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1-1 ジェンガ

 都会ではないけれど田舎でもない、中途半端な街の7階から見る夜景は、『もういいよ。死んでしまおうよ』と、真っ黒な口を開けて俺を優しく誘っていた。  靴はそろえた。遺書は特に用意しなかった。  怖くないといえば嘘になる。  だから何日も何日も、飛び降りようとしては思いとどまることを繰り返していた。  でもそれもきょうで終わり。ようやく全てにあきらめがついた。  震える足を握りこぶしで叩く。  気を強く持て。またあしたからも、上司に暴言を浴びせられる日々に戻りたいのか?  あしたの自分を想像して、戻りたくないという絶望感を呼び起こす。  思考停止。何も考えず、金網を登り始めた……そのとき。 「おいおいおい、何してんの!?」 「うわ!」  誰かがタックルのように俺の胴体に抱きついてきて、そのままぶん投げられた。 「痛った!」  反射的に口から出たけど、痛……くはない。  見ると、厚手のチェスターコートがクッションのようになって、体が守られていた。  バッと下を見ると、俺をぶっ飛ばし、下敷きになった人物と目が合う。  すごい剣幕で怒鳴られた。 「何やってんだよ!」 「放っておいてくれ!」  再び起き上がり、ヤケクソになって金網に向かって駆け出し、勢いのまま登り始める。 「だから! バカなことすんな!」  羽交い締めで無理矢理下ろされ、そのまま全力で抱きとめられる。 「やめろ、離せ!」 「離したら死ぬんだろ!」  腕の中でバタバタ暴れてみるが、一回り大きい男に抱きとめられていては、身動きが取れない。 「落ち着け、落ち着けって」 「嫌だ、離せ!」  なんとか逃れようと身をよじっていたけど、ついに、金網とは反対方面にぶん投げられた。 「うわっ」  そして、起き上がりかけを真正面から抱きしめられて、ホールドされる。 「死ぬなよ。目の前で死なれたら胸くそ悪い」 「うるさい」  腕の中で手を突っ張って、きっと(にら)みつける。 「あんたが気まぐれに中途半端な正義感で止めたせいで、俺はまたあしたから生き地獄を味わうんだ。いまあんたは命を救ったつもりかも知れないけど、結局無責任に帰るんだろ。どうしてくれるんだ、やっと、ようやく……死ぬ決心がついたのに……あんたのせいで……」  自分が涙声になっていくのが分かった。  拘束していた腕が少しゆるまり、顔をのぞき込まれる。  大学生くらい? イマドキっぽい青年。 「何があったんだよ。死ぬほどのこと?」 「全部嫌になった。それだけ」  手は完全に離されたけど、もう、またダッシュして飛び降りるほどの気力はなかった。 「先がないおじさんならともかく、簡単に絶望すんなよ」 「あんたに何が分かるんだ」 「分かるわけないだろ。分かって欲しいなら説明しろ」  別に、誰かに分かって欲しいわけじゃない。  黙っていると、また顔をのぞき込まれた。 「オレ、倉本蓮(くらもとれん)。名前は?」 「……仁井田(にいだ)弓弦(ゆづる)」 「いくつ?」 「24」 「なんだ、やっぱりあんま変わんないな。オレ、ハタチ。大学2年生」  倉本、と名乗った青年は、真顔のまま小首をかしげた。 「仁井田さん、オレが帰ったら、また死ぬ?」 「……それは分かんない」  目をそらすと、倉本は俺の両肩をつかみ、まじめな顔で言った。 「死ぬくらいならオレと遊ぼう」 「は?」  何言ってるんだ……?  目を見開いてフリーズしていると、倉本は手を離して、そのままぺたんと座った。 「仁井田さん。何があったか知らないけど、嫌なことがあるなら、逃げればいいじゃん。死ぬ必要ないだろ」 「逃げられないから死ぬつもりだったんだよ」 「仕事?」 「……そう」  倉本はふうっとため息をついて、俺の頭をぐりぐりとなでた。 「バックレちゃえ。んで、やっぱりオレと遊ぼう」 「何でそうなるんだよ」 「その会社で、仁井田弓弦はもう死んだ。それで良くない?」 「上司が家まで来て脅迫するんだ」 「じゃあオレんち来なよ。その方が遊びやすいし」  目の前の大学生の不可思議な言動に、思わず眉間にしわを寄せる、 「あー……さっき言ったの気にしてるの? 無責任に止めたとかなんとか。それならもう忘れてくれていいよ。責任感じて言ってるなら、ほんと、もういいから」 「そうじゃなくって」  倉本はぴょんと立ち上がり、俺の目の前に手を差し伸べた。 「ほら、立って」 「え……」 「大学生がこんな深夜に、封鎖された屋上にいる理由。知りたくない?」 「別に」 「じゃあ無理矢理教える。ほら、立てって」  仕方なく手のひらをつかむと、ぎゅっと握り返して、そのまま体を引き上げてくれた。 「こっちこっち」  俺が飛び降りようとしていたのとは反対側の金網に向かう。 「登って向こう側に行く」 「は? さっき俺のこと止めたのに?」 「もし気が変わってやっぱり死にたくなったら、跳んでくれていいからさ」  ずんずんと登っていく倉本を、仕方なく追いかける。  慎重に登って反対側に立つと、本当に、ひと1人分の幅しかなかった。 「怖いだろ? 座ろ」  倉本はなんてことないように言って、ベンチのように腰掛けるように座る。  俺も隣に座ってみた。  足をぷらんと下ろすと、そのまま重力に持っていかれてしまいそうになって、こんなところから飛び降りようとしていたのかとゾッとした。 「ほら、空港」  倉本が指を差したのは、この冴えない街の存在理由とも呼べる、小さな空港の滑走路。 「ここさ、飛行場を見るのに特等席なんだよ。ここでぼーっとしてると、滑走路の整備してんのが見える」 「……それだけ?」 「そう、それだけ」  たしかにここなら、目の前にさえぎる建物がないから、ゆっくり見られる。  けれど、そのためにわざわざ雑居ビルに不法侵入して、落ちたら死ぬかもしれない場所で地味な作業を眺める心理は、全然分からなかった。 「あー、倉本くん?」 「蓮でいいよ」 「これ見て楽しいの?」 「うん、楽しい」  ゆるいパーマをかけたボブヘア。耳にはピアス。顔は暗くてよく分からないけど、整っている感じがする。  ダサい飛行機オタクならともかく、こんな子が楽しむようなものではないなと思うのだけど。  ぼーっと眺めていた横顔が、ふいっと空を見上げた。 「あ、雪降ってきた」 「え?」  手元を見ると、コートに雪の粒がぽつぽつと落ちていた。  頬にも、冷たい感触。  蓮は真正面に両手を伸ばした。 「あんまり前に重心かかると、ほんとに落ちるよ?」 「このくらいなら別に」  足もぶらぶらさせて見せる。 「危ないって」 「一緒にやろ。死ぬつもりだったんだから大丈夫だろ?」  根性試しのつもりだろうか。子供みたいに見えてくる。 「怖かったら手繋いであげるから。ほら」  既に雪が積もりつつあるグレーのコートからのぞく、大きな手。  はあっとため息をつき、手を繋いで、靴下だけの足をぶらぶらとさせた。 「楽しくない?」 「……まあ、楽しいかも」  初対面の大学生と手を繋いで飛行場を眺めている。  なんと訳のわからない状況だろうと思ったけれど、死んだものと思えば、全てがどうでもよくなった。 「お言葉に甘えて、家行っていいかな」 「オレが来いって言ったんだから。あー寒っ。行こっか」  蓮はぱっと手を離し、服をバサバサと払ってから、元来たように金網を登り始めた。  蓮がぴょんと飛び降りたのを見届けたところで、俺も登り始めようとした……そのとき。  金網越しに真正面に立った蓮は、少しはにかんで言った。 「あのー、もし良かったら……弓弦、って呼んでもいいかな?」 「は?」  意味もなく手を繋いできたと思ったら、なぜか名前を呼ぶことに許可を求める。  なんだかすごくズレていて、変な子だ。 「別にいいよ。とりあえずどいてくれる? 登りにくい」 「あ、ごめん。どうぞ」  かじかんだ手では、金網を登るのはちょっと怖かった。  死ななくて良かった、と思った。

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