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第2話

「今まで休んでいた分、働けってさ。またよろしく」  黒島さんだった。茶色の目が今日も柔らかく微笑みを浮かべている。その姿を見るだけで、どうしようもなく身体が火照ってくる。  俯き、頷く。 「よろしく、お願いします」  幸いにもパラパラとではなるが、客は途絶えなかった。雑談にかまける余裕もなく、必死で笑顔を浮かべレジを打った。品だしや検品、清掃を繰り返す内に朝が来ていた。 「さすがに眠たいね」 「はい」  黒島さんの目は、もはや細められすぎて開いてない。2人でよろけながら店を出た。朝陽が眩しい。昨日もよく眠れていないせいで、目蓋が重すぎる。 「今日講義は?」 「何も入れてません。久しぶりにゆっくり眠れそうです」 「あ、じゃあさ、軽く朝ご飯、一緒に行こうよ」 「え」 「朝ご飯、買いに行くのも面倒だし。ね、これからも店長にこき使われる仲間なんだし、仲良くしてほしいな」  嬉しい。行きたい。もっと、黒島さんとの距離を縮めたい。けど、今は収まっているけど、いつまた発情期に襲われるかわからない。  それに耐えられるんだろうか。  不安は、結局は誘惑に負けた。  コンビニ近くのファミレスで朝定食とやらを注文する。学生の懐事情にも優しい低価格な設定が魅力的だ。  けれど、何より魅力的なのは、目の前で交差した腕の中に頭を埋める彼だ。仲良くなどと言っておいて、結局は眠気に負けてしまったらしい。  なんて美味しそうな、俺の番。  そうっと無防備なつむじをつつく。起きない。そこから首筋へと中指と人差し指を交互に行進させる。髪を掻き分け、項を撫でる。  俺のここ、噛んでくれないかなあ。  番に、なりたいなあ。 「何、くすぐったい」  笑いながら黒島さんが身体を起こした。  かっこいいなと、思う。キラキラ周囲が輝いて見える。 「黒島さんは、αなのにどうしてバイトなんてしてるんですか?」 「アルファ?」 「社会勉強のためですか?」 「はは、普通にお金稼ぎたくて、だけど」 「どうして、アルファなのに」 「さっきから何、アルファって」 「何って」  怪訝そうな黒島さんの目線に、ようやく我に返った。慌てて首を左右に振り、顔を背ける。俺の頭も相当眠気に負けているらしい。  今の世界で、αやΩについて話せば、とんだ妄想野郎扱いされるだろう。ぎゅうと拳を握り、「何でもないです」とだけ返した。  黒島さんに俺のフェロモンが少しでも効かないだろうか。無理だよな。俺はここでは、ただの『男』なんだから、そんなこと絶対にあり得ない。 「寝ぼけてる? びっくりした」  黒島さんは、俺が触れた項を撫でながら少し頬を赤く染め、そう笑っていた。 ***  誰か、僕を助けて下さい。  知らない男達、知らないα達に、発情期がくる度に貸し出された。その度に、気が狂うような毎日を過ごす羽目になった。  大抵、理性を取り戻し目を覚ますのは、ベッドの上だった。両親が雇っている業者によってすっかりきれいに身体は整えられている。けれど、痛みだけはじくじくと奥底に残っていた。  誰か、僕を助けて下さい。  僕の、『運命の番』が現れてくれますように。どうか、僕の項を噛んでくれますように。ここから連れ出してくれますように。  もう嫌だ。  助けて。  ***  ファミレスから帰って、すぐにまた発情した。玄関でズボンを下ろし、廊下に転がりひたすら前を扱く。  黒島さんの骨張った大きな手が、俺を動けないように拘束して、後ろから、項を、噛む。そんな妄想を繰り返す度、身体が熱くなった。 「は、はぁ」  息も出来ない程の、強烈な快感が何度も全身を貫く。  馬鹿みたいだ。 「はぁ、う」  ぼろぼろ涙を零しながら、自分を慰め続けた。 目を覚ましたのは、またしても夜だった。今何時だろう。身体が重い。廊下に転がっていたスマートフォンを這いながら手にする。ちょうど21時になろうかというところだった。 関節が痛い、喉が熱い。春とはいえ、まだ夜は冷える。そんな中で下半身丸出しにして気を失っていたのだから、風邪くらい引いて当たり前か。 自分の馬鹿さ加減に思わず笑ってしまう。無性に喉が渇いていた。熱いシャワーで身体を清め、部屋を出た。 「井川くん、風邪?」  コンビニには、またしても黒島さんがいた。水と解熱剤を見て驚いたように顔を上げる。 「まさかあれから何も食べてないわけじゃないよね? 何か食べ物家にある?」  心配してくれているのだろうか。優しい。嬉しい。  昔の『僕』にはそんな人いなかったなあ。体調を崩せば冷たい目を向けられ、大きな溜息を吐かれていた。それが申し訳なくて、悲しくて、早く体調を治して稼がないと捨てられるって。 「井川くん?」  手が滑り小銭がカウンターで大きく跳ねる。その音が妙に大きく聞こえた。落ちる前にと慌てて掌でそれを抑える。その俺の手首を、黒島さんが握った。   「店長、今、客空いてるんで、ちょっと抜けていいですか」  黒島さんが俺に触れている。頭が沸騰しそうだ。逃れようと手を動かすもビクともしない。  「あれ、井川くんじゃないか、――?」、「体調が悪いみたいで、――」、「わかった、いいよ、行きなさい」、「ありがとうございます」、視界の端で店長と黒島さんが何事か話している。  そんなことはどうでもいい。いいから、早く手を離して。  そうでないと、また。 「熱いね、熱は測った? 井川くん?」    顔を覗き込まれて、黒島さんの息が俺の頬に触れた。それだけだ。それだけのことなのに堪らなくなった。  頭、ぐらぐらする。   「歩ける?」 「へ、平気です。大丈夫、ですから。俺、1人で」 「待ってて」  手が離れた。そのことに安堵して、出口へと向かう。何をしにコンビニに来たんだっけ。ああそうだ、解熱剤と水、カウンターに置き忘れてしまった。まあいいか。明日、学校、朝からあるから、それまでに治さないと、寝てれば、きっと。 「待ってってば!」  また、手首を捕まえられた。  黒島さんが、珍しく焦った顔をしている。 「離して下さい。もうすぐそこなんで、大丈夫です」 「そんなふらふらで何が大丈夫なの? せめて薬ぐらい飲んで、あと何か食べて」 「大丈夫だから、いいから、離して」 「離さないよ」  強い口調で言われて、頭が痺れたように動かなくなる。  夜なのに、黒島さんの目、光っているみたいに見える。怒らせた? 黒島さんは、俺の手を引いて歩き始めた。怖い。  「どこ」と聞かれる度に、素直に答える。これ以上、黒島さん(アルファ)の機嫌を損ねたくない。  酷く、されたくない。 「こ、ここです」 「入るよ」  俺に拒否権があるわけがない。1Kの狭い室内には、敷きっぱなしになっていた布団と、折りたたみのローテーブルがあるきりだ。あとはまだ片付けきれず、数個の段ボールが隅に詰まれている。  「冷蔵庫は」と聞かれて首を振る。溜息が降ってきた。 「ご、ごめんな、さ」 「とりあえず、寝て」 「はい」  言われるがままに、布団の上に正座をする。黒島さんは、キッチンの方に歩いて行った。心臓が痛いくらいに打っている。  黒島さん、俺を抱いてくれるつもりなんだろうか。痛くされないといい。項を噛んでくれたらいいな。そうしたら、『僕』は、他のα達を煽るようなフェロモンは出せなくなる。そうしたら、もうあんなことをしなくてもいいんだ。  ようやく僕は、助けられるんだ。 「井川くん? 寝ていいんだぞ? ほら水と薬」  薬? 抑制剤? こんなに身体が火照っているのに、無理矢理静めろってことか。黒島さんが、すぐ傍にいるのに、やっぱり、抱いてはくれないんだろうか。   「い、いりません」 「自分で買った薬だろう? どうしたんだ?」 「いらない!」  この『運命』を逃したくない。もうこの人を逃したら、僕は、また、痛くて冷たくてそんな日々に戻るんだ。  殴られてもいい。その覚悟で、僕は黒島さんに唇を寄せた。無理矢理舌を押し込み、中を探る。 「抱いてくれないの? 僕に、その魅力はない? お願いだから何か感じてよ」 「い、井川く、っ」  拒否の言葉なんて聞きたくない。僕に欲情して欲しい。抱いて欲しい。必死だった。 「井川!」  両肩を掴まれ引き離される。険しい顔をした黒島さんに、いよいよ涙腺が決壊した。ぼろぼろと涙が落ちる。  やっぱり、Ωとして不完全な僕じゃあ、魅力はないんだ。  そもそも、黒島さんにはαとしての自覚がない。黒島さんにとって僕はただの男で、つい一昨日会ったばかりの歳の近いバイト仲間で。  考えていく内に、段々と頭が冷えてきた。  『俺』は、なんてことを。  顔が上げられない。終わった。完全に終わった。そもそも始まっていたのは俺だけで、黒島さんは何一つ始まってなどいなかったのだけど、それももう絶対に始まらない。気持ち悪い思いをさせてしまっただけだ。  終わった。  俺が、終わらせてしまった。  泣いている。  俺の中の、あの頃の『僕』が大声で泣いている。  ごめん。ごめん。ごめん。『運命』を捕まえられなかった。

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