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第2話
―――五カ月前。
ヘルブスト国・首都シュトラル。
クスクスという小さな笑い声や、囁くような話し声があちらこちらから聞こえてくる。
静まり返った教室では、彼ら彼女らの声はことさらよく響いた。
「我が国の主産業は豊かな資源と、貿易であり……」
ちらちらと手に持った紙を見ながら、ノエルはたどたどしくも説明を続ける。
本当は全て頭の中に入っているのだが、紙がなければ緊張して、何も言えなくなってしまうからだ。
「ねえ? 長くない?」
すぐ前の席にいた生徒が、隣の生徒に話しかければ、自分の方をちらちら見つめて何か囁いた。
内容まではわからないが、何か嘲笑していることは明らかだ。
それにより、ノエルの声はますます小さくなっていく。
「沿岸部の都市は発展を続けていますが、これから必要なのは、港の整備であり、特に伝染病を予防するためには」
「聞こえませーん!」
一人の男子生徒が大きな声で言った。笑い声が、どっと大きくなる。
ノエルは、もはや口を開くことすらできなくなってしまった。
「こら、静かにしてればちゃんと聞こえるはずよ。ノエル様、レポートは素晴らしい出来でしたので、もう少し自信を持って説明してくださいね」
若い女性教師が、困ったような笑いを浮かべる。
頷いたノエルが席へとつけば、また背後から声が聞こえてくる。
「レポートの出来はよかったんだって、本当に自分で書いたのかな?」
「どうせ、殿下に書いてもらったんでしょ」
そんなことない、このレポートは、自分が図書室で何日も資料を探して、寝る間も惜しんで書き上げたものだ。すぐにでも後ろを向き、そう言えたらどんなによいだろう。
けれど、意気地のないノエルにはそんなことはとてもできない。言い返したところで、せせら笑われることは目に見えているし、ジークフリートにどんなにふうに伝わるかわからない。
結局ノエルは下を向いたまま、膝に置いた手を、ギュッと握りしめることしかできなかった。
「では、次に……クリームヒルト様」
「はい」
教師に名を呼ばれ、ノエルと同じ列に座っていた少女が背筋を伸ばして立ち上がった。腰まである長い金髪が、さらりと揺れる。教室中が色めき立ち、すぐに静まり返った。彼女の言葉の一言一句を聞き逃さぬように。
「前国王陛下が啓蒙思想を導入されて以来、我が国における学校、大学の数も増え、著名な哲学者や思想家も誕生いたしました。そんな中、わたくしはこれから我が国において重要なのは、女子教育だと考えます。隣国である……」
クリームヒルトの、清らかな、鈴の鳴るような声が教室中に響き渡る。
こっそりとノエルが右を向くと、レポートをほとんど見ずに研究成果を発表するクリームヒルトの姿が見えた。
バラ色の頬に長い睫毛、碧色の瞳を煌めかせた美しい少女に教室中の視線が集まっている。ノエルの時には苦笑いを浮かべていた教師も、今は笑顔で何度も頷いている。
「以上です」
クリームヒルトがそう言えば、わあっと何人もの生徒たちが自然と拍手を送る。拍手が起こったのはクリームヒルトの時だけで、ノエル以外の生徒の時だって拍手なんて起きなかった。
クリームヒルトは特別なのだ。実際、発表の内容だって素晴らしいものだった。
ただ、やはり胸はジクジクと痛んだ。
順番がちょうど前後してしまったこともあるが、自分との反応の違いをまざまざと見せつけられてしまったからだ。
そのまま授業の終わりを告げるベルが鳴ると、教室内の生徒たちがみんなクリームヒルトのもとへと集まっていく。
ノエルはそれを横目に見ながら、逃げるように教室を出た。
「ノエル」
速足で廊下を歩いていると、後ろからポンっと軽く肩を叩かれた。
「あ、エルマー……」
思った通り、後ろにいたのは友人のエルマーだった。
「食堂行くんだろ、一緒に行こ」
爽やかに微笑むエルマーに対し、ノエルも小さく頷いた。
エルマーは今年十六で、年齢はノエルよりも二つほど年下だが飛び級でこの学院で学んでいる。
王立ハイデンベルク学院は、伝統と歴史がある、ヘルブストにおける最古の学校だ。
在籍している者の多くは大貴族の子弟で、将来は高い官職を得て王宮で働くことが約束されている。
平民や下位貴族の中から入学が認められる者も時折いるが、難関試験を突破した一握りの優秀な人材だけだ。
学院の作られた主旨自体が、王宮で働く優れた人材を確保するためであるため、身分に関しても比較的寛容だ。
さらに、かつての後宮制度があった頃の名残で、王や王太子の目に留まるような、容姿の美しい人間も集められている。
実際、王太子が在籍中に学院の生徒を見初め、卒業後は妃となった例も過去にはある。
外見の美しさだけでは入学は認められることはなく、厳しい審査、主に身分や家柄がどのようなものであるかを調べられるのは、王太子妃となる可能性があるからだ。
つまり、学院に在籍しているのは大貴族の子弟か、そこそこの身分であるが見た目の美しい者か、または抜きんでて優秀な頭脳を持っているか、のどれかとなる。
ノエルは、そのどれにも当てはまらなかった。
家柄こそ悪くはないものの、父が事業に失敗してしまった所謂、没落貴族の三男であるし、容姿もそれなりだ。
顔立ちは悪くないとは言われているものの、他のパーツに比べ大きすぎる瞳はまるで子どものようで、ノエルにとってはコンプレックスだった。
学院に来るまでは栄養状態もあまりよくなかったため、痩せっぽっちで背も低いこともあり、さらに貧相に見えた。
白い肌だけは褒められることもあるが、明るすぎる赤毛の方が目立ってしまっている。
金や黒の髪が美しいとされるヘルブストにおいて、ノエルのような赤毛が褒められることはない。
瞳の色の紫も、幼い頃はよく褒められたが最近は前髪を長くしているため、ほとんどの者は気づかない。
そんなノエルがどうしてこの学院に在籍しているのか、それはノエルがこの国の王太子、ジークフリートの婚約者だからだ。
婚約者といっても婚約の儀も終えていない、中途半端な立場ではあるのだが、ノエルが妃となることは国王陛下も認めているため、周囲からはほぼ決まったものだと思われている。
ジークフリートは、明るい金色の髪に、碧の瞳を持つ美男子だ。
昨年この学院を卒業したが、頭脳明晰、人格も素晴らしいと有名で、年頃の貴族の子弟であれば、誰もがジークフリートに憧れている。
けれど、そんなジークフリートの婚約者であるという立場は、明らかにノエルにとって重責で、負担になっていた。
自分とジークフリートでは釣り合わないことはわかっているし、学院中のほとんどの人間が陰で囁いていることも知っている。
それに、何より。
「エルマー」
俯き加減に、エルマーの話を聞きながら歩いていたノエルは、友人を呼ぶ声にハッとして顔を上げる。
「ジークフリート殿下……に、ハームンド殿」
中庭でも眺めていたのだろうか、食堂へと続く長い回廊の中央あたりに、ジークフリートと、その親友であるハームンドが立っていた。
昨年までこの学院に在籍していた二人は、今でもこうして時折ふらりと現れることがある。
二人とも長身で、さらに顔立ちも整っているため、二人が来ると生徒たちも喜び、学院全体が華やいだ雰囲気になる。
「今、授業が終わったところか? お前の噂は聞いてるぞ、教師陣も舌を巻いてるらしいじゃないか」
「殿下ほどじゃありませんよ。殿下が学院にいた頃は、殿下と教師の議論で授業が丸々つぶれたことがあるって聞いたことがありますよ」
「その話には続きがあるんだよエルマー。授業どころじゃない、その後、放課後まで二人の議論は続いてたんだから。勿論、俺は先に帰った」
「冷たいやつだろ?」
楽しそうに会話をする三人に対し、ノエルはこっそりと後ずさる。
時折ちらちらと視線を向けるエルマーはノエルのことを気にしているようだが、ジークフリートにはノエルのことなど見えていないようだ。
自分がジークフリートの婚約者とは名ばかりの、お飾りの存在であることはわかっている。
それでも、こういった時の疎外感はいつになっても慣れない。
「それにしても、殿下だなんて水臭いな。お前、ちょっと前までは兄上って呼んでいただろ」
「そ、それは……」
エルマーが、少し狼狽えたような表情をし、そしてノエルの方を見る。
そうだったんだ、と今になってその事実を知ったノエルは、自分に気を使っているらしいエルマーに対して申し訳なく思う。
別に、今更そんなことでは自分は傷つかない。
「王太子殿下に対して、不敬な物言いをするわけにはいきませんので……」
「不敬って、将来的にはお前は俺の右腕になる予定なのだから、そんなことでは困るな」
やんわりと、ジークフリートの言葉を否定するエルマーに、ジークフリートが小さく笑う。
「ですが……」
「ジークフリート様、我が弟をそんなにいじめないでやってくださいませ」
そこに、クスクスと笑う、鈴が鳴るような、美しい声が聞こえてくる。
三人の会話を聞いていたこともあり気づかなかったが、いつの間にやらクリームヒルトが後ろに立っていた。
クリームヒルトとエルマーは兄妹で、金色の髪や青い瞳がとてもよく似ている。
学院内で二人が話しているのはあまり見たことはないが、エルマーがクリームヒルトを慕っていることはノエルもよく知っている。
「人聞きが悪いな、俺がお前の弟をいじめるわけがないだろう?」
ジークフリートが、クリームヒルトに対して笑みを零す。
自分に対しては向けられることのない、ジークフリートの笑顔に、こっそりとノエルは視線を逸らす。
仲睦まじく、会話を続ける二人はとても幸せそうで、互いを想いあっていることが傍目にもわかる。
当たり前だ、クリームヒルトはノエルのようなお飾りの婚約者ではなく、正真正銘の、ジークフリートの婚約者なのだから。
「これから食事か?」
「はい」
「ちょうどいい、俺たちもそのつもりだった。エルマーも一緒にどうだ?」
「え?」
自分も誘われるとは思わなかったのだろう。エルマーがノエルの方へ視線を向ける。
もしかしたら、自分に気を使っているのだろうか。それなら、気にすることはないと顔を上げれば、ちょうどジークフリートと目が合った。
今気がついたとばかりにノエルを見るジークフリートの視線は冷たく、疎まし気だった。
「あ、あの……」
何かこの場を離れる言い訳を考えなければと思うのに、咄嗟に言葉が出てこない。
ますます、ジークフリートの眉間に皺が寄る。
「あ、ノエルも一緒にどうかしら? さっきのレポート、とても興味深いものだったもの。詳しく聞きたいと思ってたのよ?」
クリームヒルトが笑顔でノエルに声をかける。優しさからであるとはわかっているが、そんなクリームヒルトの気遣いも、ノエルの気分をより惨めなものにさせた。
「レポート?」
「はい、今日は社会学の研究の成果発表の日だったんです。ノエルの研究は、医療と福祉に関するもので」
「お前は? 何に関して研究したんだ?」
「この国における人材の育成と、女性の教育に関して、です」
「それは、頼もしいな。王太子夫人じゃなくて、父君のように大臣を目指してみるか?」
「もう、意地悪を言わないでくださいませ」
わかっていたことだが、ジークフリートはノエルの研究に少しも興味を持つことはなかった。
無理もない、才媛と名高いクリームヒルトと自分の研究では、雲泥の差があるだろう。
元々勉強は好きで、少しでもジークフリートと対等な会話ができるようにと日々努力してきたが、やはり意味はなかったようだ。
「っと、続きは食べながら話そう。エルマーの意見もぜひ聞きたいしな。食堂だと落ち着かないし、応接室へ食事を届けさせよう」
そう言いながら、ジークフリートが歩き出すと、クリームヒルトも自然とその後へと続く。
エルマーはノエルの方を気にしてか、立ち止まったままだ。
それに気づいたジークフリートが足を止め、振り返ると不快気に顔を歪めてノエルの方を見る。
「さっきから鬱陶しいやつだな。一緒に来たいのなら」
「悪い、忘れてた。俺、ヴィスト語のことでノエルを連れてくるよう、叔父上に呼ばれてたんだ」
ハームンドのあっけらかんとした声が、ジークフリートの言葉を遮る。
「……アウグスト先生が?」
ハームンドの叔父であるアウグストは、最年少でこの学院の教師となった、語学の専門家だ。
「ああ、かまわないだろ? それとも、ノエルに何か話が?」
「は? そんなもの、あるわけないだろ」
「だったらいいね。さあ行こう、ノエル」
言いながら、ハームンドは優しくノエルの肩に手をあて、歩くように促す。
「は、はい……」
今一つ状況を理解できなかったが、この場から離れられるならと、言われるままにノエルは歩き始めた。
そんなノエルの様子に、ますます視線を鋭くしたジークフリートには気づかぬふりをした。
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