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前・第1話

 今度、あの扉を開ける人が僕のことを助けてくれる人だといいな。僕のことを好きになってくれるといいな。  『運命の番』だといいな。  ――なんて。  首輪に触れる。黒い皮のそれは、僕の皮膚にぴったりと隙間なく巻かれている。この首輪の存在に救われている、と同時に、恨めしくも思う。  ***  突然、思い出した。 「初めまして、黒島です」  1ヶ月ほど前からこのコンビニでバイトを始めた。主に夜を担当している。時給のよさと借りているアパートから徒歩で通える距離にあって、気に入っている。  心配していた人間関係も今のところ良好、とまではいかないが、波風は立てていないと思う。  丸い大きなお腹をした店長が、いつものにこやかな笑顔で「じゃあ、あとよろしくね」とエプロンの紐を解きながら裏に消えていった。  客足の途切れた店内に、俺と黒島さんだけが残された。 「――よろしくお願いします」 「よろしく。久しぶりに入るから動き悪いかも。ごめんね」  そう微笑まれ、顔に熱が集まるのを感じた。  170センチそこそこの俺より頭1つ分は大きい。細い、引き締まった身体をしていた。スッキリ整えられた黒髪をしていて、薄い色の、けれど力のある大きな眼が印象的だった。  動きが悪いなど言っていたが、さっさと、レジの裏からクリンキーパーを取り出し、慣れた手つきで清掃に入ってしまった。  心臓が痛い。  飲み物が陳列する棚の硝子を隅から隅へ丁寧に拭いている背中に声をかける。 「黒島さん、は、おいくつなんですか?」 「あれ? ああ、ごめん。人違い。どこかで会ったことがあるような気がしてた。20歳。H大の3年だよ」 「シフト、休んでたんですか?」 「うん、2週間くらい。学校……てかサークル? がさ、新入生歓迎ムードで、色々忙しくて。店長に無理言った。ええと、井川くんが入ってくれて助かった」  名前を確認するためだろう。胸のネームプレートへと目線が寄越される。  名前を、しかもたかだか名字を呼ばれただけで、こんなにも身体が熱くなるなんて、おかしい。やっぱり、やっぱりそうなんだ。 「顔、赤いけど大丈夫?」 「大丈夫、です」 「なんか、聞いてたイメージと違うね」 「イメージ、ですか?」 「そ。よく井川さんとシフトに入っていた山野って人、俺の友達なんだけど。無口で無表情で不愛想な子が入ったって笑ってたから。すごい、話しかけてくれるんだなって。ちょっとびっくり」 「あ、いえ、その、もっと黒島さんのこと知りたくて」 「ははっ」  黒島さんが大きく肩を揺らした。「ナンパみたいだね」と笑っている。だめだ、これ以上近づいたら、だめになる。  慌てて黒島さんから目を逸らし、箱からクリンキーパーを数枚引き抜くと、真逆の陳列棚へと急いだ。外は真っ暗で、店内の照明がガラスに反射して自分の顔が映っている。  発情期前の、みっともない『雌』の姿がそこにあった。  ***  男女の他に、『第2の性』という区分がある世界だった。今いる世界の全ての人と変わらない『β』、他より段違いに優秀な『α』、そして、発情期というハンデを負う『Ω』。  その中でも、『僕』は、Ωだった。  それも、神様が何か配分を間違えたとしか思えない、α同士の夫婦から生まれたΩだった。  それはもう酷く落胆された。けれど、彼らの頭脳は優秀だった。僕の容姿を磨き上げ、その身体を他のα達へ貸し出すことで、縁を繋ぎ、金を払わせ、元をとった。  最終的には、どこぞの地位があり金もある中年男性のαへ売り払われ、僕はそこで酷い扱いを受け、そして、死んだ。 「ごめ、ごめんなさい。ごめんなさい」  この世界での両親の連絡先が入ったスマートフォンに土下座をし、頭を下げ続けた。本当に悪い人達ではなかった。俺がうまく受け入れられさえすれば、普通のごく普通の暖かい家族ができていたはずだ。  俺が、前世での記憶を無意識に引きずり続けた結果、辛い思いをさせてしまった。彼らは、何も悪くなかったのに、うまく家族になれなかった。  せめて、もっと思い出すのが早ければよかった。そうすれば、「前世」と「今」とを割り切ることができたかもしれないのに。 「ごめん、なさい」  今更思い出してしまった。原因はわかっている。  黒島さんは、俺の『運命の番』だ。  そこに感情はなく、理性もなく、理屈もない。ただひたすらΩとしての本能が彼を求める。彼と番いたい。彼の、子どもがほしい。  「はっ」と笑いが漏れる。今更何が番だ。神様はどうやらまたミスをしたようだった。  今の俺は、子どもを生める身体ではない。  そして、黒島さんには、αとしての自覚はない。そもそも、αかどうかすらもわからない。勝手に俺が彼のフェロモンに煽られただけだ。  苦しい。  バイトから帰宅してからずっと、身体が熱い。思い切り前を扱いて、少しでもこの快楽を抜きたい。  けれど、それは発情期であることを認めることになる。  達した先、そこには絶望しかない。  この世界にはΩの発情期を抑える薬はない。そして、αβΩの区分のないこの世界で、黒島さんに俺のフェロモンは効かない。  ただの『男』でしかない俺に、欲情してくれるわけもない。 「う、うう」  逆らえない。俺はゆっくりとズボンの前をくつろげた。荒い息で何とか頭に酸素を送り込みながら、手を下着の中に入れる。  だめだ、だめだ。だめだ。 「ひ、うっ」  既に先走りで濡れたソコを掴む。それだけで、身体が大げさに跳ね上がった。手を、動かすのが怖い。  けれど、本能には逆らえなかった。  むなしい。いくら必死に酸素を飲み込んだところで、もう頭はうまく回らなかった。 「嫌、嫌だぁ」  上下に扱く、それだけの単純な動きを数回繰り返しただけで、あっさりと手の内にどろりとした感触があった。  出てしまった。  やってしまった。  それでも収まらない。収まるわけがない。これは発情期なのだ。  少し寝てから行こうと思っていた午後から入れていた講義には出席することができなかった。玄関を入ってすぐの場所で、いつのまにか気を失うようにして眠ってしまっていた。  目を覚ましたのはもう日が落ちてからだった。  ほっとした。Ωとして不完全なこの身体では、発情期も長くは続かないらしい。

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