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第5話

 午後の授業は入れていなかったため、ノエルは二階の窓からぼんやりと庭を眺めていた。 昼食時のアウグストの言葉が、どうしても頭から離れず、もうすでに何度目になるかわからないため息をついてしまう。  自分がいなければ、ジークフリートはクリームヒルトを妃にすることができる。  それは、ノエルがクリームヒルトと一緒にいるジークフリートを初めて見た時から、ずっと思っていたことだった。  そもそも、婚約だって十年近く前、幼い子どもの口約束がきっかけだったのだ。  今のジークフリートにとっては、負担以外の何物でもないだろう。  しかも、あの頃とはジークフリートの立場も大きく違っている。  本来なら、アウグストが言うように自分の方から身を引くべきなのかもしれない。  ノエルがまだ五つになったばかりの頃、ジークフリートは母である王妃とともに、小さな田舎町へと療養にやってきた。  王妃とノエルの母は元々が乳兄弟で、少女時代からとても仲が良かったのだという。  二人に見守られながら、年齢の近かったノエルとジークフリートはすぐに仲良くなった。  あの頃のジークフリートは、ノエルの小さな声にも耳を傾けてくれたし、根気よく話も聞いてくれた。  ヘルブストでも北方にあるノエルの生まれ育った町は、夏でも涼しいため、貴族たちには避暑地としてとても人気があった。  そのため、毎年夏になるとジークフリートが遊びに来るのを、ノエルはいつも楽しみにしていた。  末っ子であるノエルは他の兄弟とは年齢差がありすぎる上に、周りに同じ年齢の子どもが少なかったこともあるのだろう。  夏の間、二人は実の兄弟のように仲良く過ごしていた。  けれど、そんな幸せな時間も長くは続かなかった。  ノエルの母が亡くなり、ノエルは一人きりになってしまったからだ。  一人、といってもノエルには父も二人の兄もいた。  けれど、母は後妻であったため、半分血の繋がった兄たちとは年齢が離れているため疎遠で、さらに父からは疎まれていた。  母を溺愛していた父は、ノエルを産んだことにより身体が弱かった母の寿命がさらに短くなってしまったことが、許せなかったからだ。  ノエルの容姿が、母によく似通っていたこともあるのだろう。  使用人たちも、家主からよく思われていないノエルに対してはどこか冷たく、身の回りの世話も仕方なく、という感じだった。  そして、母を亡くした悲しみと、心細さで目を真っ赤にして泣きじゃくるノエルに対し、ジークフリートが言ったのだ。 「ノエルは俺と結婚すればいい。俺がノエルの家族になってやる」と。  ヘルブストでは、神の名のもとに同性婚も許されている。  当時は結婚の意味などよくわかっていなかったが、単純に家族になればずっとジークフリートと一緒にいられるのだと思うと、嬉しかった。  けれど翌年、ジークフリートの兄であり、王太子であったエーベルヘルトが落馬により逝去したことにより、ジークフリートの立場は大きく変わることになる。  王位継承権第一位、次期国王である王太子となったのだ。  夏の間にあった訪れはなくなり、時折送られてきた手紙も、いつしか途絶えてしまった。ノエルが書いた手紙にも返事が来ることはなく、ついにはノエルが出した手紙がそのまま封を切られることなく返ってきた。  すでに十二歳となっていたノエルは、自分とジークフリートの身分の違いを理解できないほど、子どもではなかった。  おそらく、もう二度とジークフリートと会うことはないのだろうと、そう思った。  けれどその三年後、王宮から一通の手紙がノエルのもとに届けられた。  手紙の中身は、ノエルを王太子ジークフリートの婚約者として、ハイデンベルク学院への入学を許可する、というものだった。  驚きつつも、その内容はノエルにとって願ってもない幸運だった。  元々裕福とはいえなかったノエルの実家だが、この頃には事業に失敗したこともあり、とても王都の学院に入学などできない経済状態だったからだ。  何より、数年ぶりにジークフリートに会える。  嬉しさと興奮で、首都へ出発する日の夜は、空が白くなるまで寝つくことができなかった。  けれど、再会を望み、喜んだのはノエルだけだった。  今でもノエルは忘れない。数年ぶりに会ったジークフリートの、蔑むように冷たく自分を見る瞳を。 木の枝にとまっていた二羽の黄色い鳥が、ピチピチと鳴いて空へ羽ばたいていく。   微笑ましくそれを見つめていると、ふと木陰にいる二人の人影が目に入った。  食事を終え、庭でも散策しているのだろう。  楽しそうに笑うクリームヒルトを、優しい瞳でジークフリートが見つめている。 そして、ゆっくりと二人の顔が近づき、その唇が重なった。  心は、痛まなかった。  二人の姿はあまりに美しく、幸せそうで、妬ましいなどとはとても思えなかったからだ。  むしろ、自分の存在が二人の足かせとなっているようで、申し訳なさと、そして惨めさを強く感じた。  ノエルをジークフリートの妃にすることは、数年前に亡くなった王妃の遺言だったそうだ。  ノエル自身とても可愛がってもらったし、親友の子であるノエルのことが、最後まで王妃は心残りだったのだろう。  けれど、王太子となったジークフリートには、世継ぎが必要だ。  原則、ヘルブストは一夫一妻をとっているが、特例として、王妃が男性であったり、世継ぎが望めなかったりした場合、夫人という妃と同じ地位の女性を選ぶことが許されている。 ジークフリートが夫人に選んだのはクリームヒルトだ。  父は大臣職についており、家柄は申し分もなければ、ジークフリートともすでに婚約の儀も終えている。聞けば、ジークフリートとは幼い頃から仲睦まじくしていたそうだ。  美しく、気立ても良いクリームヒルトは初めからノエルに対しても優しく接してくれていたし、妬心などかけらもないようだった。  いや、傍目にもジークフリートから愛されているのはクリームヒルトであると明らかであるため、そんな気持ちは微塵も起きないのだろう。  二人から視線を逸らし、ノエルはゆっくりと歩き始める。  ハームンドは気を使ってくれたが、やはりジークフリートが愛しているのはクリームヒルトで、ノエルのことなど見向きもしていないようだ。  わかっていたことではあるが、少しだけノエルはそれをさみしく感じた。 「ヴィスナーか……」  幼い頃、大叔父から聞いた虎族の話を思い出す。  白い雪に囲まれた、銀色の大きな虎が治める帝国。  形ばかりとはいえ、もし自分がジークフリートの婚約者でなければ、希望しただろうか。 そんなふうに考えて、自嘲する。  ヘルブストを代表してヴィスナーに嫁ぐのだ。そんな大役、とても自分には務まらないだろう。  それでは、一体誰が嫁ぐことになるのか。  できれば、ヴィスナーや虎族への理解がある人間がいいと、ぼんやりとノエルは思った。  二カ月後。   ヴィスナー帝国の皇妃が学院の生徒から選ばれること、そして、それは学科試験の結果が選考基準になることがジークフリートの口から伝えられた。  講堂に集まった生徒たちの動揺は、ノエルが想像していた以上のものだった。  驚きや好奇の表情を浮かべるのは、家柄もよければ成績もよい者。  不安気に顔を歪めているのは、それほど身分の高くない貴族の子弟。  誰もがヴィスナーに嫁ぐことを恐れ、忌避しているのは、火を見るよりも明らかだった。 普段は口にすることはないが、ヘルブストの人間にとって虎族への恐怖は根強いのだろう。  ジークフリートは生徒たちの反応など気にも留めず、壇上を静かに下りていった。 「試験結果って……成績の悪い者から選ばれるってことだよな」 「え?」  隣にいたエルマーが、形のいい眉を寄せる。 「ヴィスナー帝国の皇妃になる人間だろ? 筆記試験の結果で素養が量れるわけじゃないが、それで皇妃が務まるとは思えないけどな」 「……そ、それは、わからないよ。本人の努力次第だよ」 「そりゃそうだけど、あの反応を見る限り、難しいと思うけどな」  エルマーの見ている方向へと視線を移せば、顔面蒼白の生徒たちが何人も見えた。  選ばれた日には、自ら死でも選びそうな、そんな悲壮感すら感じられる。  ノエルからすると、どうして皆がヴィスナーへ行くことを厭うのかわからない。  確かに、亡き皇妃を殺してしまったヘルブストから嫁ぐのだから、相応の覚悟は必要とされるだろう。  ヴィスナーの獣人が人間をどう思っているかはわからないが、今回の件だけ見ても風当たりは厳しいはずだ。  それでも、長い間国交のなかった両国の間を仲介する、大事な役割でもある。 「ま、俺たちには関係ない話か」  エルマーはそう言うと、講堂の出入口の扉の方へ向かっていく。 「ノエル?」  けれど、立ち止まったまま、動こうとしないノエルに気づくと、振り返り、声をかけてくれた。 「あ、うん……」  慌てて、ノエルもエルマーの後を追う。   自分には関係ない、本当に、そうなのだろうか。

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