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16:叫喚

「……あんな言い方するつもりなかったのに……」  後悔を呟くと、周囲の白よりも白い息が目の前を染める。  一人で散歩に出ると言い置き、桔梗は熱くなった頭を冷やそうと、フロントで散策できる場所はないかと尋ね外へ出た。  何度か「雪が降っておりますが……」と心配そうに窺ってくる相手に微笑み「大丈夫です。少しだけですから」と誤魔化した。玲司と一緒に記帳した時に対応してくれた従業員だったからか、まだ何か言いたげにしていたものの、ラウンジのカフェで温かい飲み物買ってすぐに戻るので、と伝えると、ようやく安心したような笑みを浮かべてくれた。  何かあるといけないので、と敷地内をイラストで表示されたパンフレットを片手に、桔梗はふわふわに積もった雪の上を、転ばないようしっかりと踏みしめる。  ブーツタイプのトレッキングシューズを履いてるおかげで、中は濡れずにいるものの、やはり指先から寒さがじんわりと沁みてくる。  とはいえ、あれだけ拒絶して出てきてすぐ帰るというのも、何だか間抜けな気がして、トボトボとできるだけ除雪した場所を歩き、時折聞こえる鳥の羽ばたく音や、小さな動物が雪を蹴る音に耳を澄ましながら、深いため息を零した。  玲司の過去が桔梗の想像以上なのは、婚姻前に本人から聞いた話や薔子の話で分かっていた──いや、分かったつもりでいた。 『あの店と自宅のある土地は、かつて僕が運命に翻弄された愚かな女の死を看取った場所なんですよ』  彼は自分が放った言葉の冷たさに反して、今にも泣きそうな顔で、その言葉を言ったのに気づいていないのだろうか。 「玲司さんは、あの場所に囚われているのかもしれない」  だからといって、『La maison』を閉店して引越ししても解決策にならないのも分かっていた。  自身が生まれ育った場所。母親が息を引き取った場所。運命が変わった場所。そして、自分と縁を結んだ場所。  玲司にとって、あの場所は転機になったのだろう。それは桔梗にとっては想像でしかないが、玲司が望まない限りは、あの場所から離れようとは思わないのかもしれない。  桔梗はパンフレットで見た景色を楽しむための四阿に設置してあるベンチに腰を下ろす。そこは雪をかぶった椿が、白い雪の中で濃い緑と鮮やかな赤い花で存在を主張していた。 「……玲司さん……」  外気に触れすっかり冷めてしまったコーヒーは、以前は美味しく感じたのに、何だかドロ水を飲んでるような気がする。  たった数ヶ月なのに、桔梗の舌はすっかり玲司の作る味以外を受け付けないようになっていた。 (そういえば、玲司さん……あの時コーヒー淹れてくれてた)  ショックで頭がいっぱいになっていて失念していたが、部屋を出る前、玲司はコーヒーを淹れていた気がする。  番が淹れてくれるコーヒーは、苦いものや辛いものが苦手な桔梗の為に、微かに苦味を残した砂糖とミルクたっぷりのカフェオレにしてくれるのだ。  食事も食の細い桔梗が少しでも沢山食べれるようにしてくれ、玲司はまだまだと言っていたが、出会ってからというもの少し体重が増えた気がする。肌も一緒に入浴してると、玲司が率先して手入れをしてくれるから、髪も肌も昔に比べたら艶が出てきているし、ハリもあり、双子の朔音(さくら)が言うには。 『全身から愛されてます、って滲み出てて、ちょっと悔しいんだけど』と、ふてくされながら言っていたから、あながち変化はしているのだろう。  それが最愛の番の愛情によるものであるのが、桔梗的には嬉しいのだ。  彼の胸の中にどれだけの闇があるか分からない。桔梗だって何も知らない真白な人間ではない。自分以上に色んな人生を歩んだ玲司なら尚更。それなのに桔梗は玲司に対して拒絶を示し、こうして外に出てきてしまった。 「……帰ろう」  部屋に帰って玲司に謝ろう。さっきはびっくりしてしまって、玲司に冷たい態度をしてしまった事。玲司を嫌ってない事。せっかくコーヒーを淹れてくれたのに、飲んであげれなかった事。  全部全部謝って、二人で色々話そう。  自分の事も玲司の事も、それから二人の未来の事も。  出会って数ヶ月。婚姻してまだひと月も経っていないのだ。  ふたりきりで色々話して、今は歪んだ関係を鮮やかに織り上げていこう。そうして、ちゃんとした意味での夫夫になりたい。 「どこに帰るののかなぁ? かわいいオメガちゃん?」  冷たくなった苦いばかりのコーヒーを一気に飲み込み、ベンチから立ち上がった桔梗の耳に聞こえてきたのは、雪を踏む複数の音に混じった不快な男の声だった。 「やべぇ、この子美人じゃん」 「もしかして役得ってヤツぅ?」 「これでお金ももらえるとかラッキーだよな」  振り返ると、ラグジュアリーホテルに宿泊してると思えないような、粗野な雰囲気の男たちが三人、ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべてこちらを見ていた。 「……何か用ですか?」  柳眉をひそめ、それでもかろうじて丁寧な言葉で尋ねれば、「何か用ですかーって」や「ビビっちゃってんのかわいー」など、明らかに桔梗を馬鹿にし、挑発しているような男たちに、これ以上反応するのは得策ではないと察し、桔梗は無言で彼らの脇を通ってホテルに戻ろうと……した。だが。 「おやぁ、どこに行くのかな、オメガちゃん」 「せっかく出会ったんだから遊ぼうよぉ」 「そうそ、俺たちアルファだから、めいっぱい楽しませてあげるよぉ」  桔梗の手首を掴み、素早い動きで後ろ手に拘束してきた男と、卑下た言葉をかけながら取り囲む男たちのせいで、すっかり身動きを封じられた桔梗は、せめてもと彼らを睨み据える。 「おー、威嚇しちゃってかわいいー」 「……っ」  揶揄してくるのは、桔梗の目の前まで顔を近づけてきた男。アルファというには、洗練されてない雰囲気を感じ取り、彼らはアルファ社会からドロップアウトしたゴロツキかもしれないと予測した。  どのバースでもそうだが、アルファにはアルファの、ベータにはベータの、オメガにはオメガのコミュニティが存在する。  昨夜桔梗が参加したアルファ上流階級の集まりで見たアルファたちと、目の前で性的な眼差しで見てくる彼らには雲泥の差があった。  そう……彼らの目つきは、桔梗が玲司と出会うきっかけとなった前の会社で桔梗にセクハラをしていた上司の目と同じだった。  彼らは桔梗を犯すつもりなのだろう。冗談ではない。 「どういうつもりなんですか。嫌がるオメガに集団で手を出すなんて。法律違反をしているんじゃないんですか」 「ふん、法律違反ねぇ」 「っ、い……たっ」  背後で桔梗を拘束する男の手が、骨が折れそうな位に強く握り締められる。アルファはオメガと比べて身長が高く、身体能力もはるかに高い。多少体重が増えたとはいえ、桔梗はオメガで、彼らの中でも比較的弱い部類に入る。そんなか細い桔梗の骨がミシリと骨が軋むほどアルファの力がこれ以上加わったら、最悪複雑骨折する可能性だってある。  法律以前に、よってたかって一人に大勢で取り囲むのは、人道に反している。桔梗は「離してください」とできるだけ冷静に言ったつもりだったが、握ってくる手は万力のように更に強く締め上げてきた。 「ま、法律に反してようが、やりようによってはこっちのが有利にできるんだよ。なんてったって俺たちはアルファ様だからな」 「そうそ、散歩してたら、淫乱オメガのフェロモンで誘惑されたんですぅ、って」 「俺たちは抵抗したのに淫乱オメガのせいでラットになっちゃったんです、って言い訳もできるしな」  こういった連中が当たり前のようにのさばってるから、オメガが現在でも底辺の存在として軽んじられるのだ、と桔梗は歯噛みしてギッと睨みつける。  法的整備は随分進み、影で息を潜めるようにして生きてきたオメガたちも、自由に外を出歩く事も増えてきた。しかし、それは外面上の話であり、裏を返せばオメガは昔と変わらず虐げられる存在として扱われていた。  レイプ、愛玩ペット、奴隷、性風俗。  オメガの社会進出が適応されて幾久しいものの、大半のオメガは今もアルファの欲を満たす人形と変わらなかった。  逃げなくては。桔梗は目の前の男に頭突きをかまし、体が前傾する勢いを借りて、背後で拘束する男の股間へと踵を蹴り上げる。ソール部分はしなやかでありながら、厚みもあり固く、軽い衝撃と共に背後の男が短く呻いて手首を戒める力がふっと緩まる。  残るもうひとりも背後の金的を蹴った足を主軸に、流れのまま繰り出した拳を脇腹へと抉るように喰い込ませた。  腹部──それも脇腹は保護する骨も筋肉もつきにくい場所だから、急所として有効だと教えてくれたのは、桔梗の最愛の番である玲司だった。  桔梗は雪の上で悶絶するアルファたちを横切り、急いで人の多いフロントへ向かおうと走り出す──が、地図代わりのパンフレットはもみ合ってる内に落としてしまい、混乱している頭で走り出したものだから、果たして場所が合ってるのかさえ分からない。  更に言えば、以前は帰巣本能で自宅間際まで行けたものの、今回は初めての場所、それも来て数時間も経っていないホテルの為、遮二無二走るだけしか頭になかったのである。  社会人になってから運動らしい運動しておらず、玲司と出会ってからは少しの距離でも車に乗せられていたせいで、思っていた以上に体力がなくなっていた。  それでも背後から聞こえる男たちの怒号から距離を取りたくて、必死で足と腕を動かし続けた。  早く、一刻も早く、玲司の元へと帰らなくては。  ただひたすらにそればかりを頭に浮かべ、ホテルの建物に向かって走り続ける。  しかし── 「くっそ! ちょこまかと逃げやがって!」  どう転んでもアルファはアルファだったようだ。途中フェイントをかけたりと追っ手を躱してたが、足元を雪に取られた隙を見計らい、リーダー格の男が桔梗の体を両腕で拘束したのである。 「離せ!」 「離すかよ、ばーか! こんだけコケにされて、美味しい思いできないとかナイだろうが! おい、また蹴り入れてくるかもしれないから、お前、コイツの足をジャケットで巻いて、しっかり押さえつけておけ!」 「はぁ、はぁ、りょーかい」  男は息を乱す仲間の一人に命令し、仲間が桔梗の足を抱え込む。ダウンジャケットでぐるぐる巻きにされた足は、可動域が取れずに意味がない。  このリーダー格の男はこういった荒事に慣れているのだろう。普通であれば、足をジャケットで巻いて動けないようにするなんて考えは浮かばない筈だ。 「おい、人目がないとはいえ、さっさと小屋に運ぶぞ!」 「お、おう」 「分かったよ」  仰向け状態で宙に浮いた体は、暴れても力が分散されてしまい、腰を振ってるようにしかならない。 「やめろ! 離せよ! 玲司さん、助けて!!」  腕も抱えられる時に、こちらもジャケットで半身を腕ごと巻かれたので、抵抗らしい抵抗もできない。叫んで、どうにかこの声が誰かに届いて、と願いながら、桔梗は悲痛な声で玲司の名を呼ぶ。 「レイジ? そういや、あの女もそんな名前を言ってたな。ははっ、そのレイジも可哀想なヤツだよ。あんな女に惚れられて、番がレイプされちゃうんだからなっ」  頭上から聞こえた「あの女に惚れられて」という言葉に、桔梗はビクリと全身を戦慄かせる。 (あの女……。まさか、彼女が)  寒川別邸で出会ったベータの女性、織田真紀。  初対面すぐに、自分と玲司は恋人だと虚言を吐き、桔梗に危害を加えようとした為に、別邸の出入りを禁じられた。  その彼女がどうしてアルファの男を…… 「あー、予想通りだと思うぜ? お前を俺たちにレイプさせ、自分はちゃっかりレイジと結ばれたいんだと。ベータの女が夢見るなよなぁ」  リーダー格の男が皮肉を言えば、他の二人がどっと笑う。  自分を排除する為だけに粗野なアルファをけしかけ、真紀は今頃玲司と会っているのかもしれない。 「ま、俺たちは俺たちで楽しもうぜ。ヒートじゃないから、孕むかどうかは分からないけどな。どっちにしても、散々ヤリ尽くしたら、どっかの金持ちのジジイに売り飛ばしてやるからよ」 「……い……やだ。れい……じ、さ……助けて……玲司さん!!」  寒さと、これから起こるだろう嫌な光景に、桔梗は身をよじって大声をあげる。  だが、喉から絞り出された悲痛な声は、男たちの笑い声と、吹雪きだした風によってかき消された──

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