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6:解雇

「なんですか。これでも急いでいるので、端的に用件を話してくれますか?」  桔梗は行く手を遮る憮然とした織田真紀に言い放つ。  玲司に不埒な事をされてシャワーを浴びるという時間を経たせいで、空腹に拍車が掛かっていたのだ。  今の桔梗の頭には、玲司が作ってくれる美味しい牡丹鍋とクリームブリュレが殆どを占めている。さっさと話を終えて、玲司の元に戻りたい。 「じゃあ、端的に言うわ。あなた、玲司さんと別れなさいよ」  ふん、と鼻息荒く告げた真紀の言いように、桔梗は何とも言えない微妙な眼差しをしていた。  桔梗と玲司の最初は意思疎通のない所から始まった関係だ。それでも一緒に住むようになって彼の色々な部分を知っていくにつれ、番だから、ではなく、この人と一生を共にしたい、と切望するようになっていたのである。  お互いに想いを告げ、ちゃんと納得した上で、弁護士を通して婚姻届を提出したのだ。  あれだけ素敵な人なのだから、元カノの一人や二人や三人や四人……それ以上居てもおかしくはないが、玲司は結局桔梗を選んでくれた。その事実だけあれば、何とか頑張れると思ったのだが…… (まあ、それはそれとして、やっぱりヘコむはヘコむよなぁ。別に浮気しているって訳じゃないんだけど、過去の女の影が目の前に現れるのは……うん)  さっきから言葉は違うものの、結局は「玲司さんと別れろ」と叫んでいる真紀に辟易した桔梗は、ふうう、と長嘆したのち、口を開く。 「別れるつもりはありません。俺はれっきとした寒川玲司の番なんですから」 「はぁ? それはあなたが私から玲司さんをオメガのフェロモンで誘惑して奪ったんじゃない。これだから淫乱オメガは」 「それ、差別発言になりますよ。あなた、病院で管理栄養士されているんでしょ? それならオメガの苦悩なども理解されているんじゃないんですか?」  アルファよりも、フェロモンに殆ど左右されないベータは、昔からオメガに対して辛辣だった。アルファには傅き、オメガには唾を吐く。世界の半数以上をベータが生きているこの世は、どうしてもバースでヒエラルキーを作りがちだ。  それでも、アルファ名家にもオメガは生まれる事もあるし、ベータにもオメガにもそれぞれ名家が存在する。それは各バースでヒエラルキーを作る事により、上層部では対等であるように、と彼らは努力をしてきたからだ。  しかし、一般のアルファもベータもオメガというだけで淫乱だの娼婦だのと揶揄する。それがどれだけバースに囚われているかも自覚せずに。 「もし、あなたが玲司さんと恋人だったとして、一度三人で話し合うべきでは? ここで俺にだけ糾弾するのは、お門違いでは」 「ふざけないで!」  緩やかに巻かれた長い髪は、さっきから首を激しく振ってるせいでボサボサに乱れ、さながら鬼のようだ。 「……ですから、あなたが玲司さんと恋人同士で、結婚の約束をしていたとは、彼から聞いていません。もし、本当だったら、玲司さんはきっと俺を番にしなかっただろうし、ちゃんと話してくれてました。でも、彼は俺にそんな事一言も言っていません。つまりは、あなたの妄言という可能性もある。だったら、ちゃんと玲司さんに確認したいから、一緒に行きましょうと言っただけですが?」 「あなた、私の話を聞いてたの!? 玲司さんと私は寒川に認められた恋人だったのよ! それをあなたが発情(ヒート)で誘惑して、無理やり番契約したんじゃないの!」 「埓が明きませんね。俺は名実ともに寒川玲司の番になっているんです。それは法的にも認められ、戸籍も弁護士さん立ち会いで取得しています。分かってますか? 法的に認められたものは、あなたの言葉ひとつで変えられるものではないんですよ」 「うるさいっ、うるさい! うるさい!!」  思っていた以上に煽りすぎたと気づいた時には、真紀の腕が上へと振り上げられ、綺麗に磨かれた爪が刃のようにヒラリと空を舞う。  桔梗はこれから来るであろう衝撃に歯を食いしばり耐える姿勢をしたものの、その前に来て欲しくて、来て欲しくなかった人物の硬質な声が廊下に響き渡った。 「何をしている!」  鋭い声に真紀だけでなく桔梗も凍りつく。番の玲司から今まで見たことのない威嚇フェロモンが全身から溢れ出ていたからだ。  薔子が歓迎の意で放出したものよりも更に濃密な玲司のフェロモンは、ベータである真紀には効果的だったが、それ以上にオメガの桔梗に影響を及ぼしている。  心臓が鷲掴みされるような圧迫感に、呼吸すらできず、崩れるように膝をつく。  怒りで我を忘れた玲司には、最愛の番がフェロモンに充てられている事にすら目に入らず、真っ直ぐに真紀だけを視線で射抜いている。 「れ……じ……さ」  辛くて苦しいと桔梗は玲司に手を伸ばそうとするも、見えない力で押さえつけられ、手も足も床に縫い付けられたように動かない。鼓動はこれ以上ない位にドクドクと速く流れ、息も吸うも吐くもできずに、はくはくと動くばかり。  普通ならばすぐにでも意識をなくしてもおかしくない筈の中でも、桔梗は玲司に対する思いだけでかろうじて保っていたのだった。 「こら、馬鹿息子! 番を殺すなの!?」  と、圧縮された空気を壊したのは、鞭のようなしなやかな声。 「……しょうこ、さん」  ビクンと全身をわななかせた玲司は、その声に意識が戻ったのか、あれだけ濃密で凝縮された空気が一気に霧散する。同時に底をついた酸素を求めるように、口を大きく開けて肺へと取り込む。ひゅ、と喉が鳴り、肺がなんだか痛い。  桔梗は四つん這いになって玲司に手を伸ばすけども、彼は義母を呆然と見ているせいで気づいてくれない。 (玲司さん。苦しい……助けて、玲司さん) 「れ……じ、さ……ゴホッ」 「っ、桔梗君っ!」  掬い上げるように抱きしめられ、桔梗は玲司の胸の中でホッと息をつく。  この腕の中なら大丈夫。もう不安にならなくてもいい。 「れいじさんの……ばか」 「すみません……」 「おれ……呼んでたのに……たすけて、ってずっとさけんでたのに」 「すみ……ごめん、桔梗」 「もっと、ぎゅってして……?」  吐息のような桔梗の懇願に、玲司はきつく抱き締める。何度も「ごめん」と呟く声が聞こえる中。 「離れなさいよ! なんで、あんたが玲司さんに抱かれてるのよ!」  狂ったような叫び声が二人の空気を切り裂いた。 「ねえ、玲司さん! 私、あなたの恋人よね!? だって、言ってくれたでしょ、私が大人になったら結婚しようね、って」  化粧は剥がれ、落ちたマスカラが頬を汚しても、真紀はまだ叫び続ける。 「……あんた、そんな事言ったの? 玲司」 「言うわけないでしょ。好みじゃない女性に、どうして言い寄るんですか」 「そうよねぇ。香織さんからもそんな話聞いたことないし」  泥のように疲れ果てた桔梗は、玲司の腕の中に包まれたまま、真紀の主張を聞いている。初めて見た時には怖い人だと思っていたし、今もその印象はあまり変わらない。  だけど、彼女が本当に玲司を好きなのだと分かる。  でも、玲司を譲る気はない。玲司は自分を救ってくれた大切な人なのだから。  桔梗は玲司の胸にぎゅっとすがり付く。  玲司は桔梗が怯えているのだと気づくと、額に唇を落とし、「大丈夫ですからね」と甘く囁いたのだった。 「さて、どうしましょうね、薔子さん。これ以上この女をここに置いておいたら、何を仕出かすか分からないんですけど」  玲司が振り仰いだ先に立っている薔子へと沙汰の指示を仰ぐ。この別邸の主が薔子というのもあるのだろう。 「んー、ぶっちゃけると、今夜の準備で猫の手を借りたい程慌ただしいのよね」 「っ、だったら!」 「でも、あなた出入り禁止。うちの息子の嫁を傷つけるような子、長年勤めてくれてる香織さんの子供だとしても、これ以上置いておけないわ。それから、妄言はおやめなさい。うちの子達は、寒川の血を引いてるから、これまでの交際した相手は全て把握してるの。その中にあなたはいなかった。だからあなたが嘘をついてる」  これ以上その顔を私に見せないでちょうだな、とつっけんどんに言い放ち、まるで犬を追い払うように手を振ってみせた。  真紀は一気に熱が冷めたように立ち上がり、白い顔のままふらふらと三人の前から立ち去って行った。その背中は幽鬼のようで、桔梗は消えゆく彼女を震えながら見送っていた。  しん、と再び静寂が戻ると、 「ところで薔子さんはなぜここに?」  相変わらず桔梗を抱いたまま玲司が問う。 「だぁって、お腹空いたのに、いつまで経っても二人共戻ってこないんだもの。いちゃいちゃしてる所を邪魔するのもなーって我慢したんだけど、凛が蜜柑全部食べきっちゃって、余計にお腹空いちゃってね。それで催促に行く途中で、この騒動を見かけたって訳よ」  二人はそっと顔を見合わせ無言になる。  確かにいちゃいちゃしていたからだ。  桔梗は、一人きりにならないと決意していながらも、玲司とくっついているのが嬉しくて、その事をすっかり忘れてしまった。  結果、おおごとになってしまい、初めて訪れた場所で何をやっているんだろうと、穴があったら入りたい程だった。 「ま、とりあえずお昼にしましょう? もうお腹空いちゃって、暴れちゃう所だったわ」 「空腹くらいで暴れないでくださいよ。それよりも、香織さんには何て話すんですか?」 「勿論、事実を伝えるわよ。あの人が娘を庇うようだったら、長年勤めてくれたから残念だけども、解雇するしかないわね」 「え?」  真紀は行動が行動だけに致し方ない部分はあるが、母親の香織までとは過剰すぎやしないだろうか、と桔梗は遮るように声をあげた。 「桔梗君、あなたが優しいのは、僕も分かってます。ですが、寒川の家で騒ぎを起こした責任は、連れてきた香織さんにもあるんですよ。今回許したら前例ができて次もってなってしまいますから、薔子さんもその辺りは厳しく采配するかと」 「そんな……」  真紀を窘めてくれた香織まで巻き添えにしてしまった事に、桔梗の胸が痛む。  これが香月のアルファのままだったら、玲司達の言葉にうなずけたかもしれないが、排除される寂しさを知っている身としては、苦しいだけだ。 「でも、まあ。今夜パーティあるし、うちの家政の中心になってるのも香織さんだからね。ひとまずはパーティが終わるまでは保留で。それでいいわね、玲司」  桔梗はようやく力が入るようになった膝を駆使し、玲司に支えながら立ち上がる。 「僕は多分二度と来ないですからね。そこは薔子さんにお任せしますよ」 「じゃあ、遅くなったけどお鍋を食べましょう! 桔梗君、牡丹肉美味しいわよー」  ひときわ明るく笑う薔子の態度に、自分を気遣ってるのだと気づき、強ばりながらも笑みを浮かべたのだった。

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