異なっている。
文字は同じなのだが、並びや発声が違うため、習得するにはそれなりの修練を必要とする。特に、ヘルブストとヴィスナーは長い間国交がなかったこともあり、ヴィスト語を喋ることができる人間はごくわずかだ。
他の生徒は、外国語を学ぶならば他の言語を学びたいと思うようで、学院でヴィスト語の授業を選択していたのはノエルだけだった。
さらにノエルは厳しいことで有名なヴィスト語の教師から褒められていたこともあり、日常会話程度なら大丈夫だろうと思っていたのだが、認識が甘かったのだろうか。
「す、すみません。あの、私のヴィスト語、どこか間違っていたでしょうか……?」
心配になり問いかければ、ヤコフは元々下がり気味の目じりをさらに下げ、ゆっくりと首を振った。
「とんでもない。とても、正確で、きれいなヴィスト語ですよ」
「あ、ありがとうございます……」
とりあえず、ホッと胸を撫で下ろす。
「まず、御者への労いの言葉をありがとうございます。ただ、私どもの瞳は、雪の中でも遠くを見渡せるようにできております。特に、今御者をしている男は軍でも五本の指に入る優秀な騎兵で、この程度の吹雪でしたら造作もないことでしょう。それに、この峠を抜ければ風もだいぶやむはずです」
「そんなに、すごい方だったのですか……すみません、私などのために」
「陛下の大切な皇妃様をお迎えに伺うという、とても名誉な任務です。陛下からも、命に代えても無事に皇妃様をお連れするよう、言われております」
ヤコフが、穏やかに微笑む。
「ですが皇妃様、皇妃様のお使いになる言葉は少し丁寧すぎます。臣下である私どもにそこまでの気を使われる必要はありません。首都のスラヴィアまでは、あと七日ほどで着く予定ですが、どうかごゆるりと、お寛ぎになってください」
「は……はい。ありがとうございます」
畏まり、そう言うとヤコフはゆっくりと頷き、礼をしてカーテンは再び閉められた。広い馬車の中で、ノエルは少しだけ足を伸ばしてみる。
虎族は人間よりも平均的にみな大柄ではあるが、最初見た時には、こんなにも大きな馬車があるのかと驚いた。
こっそりと、持ち込んだ地図を広げ、馬車がこれから走っていく道を予想する。
昔から、地図を見るのが好きだった。そのため、この大陸の地形であればだいたい把握していたつもりだが、やはり頭の中で考えるのと実際に自分の目で見るのとでは、随分感覚が違った。
途中で通った川は想像していたよりもずっと広く、流れが急であったし、登った丘にも傾斜があった。
「帝都……スラヴィア」
ゆっくりと地図の上をなぞっていき、城のマークを指さす。
ノエルの伴侶となる虎族の皇帝、ファリド・ティグレラの城だ。
屈強な虎族の男たちがその一声で平伏す、冷酷で、とても恐ろしい皇帝だとヘルブストでは言われていたが、ノエルはそうは思わなかった。
ファリドの代になってから、ヴィスナーの近隣諸国への対応は随分柔軟なものになっていたからだ。ただ、そんなファリドに人間で、しかも男である自分が嫁ぐことになるなど思いもよらなかった。
もう一度地図に視線を落とし、今度は馬車が通ってきた道を辿り、シュトラルと書かれた場所にある城を見つめる。
同時に、最後に自分を見つめていたジークフリートの驚愕の表情を思い出す。
幼い頃から知っているが、ジークフリートのあんな顔を見たのは初めてのことだった。
窓の外へ目を向ければ、風はだいぶ穏やかになり、遠くの山々までよく見通せるようになっていた。
地形も気候も、何もかもがヴィスナーとは違う場所だ。
「……さようなら、ジーク」
誰にも聞こえぬように、小さくノエルは呟く。
そして、おそらくもう二度と会うことはないだろう、友の幸せを願った。
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