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第3話
「ごめんね、強引に連れ出しちゃって」
ジークフリートたちから姿が見えなくなると、ようやくハームンドはノエルの肩から手を放してくれた。
ハームンドは、学院内でとても人気がある。ジークフリートのように決まった相手もいないため、あわよくば妻の座にと思っている者も多いだろう。
建国当初から王家に仕える大貴族の子息でありながら、それを鼻にかけることもない気立てのよさと、優し気で上品な顔立ちも人気の理由だ。
どうせ俺はジークフリートの引き立て役、などと自虐的な台詞を言うこともあるが、ノエルにしてみればハームンドの顔だって十分美形だと思う。
他のジークフリートの友人がみなノエルのことを嘲笑し、軽視する中、唯一優しく接してくれたのもハームンドだった。
ジークフリートが学院にいた頃、今よりさらにノエルへの風当たりが強い中、気にかけてもいてくれた。
「いえ……ありがとう、ございます」
ノエルの歩幅に合わせ、ゆっくりと隣を歩いてくれるハームンドに、頭を下げる。
小さな声ではあったが、ハームンドはなんとか聞き取ってくれたようだ。
「いや……、あいつにも、困ったもんだね」
あいつ、というのがジークフリートのことを指していることはすぐにわかった。
ノエルは黙って首を振る。
「悪いのは、僕の方なので……」
ハームンドはその言葉に痛まし気に眉を顰め、ノエルの言葉を否定する。
「違うよ、ノエルは悪くない。いつまでも素直になれない、ガキみたいなあいつが悪いんだ」
学院にいた頃から、ハームンドはジークフリートの言動に対し、ノエルを慰めてくれていた。
口ではああ言いながらも、ジークフリートはノエルのことを気にかけている。
本当にノエルのことを疎んじていたら、婚約だって解消できるはずだ。
それをしないのは、あいつ自身がノエルを自分の妃に望んでいるからだ。
そんなハームンドの言葉に、一縷の希望を持った時期もある。
けれど、ジークフリートの態度が変わることはまったくなく、学院に入学した頃にはあった会話も、今ではほとんどなくなってしまった。
どうして、ジークフリートは婚約を解消しないのかと、学院の誰より、ノエル自身は思っていた。
「えっと、それでは……」
とりあえずジークフリートたちとは別れられたし、ハームンドにこれ以上迷惑はかけられない。
食堂に行けなかったのは残念だが、寮に戻れば何かしら保存食がある。
小さく頭を下げ、その場を去ろうとすれば、ハームンドの手がそれを阻んだ。
「あ、待って。叔父上から呼ばれたのは本当なんだ。ノエルも一緒に行こう?」
アウグストは他の教師陣のように、ノエルのことを腫れもの扱いせず、普通に接してくれる数少ない存在だ。
ただ、呼ばれているのはハームンドなのに、自分が一緒に行ってもよいものだろうか。
そんなノエルの心境がわかったのだろう、ハームンドは小さく笑い、
「叔父上は人嫌いで有名だけど、ノエルのことは気に入ってるから大丈夫だよ。さ、昼休みが終わらないうちに行こう」
そのままノエルの背を軽く押す。
「は、はい……」
自分がアウグストに気に入られているとは思えなかったが、とりあえずノエルも一緒にアウグストのところへ向かうことにした。
「なんだ、やっぱりノエルも連れてきたのか」
ノックをし、アウグストの研究室に入れば、中は雑多な空間が広がっていた。
何度かノエルも入ったことがあるが、アウグストの研究室はいつも物で溢れている。
語学だけではなく、他国の生活や文化に精通しているアウグストは、休暇があるとふらりと他の国へと出かけていく自由な人間だ。
大貴族の四男という気楽な立場もあるのだろうが、三十はとうに過ぎているのに未だ独身なのもそれが理由だ。
ハームンドの叔父とはいえ、年齢も近いため、外見だけなら兄弟のようにも見える。
常に外見を整えているハームンドに対し、アウグストは無精ひげに寝癖のついた髪という出で立ちだが、元々の顔の作りがよいためか、決して粗野には見えない。
「叔父上……毎回のことながら、この部屋はもう少しなんとかならないのですか」
ハームンドが顔を引きつらせたが、どこ吹く風だ。それでも、二人が座れるようにソファーに置いてあった本をどけてくれた。
「掃除は毎日してもらってるから安心しろ。で? お前がノエルを連れてきたってことはバカ王子は相変わらずなのか?」
「ええ……まあ」
アウグストの物言いにギョッとする。
バカ王子、というのはおそらくジークフリートのことだろう。
アウグストの身分だからこそ許される軽口なのだろうが、眉目秀麗なジークフリートをこのような呼び方をする人間は他にいない。
「ま、そんなことだろうと思って食事も三人分用意してある」
アウグストが目配せした方を見ると、本が積まれたテーブルの端には、パンや肉、サラダにスープと所狭しと置かれていた。
「……本が落ちてこないうちに、さっさと食べましょう」
呆れたように、ハームンドが言った。
食堂というよりレストランに近い学院の食堂は、シェフが料理を作り、教育された給仕が運んでくる。
アウグストのもとにも直接シェフが来ようとしたのだろうが、おそらく断っているのだろう。以前も課題を見てもらっていた時にアウグストの部屋で食事をしたことがあったが、給仕が簡単に説明をしただけだった。
食事をしながらも、たわいもない世間話をしていた二人だが、ふとアウグストの表情が真剣なものになる。
「それで? バカ王子は例の件に納得したのか?」
ハームンドの声も心なしか、固いものになる。
「渋々、といったところですね。国王陛下に直接諭されたようですし、ジークフリートも譲歩せざるを得ないでしょう」
「まったくあいつは……若いくせに頭が固くてかなわんな。獣人への差別意識なんて、お前たちの世代で持ってるやつなんてほとんどいないだろ?」
「差別感情はなくとも、恐れや抵抗を感じる者はやはりいますかね……」
二人が話す内容はよくわからなかったが、獣人という言葉に反応したノエルは、思わず顔を上げた。
この世界における支配者は人間だけでない。姿かたちが動物によく似た獣人も数多く住んでいる。
その中でも、ノエルたちにとって一番身近な獣人は虎族だ。
虎族の国ヴィスナーと、ノエルの住むヘルブストは国境を介して隣接している。
かつては戦争を行ったこともあったが、ここ百年ほどは両国の間にこれといった緊張はなく、かといって国交も交流もない。
干渉し合わなかった両国が歩み寄りを始めたのは、ヴィスナーの皇帝が代替わりしてからだ。
元々、広大な領土と屈強な軍を持っていたヴィスナーだが、国土の大半が冬の間は雪で覆われているため情報も乏しく、北方の辺境国だという見方が一般的だった。
けれど、十代半ばで即位した現皇帝は次々と近代化を進めるとともに、周辺諸国との外交も積極的に進めていった。
ヘルブストとも数年前に正式に国交が結ばれ、アウグストはヴィスナーへ滞在したことがある数少ない人間の一人だ。
ノエル自身、ヘルブスト北部にある国境沿いの街で育ったこともあり、ヴィスナーはとても身近な存在だった。
可愛がってくれた大叔父が、森の中で虎族に助けられたという話を幼い頃から幾度も聞いていたため、恐れも感じていなかった。
学院に入学した際、第二外国語にヴィスト語を選択したのもそれが理由だ。
だから、つい二人の話が気になってしまったのだ。そんなノエルの様子に、アウグストも気づいたのだろう。
「気になるか?」
と問われ、咄嗟にノエルはしどろもどろになってしまう。
「あ、いえ……」
自然と、ハームンドの視線も自分の方へ向く。
「僕が……聞いてもよい話なんでしょうか……」
考えてみれば、ハームンドはすでに王宮で働いてるし、アウグストは教師をしながらも外交部で要職に就いている。
話の内容によっては、ただの一生徒である自分が知ってはいけない情報も、あるのではないだろうか。
「ああ、来週にはおそらくノエルたちの耳にも入る話なんだけどね。半年前、人間の男が虎族の皇妃を誤って撃ち殺してしまった事件があったことを、覚えてる?」
ハームンドの言葉に、ノエルは顔を青くする。
「はい……確か、獣化して姿を変えていたため、虎と間違えしまったんですよね」
虎族といっても、顔や身体に虎の特徴こそ見られるが、完全に虎に姿を変えられるのは一握りの者だけだ。
王族や、身分の高い貴族に限定されているため、人家に現れた虎が、まさか虎族の皇妃だとは思わなかったのだろう。
事件は瞬く間に国中に知れ渡った。他国の皇妃を殺してしまったのだ、ことによっては武力衝突にもなりかねない。緊張状態にあった二国間の関係は、ヴィスナー皇帝、ファリド・ティグレラの裁量により収拾した。
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