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Chocolate Box

 僕にはもう、病院に行く必要がなくなった。僕がこれまで長く思いを馳せていた依代はその意味を失い、そこに自分の持ちうるものを傾け続ける理由もなくなった。  心にポッカリと穴が空く、なんて言い回しをよくみるけれど、母が事切れたと知った瞬間だけで今は虚無感というよりも安堵や開放感のほうが強かった。  僕は栄が言うとおり、子供ではなかった。 確かに”母の子供”という立場ではあったが、病室に横たわる母の抜け殻を前にした僕は、”大人”でなければならなかったのだと今になって気付かされた。  僕たちの周りの大人達は、そんな”子供ではない子供”を前にして、誰もこうして抱きしめてはくれなかった。  栄の抱擁は力任せで、痛くて優しい。 栄はひたすらに溜め込んでいた想いや鬱屈を共有できる相手として僕を選び、そして互いを満たす為にこれまでじっと待ち続けていた。  栄は自分だけではなく、同じように子供ではなかった僕をも共に“抱きしめてもらえる子供”にしたかったのだろう。僕がその事に気付いて、こうして満たし合える日をずっと焦がれていたのだ。  栄のした事は間違いだと思う。けれど抜け殻に縛られ続ける僕は、栄と向き合わずにいる事で栄をも延々と縛っていた。  二十年という期間は最早誰にも測れない僕達だけの時間であり、僕達だけの絆なのだ。栄が僕を手放す日は、もう来ないだろう。僕もきっとこのまま栄に振り回されたままで、それで構わない。だからこそ、僕自身がいつかは決別しなければならなかった。  栄はついに僕を抜け殻から解放し、僕は自ら栄の箱に収まったのだ。僕と栄は、共犯だ。  僕は、素直に栄の身体をきつく抱きしめる。求めれば求めた分、僕の母は僕を抱きしめてくれたのだ。今はきっと、僕がこうしなければならないのだろう。  僕はそう消化した。 「弔うつもりではあったけど、弔う意味に悩んでいた」 栄と違って僕の場合は少しではなくて、随分悩んでしまっていた。すっかり腑に落ちた僕は、開きっぱなしだった母との思い出を今夜閉じた。  二人でそのまま少し眠って、目覚めた夜明けに朝日の予感を感じ取る。栄は丸まったまま動かなかったが、いつの間にか僕が握っていたチョコレートの存在に気づくと、手にこびりついたそれをゆるゆると舐め取り始めた。 「美味しい…」 そう言って微笑む栄の顔はあちこち腫れていて痛々しくて、可哀想で悲しかった。  栄に向けた慰めのつもりのキスから伝わる嫌いだったはずのチョコレートの味は、甘ったるかったが少し苦くて、しつこく後を引いた。 END

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