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2019年2月16日-7
東京駅から駒込駅まで、あっという間に帰ってきたように思う。緊張が取れ、無心で電車に乗っていたからだろうか。駒込駅のホームに降りた時には、身体はとても軽くなっていた。
マンションに到着し、部屋のドアを開けた瞬間、まるで飼い犬のように、千景がリビングから飛び出てきた。岳の顔を見てふわりと笑みを咲かせると、こちらに歩み寄ってくる。それから、悴んでいた岳の両手を優しく握ってくれた。
「おかえり」
「ただいま」
岳はたまらず千景を抱きしめた。それから、大きなため息をつき、彼の匂いをたっぷりと吸い込んだ。柑橘の香りが鼻に広がれば、身体に残っていた強ばりが、完全に解れていった。
「……疲れた」
「お疲れ。どうだった?」
「まぁ、な」
部屋に入り、千景と並んでベッドに腰を下ろした。コーヒーを飲むかと訊かれたが、断った。結局、カフェのコーヒーはひと口しか飲まなかったが、今も特に欲しいと思わなかった。
アウターを脱ぎ、そこでもまたひとつ大きく息を吐き出してから、岳は先の面会について千景にすべて話した。
千景は時折、相槌を打ちながら、終始、静かに話を聴いてくれた。そして、こちらが話し終えたところで、眉尻を下げながら淡く笑った。
「……一応、落ち着くところには落ち着いたんだな」
「すべてがすべて、整理がついたわけじゃねーけどな」
そう答え、苦笑じみたものをふっと洩らす。「けど、これでいいって、俺は思ってる」
おそらく晃一とは、これでもう会うことはないと思う。
祖父母の墓参りは、優一が許したのですると言っていたが、人知れず墓苑 を訪れるつもりでいるようだった。今後、安馬氏を通しての連絡も「こちらからするつもりはない」とも言っていた。向こうに対し、優一や岳が思い、考え、決めたことがあるように、向こうもこちらとの今後について、向こうなりの答えを出したのだろう。
寂しげながらも穏やかな笑みを湛え、千景がこちらの顔を覗き込んでくる。
「溜飲が下がった感じ?」
「そうかもな」
岳も目を細め、千景の頬に触れた。ふくよかな唇に吸いつき、そのままふたりでゆっくりとベッドに倒れ込む。
「……ありがとな」
口づけを解き、千景の瞳をまっすぐに見下ろしながら、そう囁いた。
「ここまでこれたのは、アンタのお陰だ」
「そんなことない」
千景は微笑み、小さくかぶりを振った。「今日までのことを決断して、行動に移したのは君だ。自分自身を労って、褒めればいい」
「アンタが背中を押してくれたからだ。アンタがいなかったら、親父のことを引きずり続けてたに違いない。……だから、本当に感謝してる」
……どうしようもなく、愛おしい。
なんて、照れくさくて口には決して出さないが、千景の頬や額、唇に降らせるキスに、その想いをたっぷりと込めた。千景は面映ゆそうに笑いながら岳の両頬を包み、自分からも口づけてくる。
「岳……」
「俺はこの先、アンタのために生きる。アンタにだけ縛られて生きていく」
それは、これ以上にないほどの幸福に違いなかった。
縛り、縛られ、離れることはない。千景との鎖は、岳を決して孤独にせず、退廃させない。どこにいて、何をしていても、千景のことを想っていられる。そういうものだった。
千景の顔が、みるみるうちに赤くなっていく。しまいには茹だったタコほどに頬を染め、困り顔で視線を彷徨わせるので、何だ何だと岳の眉は蠢いた。
「……あの、えっと、すごく嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい……けど……」
「けど?」
口ごもる千景を怪訝な目でじっと見つめる。するとしばらくして、もにょもにょとした軟 らかい声で、彼はこう続けた。
「ほら、あの……俺も前に、同じようなことを言っただろ? あの時はあまり意識してなかったけど、なんていうか、その……」
「なんだよ」
「……プ、プロポーズみたい……だな……?」
言ってしまった、と言わんばかりの顔だった。千景はますます赤くなり、顔じゅうの皮膚から蒸気を発しそうになっている。そんな彼の様子と言葉を受け、こちらまで物凄く恥ずかしくなってきた。頬が火照り、頭の芯もカーッと熱くなり、心臓の拍動が一気に速まった気がした。
確かに、千景の言う通りだ。自分の発言はまさに、それだった。
「……プロポーズみたい、じゃなくてプロポーズだ」
そのつもりで、千景に告げたのだ。
千景は目をがばっと見開き、同時にあんぐりと開いた口を両手で覆い、凝然とこちらを見上げてくる。エンストを起こしているようだった。……そんな反応をされるとますます恥ずかしくなり、思わず舌打ちが出てしまう。
「言っとくけど、アンタが先にしてきたんだからな」
ぶっきらぼうに言ってやれば、急にエンジンがかかったようで、千景は顔や目を忙しなく動かし、「えっ、あっ……、う……」と母音ばかりを洩らしだした。面白いくらい狼狽えている。その様子を見ていると、むすっとしていた表情が、おのずと緩んできた。
……いまいち、格好がつかなかったが、まぁいい。自分たちらしいと言えば、自分たちらしいのかも知れない。
「千景」と呼んだ声は、意図せずとも甘くなっていた。岳は千景の両手をどけると、もごもごと動く彼の唇を深く塞いだ。そして、しっとりと肉づいた彼の身体を、鎖のごとく強く抱きしめた。
了
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