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距離
雪生は度々花屋を訪れ、そのうち他愛ない会話を交わすようになった。話してみると案外親しみやすく、また会話は花や食事の話になることが多かった。
「この前幸太郎君に教えてもらったお手入れの仕方を試したら長い間綺麗に咲いてくれてんだ。本当にありがとう」
「それは良かった、また何かあればきいてください」
雪生は頬を緩め、歌うような調子で礼を云った。本当に花が好きなんだな、と思う。この人に買われていく花はきっと幸せだろう。
「いいなぁ」
「ん?何が?」
「いいえ、なんでも」
あなたの元へ買われていった花が羨ましい、なんて気恥ずかしくて言えるわけがない。幸太郎は誤魔化すように次の話題を持ち出した。
「そういえば、この前美味しいイタリアンのカフェレストランを見つけたんですよ。雪生さんはイタリアン好きですか?」
「うん、好きだよ。自分でもよく作るけど、中々お店みたいな味にはならなくて…それってどこのお店?」
「二丁目を行ったところの住宅街の中にある個人店で…ちょっとわかりにくいかも。よかったら、今度一緒に行きませんか?」
「いいの?やった、楽しみにしてる」
二つ返事で頷く雪生に別れを告げ、その背が見えなくなるまで見送る。幸太郎はポケットからスケジュール帳を出すと、枠の一つを埋めた。
来週の木曜日11時、駅前のオブジェの前。
簡素な文字が小さな欄を埋める。花の仕入れ時間や営業先の情報ばかりのスケジュール帳に個人的な予定が入るのは久しぶりで、幸太郎ははやる胸のうちを抑えた。
向こう側が透けてしまいそうな快晴の空の下、手を大きく振りながら走ってくる待ち人に片手で答える。
「お待たせ。ごめんね幸太郎、待った?」
「いいえ、丁度今来たところです。急がなくてよかったのに」
雪生は肩で息をしながら、ズレた眼鏡を直す。二度三度と繰り返し頭を下げるその後頭部にぴょこんと跳ねた髪を見つけて、幸太郎は声を上げて笑った。
「雪生さん、寝癖ついてますよ」
「え、ほんと?どこ?」
「ここ」
幸太郎は鳥の羽のように跳ねたそこへ手を伸ばし撫で付けた。柔らかなそうな猫っ毛は、見た目より柔らかく擽ったい。しかし、手が離れればまたぴょこりと跳ねるのだから仕方がない。雪生は涙を浮かべながら声にならない声を上げたので、
幸太郎は、再びこみ上げる笑いを俯いて隠した。
「わぁ、オシャレだね」
個人宅に見間違えそうな外装の建物に足を踏み入れれば中はアンティークな間接照明がセンス良く配置されており、居心地の良い空間を演出していた。奥から二番目のテーブル席に腰を落ち着けた二人は、メニューを広げる。特に希望のなかった幸太郎は日替わりランチを注文し、雪生は以前幸太郎が食べたナポリタンを選んだ。
「ん〜、美味しい…!」
「美味しいですね。こっちのミニトマトのパスタも中々いけますよ」
「ほんと?一口頂戴」
すい、と伸びてきたフォークが器用にパスタを巻きつけ、ぱかりと開いた口の中へ飲み込まれた。幸太郎は唖然と一連の流れを見つめていると、それに気づいた雪生が慌てたように頭を下げる。
「ご、ごめん、つい」
「あ、いや…どうです?美味しいでしょう?」
驚きが抜けきらないまま味の感想を促す。首が取れそうなほど頷く雪生を前に、幸太郎は奥さんにもよくこういうことしてるのかな、と頭の片隅で考えていた。
「雪生さんのも一口頂いて良いですか?」
「どうぞどうぞ!」
「ふふ、ダチョウ倶楽部みたい」
「じゃあ、お言葉に甘えて」とケチャップの香りが食欲を唆るナポリタンへフォークを伸ばす。香ばしいて甘いトマトの味が口いっぱいに広がった。
「やっぱナポリタン美味しいですね。僕パスタの中だったらナポリタンが一番好きです」
「そうなの?実は僕もナポリタンが一番好きなんだよね」
子供の頃よく母に作って貰ったんだと皿に落とした目は郷愁を漂わせた。と思ったのも束の間、パッと顔を上げた雪生は閃いたと言わんばかりの表情を浮かべる。
「ね、今度ナポリタン食べてくれないかな。ナポリタン仲間として感想を聞かせて欲しいんだ。自分じゃなんだかわからなくて」
「ナポリタン仲間、ですか。僕でよろしければ、ぜひ」
頭の上にテロップが表示されそうな珍妙な命名を受けつつ店を出た。時計に目を落とすと時刻は1時過ぎ、まだ時間がある。
「よかったら腹ごなしに歩きませんか」
「そうだね、つい食べすぎちゃったから丁度いいや」
そうしてやってきたのは、駅近くの河川に架かる橋だった。ここは見晴らしも良く、夜は恋人達が集まるデートスポットにもなっていることで知られている。平日の昼過ぎは営業のサラリーマンや子供を連れた女性がちらほら通る程度で、一休みするには丁度いい。自販機で買った水を手渡し、幸太郎は雪生の隣に腰掛けた。
「いい天気だねぇ」
間延びした調子で雪生が空を見上げて云う。幸太郎も空を見上げた。海月のようにふわふわと浮かんだ雲は、昼下がりに相応しく空の海をゆったりと流れてゆく。
「本当いい天気ですね」
仰ぎ見た首を下に下ろし、河川に目を向けた。陽の光を反射した水面はチラチラと瞬き、流れる水の音が耳に心地良さに目を閉じる。
「そろそろ帰ろうか」
瞼を開ける頃までどれくらいの時間が流れたのだろう。一瞬の時が止まり永遠の中にいたような、妙な感覚が残っていた。
「それじゃあ、また」
あっという間の木曜日が陽の傾きとともに閉じていく。別れを惜しむ子供たちのようにちょこちょこと後ろを振り向きはにかむ雪生に、幸太郎も手を振り返す。
いつもと少し違う、客と花屋ではないこの瞬間。背を見送るだけではなく手を振り合い距離を開けていくこの時間が、幸太郎の胸に淡い炎を灯す気配がした。
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