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第一章 波の狭間で2

「あ、待って先輩!」 「何?」  宏輝は早く彼の元へ行きたかった。宏輝の焦りに気づこうとしない間宮に対して苛立ちすら感じる。 「先輩のこと、これからはウッチー先輩って呼んでいいですか?」 「好きにしろ。もう僕はお前に会うつもりはない」 「ええ! そんなことは言わずに仲良くしましょうよ!」 「悪い、時間がないんだ。じゃあな」  宏輝は間宮から逃げるようにして、その場を立ち去る。間宮が発する仲良くしましょうというポジティブな気持ちが、今の宏輝には煩わしかった。  間宮は眩しすぎて、宏輝には近づくことすら許されないような人種ではないのかと思わされる。駄目だ。自己嫌悪の海底から浮上できない。 「マサくん……どこ……?」  宏輝は震え声で彼の名を呼ぶ。彼はどこへ行ってしまったのだろう。 「マサくん……」 「宏輝!」  背後から聞こえたのは彼の力強い声だった。宏輝は後ろを向いて彼の姿を探す。宏輝の待っていた相手、長谷川将大(はせがわ まさひろ)は肩で息を切らしてその場に立っていた。 「大丈夫なのか? 痛くはないか?」 「さっきの、見られちゃったんだ。恥ずかしいな」 「怪我はない?」 「ちょっと腰痛いけど、しばらくすれば治るよ。そんなに心配しないで」 「それならいいんだが……」  将大はまだ不安そうに宏輝を見下ろしている。心配性の将大のことだ。帰りにドラッグストアへ寄り、湿布を何点か調達するに違いない。不安げに右往左往する将大の姿を想像し、宏輝はひとりでクスクスと笑った。 「何だよ」 「ううん。マサくんが可愛いなあって思っただけだよ」 「俺なんかより、宏輝のほうが何倍も可愛い」 「ありがとう。そうだ、マサくん。おまじないしない?」 「ここでか?」 「だめ?」 「いや、だめじゃないけど……お前はいいのか?」 「したい。マサくんとしたい」 「っ……わかったよ」 「ありがとう。じゃあこっち来て。あんまり人が来ないところがあるから――」  宏輝が将大を連れて来たのは二階へと通じる階段裏のスペースだ。人気がないとはいえ、完全に人が通らないとは限らない。 「宏輝、ここでいいのか?」 「大丈夫、一瞬だから。ね?」  宏輝は柔らかく微笑み、将大に向かって両手を差し出す。 「マサくん、おまじないして。今日は触っていいから」 「ヒロ……」  将大が宏輝を愛称で呼ぶとき、ふたりの関係はがらりと変わる。 「おいで、マサくん」 「ヒロ……ヒロ……」  宏輝の胸元に将大が飛びこむ。すかさず将大は宏輝の小さな唇に口づけ、そっとその身を引く。 「もういいの?」 「ヒロ、何かあったのか? とても辛そうだから」 「何にもないよ。マサくんに早く会えなくて寂しかったくらいかな」 「ヒロ……」 「そろそろ次の講義かな。行こうかマサくん。遅刻しちゃうよ」 「ああ、そうだな」  宏輝は将大に背を向け、足早に歩きはじめる。将大もまた宏輝の後ろに続いた。  次の講義は宏輝も将大も選択しているため、教室までの道は同じだ。宏輝と将大は教室へ着くまで一言も発さずに、前だけを見て歩く。後ろには心強い将大が常についているので、彼のそばにいるときだけは安全だ。唯一と言っても良いほどに心が安らぐ。  一方の将大はというと、このとき見ていたのは宏輝の華奢な後姿である。その身体は衣服という鎧に包まれ、接触してくるものを静かに拒んでいた。

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