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第3話
「ごめん、なさい」
「井川くん」
「ごめ」
俺、本当に要領悪い。どうしてもっとうまくできなかったんだろう。『僕』にも、黒島さんにも申し訳ない。
胸が苦しい。痛い。嗚咽がこみ上げてきて、うまく息が吸えない。嫌だ。このまま、黒島さんを諦めたくない。
(諦めたらだめだ)
けど、もう踏み出せない。そんな勇気はない。はじめから無理だったんだ。黒島さんと俺とじゃあ、あまりに違いすぎる。
「ごめ、んなさい。すいません、忘れて下さい。俺、少し混乱していて、バイトも辞めます。もう近づきません。今日はありがとうございました。心配、してくれたのに、気持ち悪い真似して、本当にごめんなさい」
床に額をつける。熱が上がってきているのか、冷たい感触が心地よかった。ぽたぽた涙の粒が落ちる。
ごめん、助けてあげられなくてごめん。
番、せっかく見つけたのに、俺なんかに生まれてごめん。
「井川、くん、は、ああと、ごめん、驚いて。その、突然、だったから。とりあえず、顔を上げて。ほら」
促され、身体を起こす。それでも、怖くて目は合わせることができなかった。ズズと鼻を啜り、拭っても拭ってもこみ上げてくる涙をまた拭う。
「混乱、してただけなんだよね? ほら、薬。解熱剤。飲んで」
「――はい」
渡された薬を素直に受け取り、口に運ぶ。黒島さんがホッと胸を撫で下ろすのが見えた。困らせているんだなとわかる。
「大丈夫。熱が下がったら、井川くんも忘れてるよ。俺も忘れるから。バイト、辞めることはないよ」
「はい」
頷きながら、着々と頭の中では、辞めてからのことを考えていた。次のバイトはどうしよう。できるだけ家から近い場所でまた捜そう。店長にも迷惑かけてしまう。次が見つかるまでは、黒島さんとシフトを一緒にならないようにしてもらおう。給料は減るだろうけど仕方がない。
仕方がないんだ。
(本当に、それでいいの?)
膝の上で拳を握りしめる。息を大きく吸った。
「混乱、してたわけじゃありません」
顔を上げる。黒島さんの眉間には、皺が寄っていた。似合わない険しい表情、俺がさせてるんだ。
(頑張れ)
もう少しだけ、もう少しだけ、頑張りたい。
「黒島さんのことが、好きです。だから、あんな真似したんです」
(頑張れ、頑張っていいはずなんだ。だって、ここは)
***
『僕』が目を覚ました井川恵 は、ひどく優しい青年だった。そして、とても臆病だった。
僕の存在のせいで、家族とうまくいかなかったことが大きいのかもしれない。いや、そもそも僕が彼の中で存在している時点で、無意識に人とは違うという劣等感を抱えていた。
それゆえに、彼は人と接することが苦手で、これまでも深く関わることはしてこなかった。
『寒い? これ着てなよ』
そんな彼が、初めて恋をしたのが、黒島だった。
強制行事だと無理矢理参加させられた、どこのともわからないサークルでの歓迎会でのことだった。
わけもわからず摂ったアルコールと、慣れない騒がしさに気分不良となった彼は、店の外に出た。壁にもたれ、深く呼吸を繰り返しながら、初めての吐き気をどうしたらよいかわからず、堪えていた。
そこに、黒島が現れた。
恵は、彼が自分の上着を脱いで差し出してくれていることに驚いた。性格も明るく外見も整っている黒島は、新入生達の中心に入って場を盛り上げていたはずだった。
それを、すごいなあと眺めていたからだ。
自分に、気づいているとは思っていなかった。
かけられた上着は、カーキ色をした薄手のカーディガンだった。まだ体温が残っているそれは、とても暖かかった。
「きつかったら帰る? タクシー呼ぶよ」
先輩としての責任感だろうとは思った。けれどもそれが、自分も同じ新入生として気に掛けてくれていたことが、信じられないくらいに嬉しかった。
たったそれだけのことで、井川恵は初めての恋をした。
翌日、学校内で彼を見かけたが、声をかけることができなかった。胸には借りたカーディガンを抱いていたが、渡せなかった。
黒島はいつでも人の輪の中にいた。サークルの新入部員、同学年の友達、彼女だろうか、きれいな女性が傍にいることもあった。
カーディガンを返さなければ行けない。
けど、自分はあの輪から弾かれた人間だ。
そう悲観しながらも、恵は初めて美容室に行った。外見だけでも、輪の中に入れるような人並みに整えたかった。服も新調した。けれど、自信は持てなかった。
それどころか、慣れないことをしたせいだろう、体調を崩し、思考回路はぐずぐずになり、授業を受けるのが精一杯という有様になってしまった。
毎日鞄に入れ持っているーディガンが、重かった。
僕は、彼を応援したかった。
しかし、彼は本当に優しく、臆病だった。
バイト先で黒島に再会をしたとき、思わず逃げ出した彼と、逃げる彼を引き留めようとした僕とが一瞬、入れ替わってしまった。
彼は、前世の『僕』のことを全て思い出してしまった。
そして、黒島への感情を、『僕』の本能だと間違えてしまった。
けれど、自分のためより『僕』のためと考えた方が、恵にとっては動きやすかったらしい。言葉数も増え、彼へ接近しようと必死なようだった。
僕は、恵を助けたかった。
ここは、『第2の性』なんて存在しない世界だ。Ωということに縛られず、もっと自由に恋だってしていいはずなんだ。
頑張れ。
頑張れ。
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