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5:子供
冷蔵庫に保管されていた猪肉は、締めてすぐに血抜きをしたのか、獣独特の臭気はほとんど感じず、これなら生姜を足さなくてもいいな、と思いながら、玲司は鍋の中を覗き込む。
中には赤味噌とわずかな白味噌、日本酒多めにみりんちょっと、すりおろした生姜は臭み消し程度にして、後はザラメを入れた。
一般的なものより水分を少なめにしているのは、鍋に入れる白菜もネギも春菊もどれもが瑞々しく、味噌の塩分の浸透圧で十分に水分が出てくるのを見越したからだ。
あとザラメを入れて甘めにしているのは、最愛の番である桔梗がくたくたの白菜や春菊が好きなのもあり、いつもつゆは濃い目、白菜多めにしているのだ。
「あ、これだけ甘めにしておけば、味噌すきにもできそうですね」
ふと思い立ち調理台の上にある籐籠を覗けば、そこには産みたての薄茶の殻をまとった卵が積まれている。これだけあれば、クリームブリュレの他にすき焼きのつけ卵としても使えるだろう。
朝食に新鮮卵の半熟目玉焼きを出すと、明らかに反応が違うのを知っている。
ふわふわでもこもこな感触が好きで、半ば巣になりつつある寝室は、毛足が長くて踏み心地の良いラグが敷かれ、ベッドのファブリックもふんわりと柔らかなコットン素材が増えつつある。
食事も口当たりがよく、滑らかなものが好きで、辛すぎるアジア系の食べ物が苦手。
以前も桔梗の兄の|朔音《さくら》と寒川の専属医師である藤田の番、|花楓《かえで》と一緒にホテルのアフタヌーンティーに出かけたりしていたのを知っている。
──本人は玲司が知ってるのを全く感知していないが。
そこでも甘く柔らかいレアチーズケーキを好んで食べてたし、スコーンも苺コンポートをたっぷりと乗せ、更にクロテッドクリームを山盛りにしていた程だ。
出会った当初からは想像できない位の甘党だったと知ったのも、玲司には嬉しい事の一つだったりする。
玲司は丁寧な処理をして切った野菜や肉、焼き豆腐等を大皿に乗せ、甘い匂いを漂わせているガスオーブンへと視線を移す。
「良かったですね、総一朗兄さん。牛乳も卵もしっかり冷蔵庫にあって」
牛乳は近くの農場から買ったらしい、乳脂肪たっぷりの無調整牛乳があったのでそれを使ってクリームブリュレを蒸し焼きしている最中なのだ。
スーパー等で売ってるものとは違い、こってりとしたクリームが沈殿する程、乳脂肪が多く、これを濃い目に淹れた紅茶に入れれば、贅沢なミルクティになる。
「そろそろブリュレも焼きあがるし、風呂上がりの桔梗君が湯冷めしないよう、ジンジャーミルクティを淹れておいたほうがいいですね」
そうと決まれば、やかんに空気を含めた水を入れてガスに掛けてる間、棚からミントグリーンの缶が有名なイギリス王室御用達ブランドの紅茶を取り出す。
他にもフランス老舗紅茶ブランドのものや、マカロンで有名なブランドが出している有名な王妃の名がついた紅茶などもあって、年に数回しか来ない別邸によくもまあこれ程の紅茶を集めたものだと感心しかない。
義母の薔子が紅茶党で、有名ブランドからフレーバーティで有名なものまで様々取り揃えている。
『La maison』でも紅茶は取り扱っているものの、ここまでの品揃えではなく、一般的な茶葉しか扱っていない。
基本は珈琲とアルコールがメインのカフェバーだからだ。
桔梗と同棲するようになってからは、元々育ちが良く、更に家を出てからは、多い生活費の殆どを将来の為にと貯金をし、清貧生活を送っていたそうだが、自炊はどう頑張っても駄目だったそうで、その部分のエンゲル係数は高かったと、婚姻後の生活費についての話し合いでポツリと話された。
結局、婚姻前の生活費についても、そもそもの起因が玲司にあった為、全面的にこちらが負担すると総一朗から提案されたのもあるし、婚姻後はアルファの夫が番に負担をさせるなんて愚の骨頂と言って、これまで頑張って貯蓄したお金は、将来子供が生まれた時や、何か習得したい事ができた時にでも使えばいい、と説得したのだった。
『こっ、子供……ですか』
『子供、お嫌いですか?』
『いえっ、大好きですっ。ただ……』
『ただ?』
『俺と玲司さんの子供というのが……恥ずかしくて……』
顔を真っ赤にして、手で顔を覆う番が可愛くて、その日の夜はたっぷり愛したのを思い出し、先程の艶やかな姿と重なり、玲司の頬にも朱が走る。
あれで発情 してないというのだから、対応に本当困ると、玲司は番の可愛さに苦悶する。総一朗や藤田からも、ここまで溺愛するとは思わなかった、と揶揄されるが、あんなにも愛らしいのだから仕方がない。
桔梗と出会うまで、色んなバースの女性やオメガと付き合いがあったものの、セックスはかなり淡白だった筈なのに、桔梗と出会ってからというもの、箍が外れたように頻繁に彼の体を貪っているとは。
これが運命の番──かもしれない相手との強制力なのか、と驚くばかりだ。
とはいえ、まだ桔梗の体は万全ではないし、まだ将来のある彼に子育てに専念させるのはしのびなく、性交時は避妊を必ずしている。
発情 の時は、流石に番の精液を直に注がないと、熱が収まらない為に生でやってはいるが、それも事後には避妊薬──寒川製薬が開発した新型の副作用の少ないものを飲ませていた。
男性オメガは女性の出産年齢よりも高齢出産が可能らしい。
通常、女性体は経膣出産が殆どだが、男性オメガは産道が骨盤が広がらない直腸側にある為、出産に耐え切れない事もあり、ほぼ全てが帝王切開での出産となるのだ。
故にお産の体力をあまり必要としない男性オメガの出産年齢は、女性よりも十歳程差がある。最近では海外で七十歳近くの男性オメガが帝王出産で子供を授かったそうだ。
「子供ねぇ……」
ふと、自分が漏らしたにも拘らず、絶対零度の声音に玲司の背筋がゾクリとした。
桔梗との子供なら何人でも欲しいし、今すぐにでも何もかもを放り出して部屋に閉じこもって子作りしたっていい。最愛の番との間に産まれた子なら、絶対に可愛いだろうし、バースが何であっても桔梗の次に大事にするとも思える。
(しかし……)
果たして現実になった時に、本当に思っていたように子供を慈しんで育てる事ができるのかどうか、甚だ疑問だと嘆息する。
玲司は幼児虐待 された子供だった。
母は母なりに玲司を愛し、育てたと思うものの、自ら親友の家庭を壊すからと番契約したのに離れたのは母の勝手だ。そして体も心も壊れ、まともに子育てもできないまま死んでいった女。
薔子に保護された時の玲司は、五歳児というのに体は骨と皮で、まともな生活能力もない子供がお風呂や食事に頭がいく筈もなく、頭は伸び放題、皮脂とホコリで絡みつき、皮膚も垢でゴワゴワと浅黒く、その姿はさながら餓鬼のようだったと、病院の噂話で耳にした。
当然、教育も受けていない為、知能指数も低く、病院に家庭教師が出向いてくれなければ、下手すれば障害児として扱われていた可能性もある。
愛という幻想に惑わされた女の子供。薔子の一言で寒川の養子になってからも、色々と陰では散々玲司に対して言われた。
その玲司が桔梗と子供を成した時に、本当に自分は子供を愛せるのか。
まともな教育を施してあげる事ができるのか。
桔梗といつかは話し合わなくてはならないだろうが、どうしても二の足を踏んでしまっていた。
(まだ。もう少し……桔梗君の体が元気になってからでも……)
揺れ惑う玲司を揶揄うように、オーブンのタイマーが軽やかな音を奏でていた。
熱く湯気の立つブリュレの粗熱を取りながら、桔梗の為のジンジャーミルクティを淹れたものの、まだ戻ってくる様子がない。
「浴室の機器に手間取っているのでしょうか」
呟いてみるものの、特段面倒な手順が必要ないものばかりで、コックを捻れば普通にお湯が出てくる仕様だ。猫脚バスタブはお湯が溢れて困る等の不安があるかもしれないが、それでも床もタイル張りで排水口もあるし、それについても問題はない。
「……もしかして」
脳裏をよぎったのは、別邸の管理をしている織田香織の娘、真紀の姿だった。
桔梗を見た時からあからさまに敵意を見せ、更に暴言まで吐いたベータの女は、過去に何度も玲司へとアプローチをしては振られていた。
にも拘らず、とうとう大学を出て寒川が経営する総合病院に栄養管理士として働いていたとは。全く玲司には関係ない場所で働いているのを誇示していたが、あれもアプローチの一環だったのだろうか。
別に真紀がどこで働こうが問題はないのだが、場所が寒川総合病院というだけで、色々問題があった。
と、いうのも、以前桔梗に逆恨みしたアルファの女を、総合病院の一角にある特別精神病棟へと押し込んだのである。
二十四時間監視カメラで監視され、病棟から出るにも暗証番号入力とカードキーがなければ意味がない、セキュリティの高いものではあったが、もし、真紀が女と接触しないとも限らないのだ。
管理栄養士は、入院している患者全ての栄養面を管理している。
つまりは、アルファの女と真紀が接触している可能性もある。
戻ってこない桔梗。
敵意を隠さない真紀。
「まさか」
居てもたってもいられず、玲司はキッチンを飛び出していた。
桔梗の元へと向かっていると、廊下から「ふざけないで!」と若い女の叫び声が反響して玲司の耳に届く。
「……ですから、あなたが玲司さんと恋人同士で、結婚の約束をしていたとは、彼から聞いていません。もし、本当だったら、玲司さんはきっと俺を番にしなかっただろうし、ちゃんと話してくれてました。でも、彼は俺にそんな事一言も言っていません。つまりは、あなたの妄言という可能性もある。だったら、ちゃんと玲司さんに確認したいから、一緒に行きましょうと言っただけですが?」
「あなた、私の話を聞いてたの!? 玲司さんと私は寒川に認められた恋人だったのよ! それをあなたが発情 で誘惑して、無理やり番契約したんじゃないの!」
「埓が明きませんね。俺は名実ともに寒川玲司の番になっているんです。それは法的にも認められ、戸籍も弁護士さん立ち会いで取得しています。分かってますか? 法的に認められたものは、あなたの言葉ひとつで変えられるものではないんですよ」
「うるさいっ、うるさい! うるさい!!」
淡々と話す桔梗は、いつもと違い厳しい顔をしていて、内容はあまりにも理路整然としているものだから、感情的な真紀の神経を逆撫でしたのか、大きく振りかぶった右手が桔梗へと向けられようとしていた。
「何をしている!」
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