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第4話

(頑張れ)  突然、開け放されていた窓から、強い風が吹き込んできた。対面する壁際に吊してあった服が、パタパタと揺れる。  『あの日』以来、一回も袖を通していない。くすんだ緑色のカーディガンだ。  あの日、あの日っていつのことだろう。俺と、黒島さんは、バイト先で出会ったのが初めてのはずだ。  頭が痛い。  黒島さんは、『僕』の運命の番(つがい)で、俺は、黒島さんを。黒島さんが、俺なんかを、好きに、なってくれる、はず、ないって。 「あれ」  物音に、黒島さんが振り返った。  視線の先、覚えがあるであろうそれに、思わずといった様子で声を漏らす。やがて、「やっぱり」と、聞こえてきた。 「あ、ず、ずっと、返せなくてごめんなさい。ずっと、持っていてごめんなさい」  頭の中がごちゃごちゃだ。『僕』と『俺』の記憶と想いがこんがらがっている。とにもかくにも、黒島さん――先輩の立場になって考えれば、謝るしかない。 男のストーカーなんて最悪だ。  ちょっと声をかけただけなのに舞い上がられて、返さないといけないのに自分の私物を大事に保管されて、バイト先も同じだなんて、その上、キスまでされて、告白されて。  どんどん血の気が引いていくのがわかる。冷静に考えれば考える程、自分のやったことの大きさに打ちのめされる。  嫌われた。  嫌われたに決まっている。 「弁償、します。あの、本当に、もう近づきません。ごめ、ごめんなさい」  握りしめた拳が震える。  恋なんて自分には無縁のことだと思っていた。だから、初めて人を好きになれて、舞い上がってしまっていたんだ。勝手なことだとわかっている。  けれど、それを、先輩への思いを、否定されたくない。  「も、平気です。大丈夫です。ありがとうございました」  黒島さんは、まだ、カーディガンを見つめたまま、動こうとしない。こんな真似をして、信じられない、気持ち悪い、そう思っているんだろう。  布団を掻き抱き、沈黙に堪える。  黒島さんは、ゆっくり、俺の方に向き直った。 「好きって、本当に? 俺のことを?」  視線を床に落とす。息が苦しい。ぐるぐる、世界が回っている。吐きそうだ。  違うって言えば、黒島さんはホッとしてくれるんだろうか。 (頑張れ)  けど、それもしたくない。 「ごめん、なさい」  謝りながらも、頷いた。  黒島さんは何も言わなかった。パタパタ、パタパタ、視界の端で、カーディガンが踊っている。滑稽だ。  運命、何が運命。俺が勝手に感じた運命だ。 「わかった」  立ち上がった黒島さんに、身体が竦む。自分にかかる影が怖い。それは離れたかと思うと近づいてきた。  咄嗟に痛みの記憶が蘇り、目を閉じる。   「とりあえず、寝よう。早く回復しなさい」  暖かい。肩にかけられたのは、あのカーディガンだった。どうして。俺が持っていて不快じゃないんだろうか。  呆然としていると、横に倒された。ポスと、枕の上に頭が乗る。布団がかけられ、その上から軽く撫でられた。  熱で混乱していると思われているんだろうか、寝て、忘れろ、なかったことにしろってことだろうか。  じわじわ、また涙腺が緩んでくる。   「また」  額に手が触れた。冷たい大きな掌だ。黒島さんから触ってくれた。 「また明日、学校で。ただ、無理はしないこと」  疑問符が一気にたくさん現れる。  また、またってどういうことだろう。また、会えることがあるんだろうか。 「カーディガン、明日持ってきて、直接俺に渡して」  黒島さんの気配が消える。恐る恐る目を開けると、ちょうど、玄関のドアが閉まるところだった。  そのドアに、一枚のメモが貼り付けられ、揺れている。布団を引きずりながらそこまで歩く。 『昼休憩中に、売店横のベンチで待ってます。何か必要があれば、連絡すること』  そう書かれた下に、黒島さんのものであろうメールアドレスと電話番号が載っていた。腰が抜けた。幸いにも布団がクッションとなり痛くはなかった。    *** 「本当にいたんだ。井川恵くん」  それはこっちの台詞だ。本当にいた。昼間の明るい陽の下で見る黒島さんは、なんだか新鮮だった。  抱えていた紙袋を差し出す。 「熱下がった?」 「……おかげさまで。ご迷惑、おかけしました」 「いえいえ」  早く受け取ってくれないだろうか。  黒島さんはにこにこと笑んだまま、なかなか立ち上がろうとも手を出そうとしてくれない。 「あの後、店に戻って、店長に伝えておいたんだよね。『井川くんからシフト変更や辞めるっていう電話があったら、教えて下さい』って」  大きな目が細められる。どうしてだろう。笑っているはずなのに、なんだか怖い気がする。思わず、後退った。 「嘘つきだね。辞めないでって言ったのに」 「ひっ」  そんな俺を引き留めるように手が伸びてきた。ようやく受け取ってくれるのかと思いきや、黒島さんの手は俺の手首を掴んだだけだった。そして、顔をしかめる。 「熱いね。まだ体調も悪いでしょ。無理せず、メールくれればよかったのに」 「く、黒島さん。離して」 「離さない。ね、また消えるつもりだったんでしょう」  熱のせいだけじゃない、黒島さんに触れられている場所から、どんどん熱くなっていく。いくら黒島さんが優しいからといって、こんなところで、あんなふうになってしまったら、いよいよ気持ち悪い奴決定だ。 「――まだ、そういうふうには考えられないけど、別にキスも嫌じゃなかったし。俺にだけ懐いてくる井川くんのことは可愛いって思っていたよ。だから、」  黒島さんが目の前にいる。黒島さんが何か喋っている。黒島さんが。 「だから、もしよかったら、付き合ってみる?」  黒島さんが。  今、なんて言った?  END (ありがとう、恵)

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