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距離2
店の看板を仕舞い、ドアプレートをひっくり返す。駅は第二の帰宅ラッシュを迎え、スーツ姿のサラリーマンやOLが皆忙しなく帰路を急いでいた。
「あ、雪生さん」
「こんばんは。ちょっと早く来過ぎちゃったかな」
「いいえ、丁度店じまいをしていたところです。どうぞ上がってください」
持った看板を隅の方へ置き、中へ案内する。
店の中、階段を登った木造二階建ての二階が幸太郎の城だ。両親は脚が悪くしてからは平家の一軒家に移り住んでいるため、今は幸太郎一人だった。急勾配の階段を登った先にキッチンと二人がけのテーブルがあり、雪生を椅子に座らせた幸太郎は湯を沸かすためにキッチンに立った。
「レンジ借りてもいい?」
「どうぞ、そこの白い下のやつです、それ」
ケトルをセットしたら、あとはカップを二つ食器棚から取り出す。両親が引っ越す際ほとんど置いて行ってくれたから、一人暮らしには十分なほどの食器がある。ブルーの模様が美しいティーカップを二つ選んだところでお湯が沸く。次いで、チンと小君いい音が鳴り、キッチンにはケチャップの甘酸っぱい香りが満ちた。
「見た目はともかく味は保証するって言いたいとこだけど、幸太郎君の口に合うといいな」
「めちゃくちゃうまそうです、いただきます」
ほかほかと湯気を立てる皿を前にしたら、じゅわ〜っと涎が滲み出してくる。ゴクリと喉を鳴らし、幸太郎は奪うようにフォークを掴んだ。
「…!うまいっす」
「ほんと?よかった〜!隠し味にケチャップと赤ワインを入れたら味に深みが出てたんだ。それじゃあ、僕もいただきます」
両手を合わせ、ナポリタンを一口口に含んだ。途端に顔いっぱいに喜びを滲ませているの雪生につられ、幸太郎も口元を緩ませる。雪生は、とても表情豊かですぐに顔に出るところがある。見ていて飽きないというか、くるくると万華鏡のように新しい表情を見せてくれる雪生に、幸太郎は知らずのうちに惹かれていた。とはいえ、相手は既婚者で男だ。間違っても、それは恋愛的な意味ではない。
「よかったらレシピ教えてくれませんか」
「いいよ、書くからちょっと待ってね」
「僕食器洗っちゃいますね」
キッチンペーパーでソースを拭ってからスポンジで手早く洗う。五月とはいえまだ夜は冷え込むため水の冷たさが染みたが、一人じゃない食卓だったからかいつもより気にならなかった。
「はい、これ」
「ありがとうございます」
手渡されたメモを水気の残る手で受け取る。達筆でお手本のような字は、雪生そのものを表しているようで、幸太郎は手の中のメモを大切に折りたたんだ。
「じゃあ、僕そろそろ行くね」
「あ、はい。今日はご馳走様でした、とても美味しかったです」
「こちらこそお粗末様でした。おやすみなさい」
食器を風呂敷に包んだ雪生は「また連絡する」と人のまばらになった道を帰って行った。幸太郎はガス灯の灯りが照らすキャメル色のジャケットを、名残惜しい気持ちで見送った。
雪生とは一度食事をしてから、話題の映画や古本屋めぐりなど、それなりに出かける仲になった。両親の花屋を継いでからは忙しく、仕事以外で誰かと出かけることなんてなかった気がする。それに、幸太郎自身、あまり大人数でわいわいするような場所が好きではないから尚更だ。そんなわけで、幸太郎の日常の中で、雪生の存在は少しずつ大きくなっていった。
しかし、五度目の約束は幸太郎から断らざるを得なくなってしまった。学生時代の友人から、ウェディングブーケの依頼を受けたのである。
「お〜い、花宮!」
「山本」
「なぁにシケた顔しちゃってんの、らしくないじゃん」
「いいよ、そういうの」
「つまんねーの。お前昔からそうだよな。だぁから彼女かっさらわれんだよ」
「彼女じゃねーし」
ストライプのネクタイをだらしなく緩め、黒髪の短髪をワックスで固めた体育会系の男は、幸太郎の高校時代の同級生だ。今日は、同級生の結婚式に出席していた。ウェディングブーケの依頼主だ。
「元、だったな。悪ぃ悪ぃ」
そう云って山本は近くの机から拝借したグラスを仰ぐ。肩に回された腕を煩わしく思いながら、披露宴会場の舞台に目を向ける。純白のウェディングドレスに身を包み微笑む女性ーー相川美羽は、幸太郎の幼なじみ兼元恋人だ。幼稚園から高校まで同じだった彼女とは、高校生になってから付き合い、三年生の卒業間近に幸太郎がフラれる形で別れた。大学は彼女は地元の女子大、幸太郎は東京の大学に進学したので、近況は知らなかったがまさか結婚したとは思わなかった。とはいえ、幼なじみが幸せになることは嬉しい。晴れ舞台の中心にいる彼女は、素直に美しいと思う。
「なぁに、惚れ直しちゃった?ざんねーんだったな、もう人妻だぜ」
「馬鹿なこと言うな、酔っ払い」
人妻。ふと、幸太郎の脳裏に雪生の顔が浮かぶ。いやいや、既婚者ではあるが男に人妻はないだろう。幸太郎は自分の考えを恥じた。
「てかさ、お前この後時間ある?飲み行かね?」
「でさぁ、あいつ何て言ったと思う?」
煙草の煙に人の熱気。あらゆる匂いが混じり合い白く淀んだ空気の中で、山本はジョッキ片手にひたすら愚痴を零していた。
「お前、こっちが本題だろ」
「花宮、お前しか捕まらなかったんだ」
「俺だって断ったのをお前が引きずってきたんだろ」
「親友のイチダイジだぜ?胸くらい貸せよ」
めそめそと机にのの時を描き始めた酔っ払いに、そろそろ帰って寝た方がいいんじゃあないかと呆れを通り越して心配になってくる。曰く、三年付き合った彼女と喧嘩したらしい。記念日を忘れた、というありきたりすぎて何も言えない内容の喧嘩だ。プレゼントの一つや二つ買って帰って素直に誤ったらいい、と助言をしてみるも、家に帰るのが怖いと見た目に不釣り合いな繊細さを持ってるのもこの男の一面なのだ。繊細は言い過ぎだ、小心者である。
山本の愚痴を肴に飲んでいた幸太郎も、そろそろ酔いが回ってきた。帰りどころを探していた時、胸ポケットが震える。
「はい、花宮です」
『幸太郎くん、今大丈夫?』
「大丈夫ですよ。どうしました?」
『この前話してたレコード持ってるんだけど、実は今近くまで来てて…』
「行きます、15分くらいで着くと思うので待っててください」
早口に電話を切り、はやる胸をおさえた。楪を集める頬を酒のせいにしてぬるくなったビールの残りを流し込むと、前方からじっとりした視線を感じる。嫌な予感がした。
「…おんな?」「いや、違うし」
「おんなだろ!おんなだー!」「しつこい」
「写真は?」「ない」
どこのカップルだと言いたくなる茶番を繰り広げながらタクシーを呼び、未だ何か喚いている山本を押し込む。今度は酒がない席で食事をしたい、と思いながら、幸太郎もタクシーに乗り込んだ。
公園手前の郵便局の前でタクシーを降りた幸太郎は、街頭の照らす夜道を駆け足に走り抜けた。火照った頬にほどよく冷えた宵の風が気持ちいい。角を二つ曲がると、ガス灯の薄明かりの下に人影があった。
「雪生さん」
「幸太郎くん、ごめんね急に。って、その格好…もしかして、結婚式?」
「はい、友人の結婚式で」
「そうだったの?ご、ごめん。そうとは知らず…」
「いいえ、披露宴の後友達と飲んでいて愚痴に付き合わされてたので、むしろ助かりましたよ」
眉を下げる雪生に首を振りつつ、店の鍵を開ける。中に入ると湿気を感じ、ネクタイを緩めた。かなり飲んできたからかなり酒臭いかもしれない。
「僕の部屋で少し待っててください」
雪生を部屋に通し、幸太郎はキッチンへ立った。お茶の準備をするついでに色んな煙を吸い込んだジャケットも脱ぎ捨てた。洗面所で顔を洗いパシンと一つ叩く。鏡に映った自分の顔が心なしか緩んでいた。飲みすぎたかもしれない。
「幸太郎くん?大丈夫?」
「い、いま行きまーす」
吃った返事をし、幸太郎はもう一つ顔を叩いた。
「若いのに珍しいね」
「祖母がよくクラシックを聴いていて、僕も好きになりました。食事中とか、何も考えたくない時とかに、よくクラシックを聴きます」
レコードから流れてくるのは、ショパンのプレリュード第4番作品28-4。単調な右手の旋律を左手の半音階和声が支えていて、ホ短調のもの悲しい旋律が特徴だ。
「雪生さんは、どこでクラシック好きになったんですか?」
ふと思った疑問を口にする。雪生は閉じていた瞼を上げて答えた。
「妹と演奏会に行った時かな。初めて聴いたピアノ演奏に魅せられてね」
「なるほど。奥さんも音楽好きなんですか?」
「うーん、ピアニストだからね。好きだと思うよ。あと、奥さん…というより、旦那さんなんだ」
曲が終わり、打って変わってニ長調の明るい様相の旋律が沈黙を埋める。幸太郎の頭の中は音楽を楽しむどころではなかった。
雪生の相手の職はともかく、男。てんで予想外だった。
「ごめん、こんな話。気持ち悪い、かな。幸太郎くんに、嘘はつきたくなくかったんだ」
「気持ち悪いだなんて、そんな。少し驚いてしまって…僕は、相手が誰であれ、愛し合う相手がいることは素晴らしいと思います」
「…優しいね、ありがとう」
いまだ混乱に働かない頭を動かしつつ絞り出した言葉に嘘偽りはない。花屋という職の手前、様々な人の想いを見てきた。誰かを思って花を買っていく人の顔は慈愛に満ちていて、幸太郎はとても好きだった。だから、恋愛に性の壁は些細なことだと思う。自分が両刀か、と問われたらわからないが、少なくとも偏見の目は持っていないつもりだった。
「雪生さんは結婚式は国内で挙げたんですか?」
「ううん、フランスで。日本はまだ同性婚が認められてなかったから」
「そうなんですか。フランスかぁ…オシャレですね。人の結婚式見ると、憧れちゃいますね。雪生さんは、旦那さんのどんなところがお好きなんですか?」
「僕?うーん、好き、とかいうより尊敬してるって感じかなぁ」
「尊敬?」
「うん。僕三年前に事故に遭って、結構な大怪我したんだ。彼ーーアンリに随分助けてもらってね。元々片親で妹と二人育ったんだけど、僕が中学に上がると同時に病気で他界してね。それから暫く孤児院に世話になってから、僕は中学卒業と同時に働いて妹と二人で生活してた矢先、余所見しちゃってさ。暫く働けなくなって、妹の学費やら自分の入院費やらどうしようと頭抱えてたところをアンリが援助してくれたんだ。ほんとう、彼には頭が上がらないよ。僕の人生の恩人なんだ、アンリは」
雪生はコップの中の飴色に視線を落とし、静かに語った。その人生は壮絶なもので、平凡な家庭でそれほとの苦労もなく育った幸太郎にはとても想像できなかった。
何と、言葉をかけたら良いのだろう。そんな考えを読み取ったのか、雪生はちらりと幸太郎を盗み見た後おどけたように笑い声を上げた。
「あはは、そんな顔しないで。これでも今は楽しんで生きてるし、別段自分が不幸だなんて思ってないんだから」
こつり、と爪先で机を小突きながら、雪生は目を細めた。オイルランプのオレンジ色を乗せた彼の表情が今まで見た彼の中でいっとう儚げで、幸太郎は食えないものを飲み込んだみたいに喉を詰まらせた。同情、といえばそれまでだ。しかし、同情や憐み以上に胸を締め付ける感情を一言で表すにはやっかいで、思えばこの時既に、幸太郎は雪生に特別な感情を抱いていたのかもしれない。
「雪生さんが、生きていてよかった」
口からポロリと溢れた言葉は、きちんと相手に聞こえていたようで、雪生がレンズ越しの瞳を丸くした。
「初めて、言われた。そんなこと」
くしゃりと不格好に崩した表情を作って、雪生が云った。初めて見る顔だった。
泣きそうに歪んだ顔の男を前に、幸太郎はどうしてあげたらいいのかわからなかったから、言葉の代わりに机上の手にそっと自分の手を重ねた。
冷めた紅茶とレコードが穏やかな旋律を奏でる空間で、もう少しだけ体温を感じる距離にいたかった。
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