5 / 23
4:抱擁
ピタリ、と形容するに相応しく、桔梗が扉を開いた途端に、キッチンの空気が凍りつく。
桔梗は目だけをサッと流して室内を走らせる。
十二畳程の広さだろうか、一般的なキッチンにしては多少広いものの、古臭さを感じない。きっと移築の際に不便がないよう、近代的なものにリフォームしたのだろう。
三ツ口コンロが二台、『La maison』にある冷蔵庫は業務用と聞いていたが、このキッチンにも似た大きさのものがあり、中央にある調理台の銀色と共にドンと存在感を主張している。
とはいえ、壁と家具のベージュが銀の無機質さを相殺し、鍋から立つ湯気が優しく室内を温め、とても居心地が良さそうなキッチンとも言えた。
「織田さん、こちらで玲司さんが昼食の準備をするそうなんですが、お邪魔ではありませんか?」
「え……ぁ……」
ニコリと営業時代に培った人好きする笑みを見せて、織田母へと尋ねるも、彼女はマズイ会話を聞かれたと顔を青ざめている。娘の方は桔梗をギロっと睨んでいる辺り肝が据わっているようだ。
真紀はパッと玲司に満面の笑顔を見せて、近寄ろうとしてくる。
その媚びるような仕草は、桔梗が幼い頃から幾度も目にしてきたアルファに群がるオメガのソレに似ていた。
「そんな玲司さんがお邪魔だなんてっ。私、寒川総合病院で栄養士で勤務しているので、お手伝いしますね!」
飛びつかんばかりの勢いで申し出る真紀に、玲司は冷ややかな空気を全身にまとい、鞭のようなしなやかさで言葉を撥ね付ける。
「結構です。お断りします。僕の番の悪口を言う方の補助なんて不必要ですし、何を仕込まれるか分からない人と一緒に居るのも不快です。あぁ、香織さん。後は僕達でやりますので、パーティの補助に行ってもらってもいいですか?」
「え、ええ。分かりました」
織田母は真紀を「早く来なさいっ」と腕を引っ張ってキッチンを出て行った。真紀の方は何度も母親の手を振り払いながらも「なんで私達が出て行かなきゃいけないのよっ」と非難の声を上げていたのだが、そこは長年寒川の家政を担ってきた力技でもって娘を部屋から押し出したのである。
どうして、ああも香織が玲司に対して、怯えるような形相をしていたのか謎だったが、やっと静寂が訪れた事に、桔梗は自然と吐息が零れていた。
「……すみません」
「え? 何がですか」
「嫌な思いをしましたよね。こんな事だったら、事前に桔梗君に話しておけば良かったと猛省しています」
いきなり消沈した玲司に、桔梗は戸惑う。
真紀がああも桔梗を毛嫌いする理由でもあるのだろうか。
「その話はひとまず置いといて、先に昼食の準備をしませんか? 実は俺、結構お腹空いちゃってて」
先程は緊張のあまり、凛が出してくれた豆大福も二口くらいで満足してしまったのだ。その反動が玲司と二人きりになった今、空腹を訴える程に胃が催促しそうだった。
「……ふふっ、そうですね。桔梗君のお腹が暴れる前に支度を始めましょうか」
「そこまで笑わなくてもいいじゃないですか」
キョトンとした後に盛大に吹き出した玲司に対し、桔梗は頬をぷっくりと膨らませて不貞腐れて見せた。多分、玲司は自覚していないだろう。彼が真紀と対峙していた間、固く握り締めた拳が微かに震え続けていたのを。
彼と彼女の間に何があったのか桔梗は知らない。ただ、番が現にこうしてあのベータの女性に対し嫌悪感を抱いて、明らかに感情を顕にしていた。
接客業をしている玲司にしてはありえない態度で、きっと二人の間には何かがあったのだと悟るものの、桔梗はまだ固く結ばれた玲司の拳を掌で包み込んだ。
出会った時、雨で冷え切った桔梗の体を玲司の体温が温めてくれたように。
桔梗も冷たい彼の手に温もりを分け与えるようにキュッと番の手を抱き締めた。
「俺、猪肉食べるの初めてなんです。お腹が期待しちゃうのって、玲司さんのご飯が美味しいからなんですからね」
玲司と出会ってからというもの、元々食の細かった桔梗は、突然会社をクビになったり、玲司と意識がない間の番契約をしたりと短い期間に色々あったショックでほぼ絶食状態となってしまったのだ。
玲司は責任を感じてか、胃に優しいお粥やくたくたに煮たうどん、良い塩梅のポタージュ等、消化がよく、少しでも桔梗のお腹が満たされるように試行錯誤をしてくれた。
おかげでクリスマス辺りからまだ多くは食べれないものの普通食になり、鶏ひき肉に豆腐の入ったロールキャベツはクリーム煮にされてたものや、温野菜をお出汁で煮浸しにした温かいサラダ、キノコのリゾットとクリスマスイブの夕食は、息つく暇もない程忙しかったにも拘らず、どれもが手が込んでいて、愛されている幸せを実感できたのだった。
クリスマスはクリスマスで、桔梗をドライブに連れて行ってくれて、宝石箱を散らばしたようなキラキラとした夜景を見せてくれた。
『もっと我侭に……とは言いませんが、胸に溜め込むのはやめませんか?』
抱き締めた玲司が懇願するように囁いた言葉に、桔梗はこれまで自分が我慢して本音をセーブしていた事に気づいたのだ。
「だから、早く準備しましょう? あんまり遅いと、総一朗さんが暴れちゃうかも」
「そうですね。あの人は長兄なのに一番子供ぽい人ですから」
彼には無条件に甘えていいのだと。多少の我侭もきちんと受け止めて、桔梗に非がある時はちゃんと窘めてくれるだろうと、あのクリスマスの夜に感じる事が出来たのである。
「じゃあ、俺調理はできないので、材料を出して洗ったりしますね。野菜もお肉も冷蔵庫ですよね?」
「あ、桔梗君」
「え? ぁ……んぅ」
玲司に背を向け冷蔵庫へ向かおうとすると、右手首に大きな手が掴んできて、ぐっと引っ張られる。疑問を口にする前に温かな唇が塞ぎ、ぬるりと熱の塊が忍び込んでくる。
「ふ……んっ、はっ、……れ、じさ」
性行為だけでなく、毎夜寝る前にキスをしているせいか、息苦しくなるものの嫌悪感などはなく、むしろ流れ込んでくる玲司の唾液が甘くて、乾いた喉を潤うすように自らも彼の舌を甘えるように吸う。
ぐっと腰を引き寄せられ口づけが深くなれば、当たり前のように舌先が桔梗の上顎を擽り、桔梗は玲司の下の裏の薄い筋を撫でる。
たかだか粘膜を重ね合わせ、唾液の交換をしているというのに、感情のこもった口接は、桔梗の官能に火を灯し、腰の辺りがズグリと疼きだす。
後孔からトロリと愛蜜が溢れ、下着を濡らして外気に冷えていく。
空腹は限界に来ているけども、このまま寝室にこもって玲司の太くて熱い楔に貫かれてしまいたい。
いつしか淫欲に支配されていた桔梗だが、玲司の長い指が噛まれて痕になっているうなじを逆立つように撫で上げると。
「んーっ、ぅあっ、あ、あぁんっ」
ビクビクと全身を大きく震わせ、まだ触れてすらいない陰茎と蜜洞からトプリと蜜液が迸り、下着では受け止めきれずに脚を細く伝っていった。
まさかこんな場所で発情しただけでなく、直截的な刺激すら受けてもおらずに達してしまうとは思わなくて、桔梗は朦朧としながらも自分の痴態に呆然としていた。
「粗相しちゃいましたね。桔梗君、このままだと気持ち悪いでしょう? 部屋に簡易的なシャワー室がありますので、着替えてきては如何ですか?」
「うぅ、玲司さんが意地悪だ」
「意地悪ではありませんよ。桔梗君が可愛くてつい夢中になってしまったんです」
唾液で濡れた唇を舌で拭う仕草さえ色気が溢れる玲司を睨み、桔梗はぷいと顔を背けた。しかし、言われた通り自分の漏らした体液が冷えてきて気持ち悪さに拍車がかかる。
「準備は僕がしますので、桔梗君はゆっくりと支度してからこちらに来てくださいね」
「分かりました。デザートはクリームブリュレがいいです」
「ふふ、了解しました。材料が足りなかったら、総一朗兄さんにお使いに行かせますね」
何だか掌で転がされた感があったが、リクエストに応えてくれようとする番が嬉しくて、一度ぎゅっと大きな体に抱きつくと、荷物のある寝室へと向かったのだった。
簡易的なシャワー室とはなんだったのだろう。
桔梗は内扉を開き、唖然と口が開いたまま立ち尽くす。
アンティークのアラベスク模様のタイルが敷き詰められ、猫脚バスタブが置かれた、玲司曰く簡易的なシャワー室は、どう見ても浴室以外なにものでもなかった。
「たまに玲司さんって、一般常識から離れた事言うよなぁ……」
呆れ半分、落胆半分の吐息を漏らし、染みになったズボンを下着と共に抜き去り、カーデガンとカットソーを脱ぎ捨てると、いざ浴室へと足を踏み出す。
移築して旧式な部分が多いと聞いていたが、足の裏に感じるタイルの感触は、想像以上に冷たくはなく、何かしらの断熱加工がしてあるのだと予想する。
桔梗は軽くシャワーで汚れを落とし、バスタブに入って凭れながら降ってくるシャワーの熱を全身で浴びる。じわじわと溜まっていく湯が冷えていた体をゆっくりと温めていく。
途中でバスキューブを見つけ、バスタブに入れると、ふんわりと甘い花の香りが浴室内に広がる。その甘やかな香りにホッと息つきながら、脳裏には真紀の態度の意味を思い出す。
きっと、彼女は玲司に今も想いを寄せているのだろう。
アルファとベータの恋愛は、ないとはいいきれない。男と女であればバース性がなんだろうが子供を作る事ができるのだ。
真紀はバースではなく、男として玲司に惹かれた。
その彼が突然、同性のオメガと結婚して、しかも挨拶に訪れた。
女性として憤慨したのかもしれない。
「……って、言っても今更離婚できないし……」
無意識に出た言葉を実行しようとは思わない。桔梗だって出会いはどうであれ、玲司を愛しているのだ。真紀を思って身を引こうなんて旧時代ではあるまいし、番契約を結んだ以上、玲司を誰かに渡すなんて気持ちはひとつもなかった。
「やっぱり、どこかで話し合って納得してもらうしかないのか……」
一瞬、母親である香織を通してとも思ったが、そんな事をすれば、更に激昂すると予測できたので、やはり直に説得するしかないのか、と溜息が漏れた。
十分に温まり、着替えた桔梗は、調理中の玲司の元へと向かう為、廊下を歩く。毛氈は歩く音を消して、外の枝が雪を落とす音がやけに大きく聞こえる。
空は鈍色に覆われ、また雪が降りそうだと、桔梗は窓から見える空を見上げていると。
「ちょっと」
慇懃無礼な声が桔梗の意識を引っ張る。
「話があるの。いいかしら」
やはりというべきか、胸を押し上げるように腕を組んで仁王立ちする真紀が、鬼の形相に顔を歪め話かけてきたのだった。
ともだちにシェアしよう!