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第一章 波の狭間で1

 空気が淀んでいる。人間の匂いだ。たくさんの人間が通路に溢れかえっていて、押し合いへし合い、まるでお祭り騒ぎだ。当然人間と人間との密着度は高い。触れないように歩くことすら難しいだろう。  たかだか大学の構内だというのに、どうしてこうも混雑しているのだろうか。それはこの場所が他ならぬ、食堂への近道だからだ。腹を空かせた大学生たちは多数のグループで連み、ただでさえ狭い通路の幅をさらに狭めている。  多くの学生がグループで連んでいる中、壁際に佇む男がひとり。  内田宏輝(うちだ ひろき)は長袖パーカーの袖を手首まで伸ばしたどちらかといえば女らしい格好で、一団の波が立ち去ることをただただ待っていた。  宏輝がここに立っているのは、ある人物を待っているからである。たくさんの人間が通り過ぎたあとのむさ苦しい臭いの波に辟易しているときに、ようやく彼がやってきた。 「宏輝!」  彼の姿はまだ群衆に覆われていて見えないが、低音でもよく通る声が、宏輝の耳にも届いた。 「マサくん……っ」  うつむいていた宏輝の顔が上がる。人の波が引いてきて、待ち人の姿もよく見えるようになってきた。  宏輝は彼の元へ駆け出そうとするが、それは目の前に横切る人物に遮られる。 「宏輝っ!」  鋭い声が聞こえたと思ったのは一瞬だった。ドンッと身体同士がぶつかる短い音がして、跳ね返された宏輝は後ろへ傾き、尻餅をついてしまう。 「う……っ」 「宏輝っ!」 「あ、すいません! 大丈夫ですか?」  転倒した衝撃でなかなか起き上がれない宏輝に、ぶつかってきた人物が手を差し伸べてくる。だが宏輝はその手に触れることができない。理由を知らない相手は一瞬首を傾げたが、自然に差し出した手を戻した。 「ごめん……助けようとしてくれたのに」 「ぶつかったのは俺だし。気にしないでよ。とにかくアンタに怪我がなくてよかった」 「うん。君も気をつけてね。走ると危ないよ」 「ははっ! 学校の先生みたいなこと言うんだね。面白いね君。何て名前?」 「え……?」 「君の名前教えてよ」 「でも、僕……」 「俺は一年の間宮夏紀(まみや なつき)っての。一応新入生。こう見えて経済学部だよ。アンタは?」  宏輝は戸惑ってしまう。この間宮という男は宏輝が張ったボーダーラインを、いとも簡単に乗り越えてきた男である。  こんなとき、いったいどうしたらいいのだろう。  宏輝は辺りを見回して彼の姿を探すが、どうしても見つからない。人ごみに飲まれてしまったのだろうか。不安になる。冷や汗が出る。ほんの少し、呼吸が苦しくなってくる。  この状況から逃げるためにはさっさと名前を言って、間宮から離れるべきだ。宏輝は間宮の目を見ないようにゆっくりと立ち上がり、間近にいる彼にしか聞き取れないような小さな声で言った。 「二年の内田」 「二年って、アンタ俺より先輩だったんですね。気づきませんでしたよ。っていまさら謝っても遅いか」 「なあ、もういいか? これから人に会う用事があるんだ」 「ああ、引き止めてしまってすみませんね。どうぞどうぞ」 「じゃあ――」  宏輝が踵を返そうとしたとき、背後から間宮が呼び止める。

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