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2019年2月16日-6
「……母さんのことを、どう思ってる?」
晃一は顔いっぱいに渋面を広げたのち、やがて嗚咽を洩らし始めた。
「あの日から、いっときも忘れられない」
その声には、深い哀情と後悔に加え、根深さを感じさせる呻吟の響きが含まれていた。
「毎晩、夢に出てきては、怨めしそうに俺を問い詰めてくるんだ。なんで、どうしてと泣き喚かれて、俺も泣きながら飛び起きる……あの日から穏やかに眠れた夜なんて、一度もない。お前の母親は……聡美は、俺を愛してくれていた。なのに俺は、他の女に安らぎを求めた。聡美を悲しませ、聡美の命を奪った……刑務所を出てからも、俺の償いは続く。死ぬまで、聡美に会い続ける」
ゆっくりとまぶたを閉ざし、ぼんやりと思う。
晃一が過去に囚われ続ける男だとすれば、自分と優一は、現在と未来に目を向けていられる存在なのだと。過去は過去だと割り切り、自由に生きていくことができるのだと。
……目の前のうらぶれた男に対する同情心は、薄情なのだろうが、これっぽっちも湧かなかった。
そして、目を開く。
「俺はアンタの息子だ。嫌っていうほど、アンタによく似てる。でも俺は、大切な人たちを不幸にしない……そう決めたんだ」
優一が大きく鼻を啜った。それからまた、咳払いをする。
晃一もボトムのポケットから取り出したハンカチを赤い目元にあてながら、大きく息を吐き出した。
「……是非、そうあってくれ」
……ふいに、晃一の人となりを朧げに思い出す。
この男は、決して悪人ではない。
陽気で愉快で、家ではよく岳や母親を笑わせてくれていた。気前が良く、誰にでも気さくで、会社でも上司や同僚からの評判は良かった。
何よりも、人情に厚い人だった。
不倫相手とは取引先との接待で利用したクラブで知り合い、1年近くに渡り関係があったとされているが、金で繋がっていたのか、それとも互いに情があったのか。何にせよ、晃一が相手を手放せずにいたのだと思う。
大人になり、色んな人間を見てきた今だからこそ、そんな推察を巡らせることができた。
「……今はまだ、アンタを許すことはできない」
緊張が幾分解けた声で、岳は言った。
「けど、いつかは許せる時がくると信じたい」
それがこの、永い苦しみからの解放になる。
長い間、心は鎖で縛りつけられていた。もがいてももがいても、鎖は解けるどころか、岳をきつく締めあげ、苦しめてきた。
もう二度と、この鎖がとれることはない。そう思わされながらも、諦念に至れることはなく、やり場のない負の感情を、様々な男女との夜を経て紛らわせてきた。
けれども今、この瞬間、痛いほどに食い込んでいた鎖が、ふっと緩まったのを感じた。
重力に従い、するりと解け落ちていったのだ。
晃一は背中を丸め、こちらに顔を見せずに泣き続けている。ふらりと優一に目顔をやれば、彼も濡れた顔をこちらに向け、唇を強く噛みながら、それでいいと言いたげに頷いてきた。
……そうだ。これでいい。
これでいい、と岳もまた頷き返した。
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