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15:襲来

 二間だけのセミスイートを取ったのは、最愛の番である桔梗が臆するかと思ったからだ。  中流アルファの香月家の次男にしては、経済観念がしっかりしているのも、高校時代から一人暮らしで生活してきたからだろう。  最初は、このセミスイートですら萎縮するのでは、と不安になっていたが、この部屋に来るまでの間に交わした会話のせいで、桔梗にはそういった概念が飛んでいってたのかもしれない。 「……」  リビングの心地よいソファで玲司は一人消沈していた。  目の前のローテーブルには、すっかり冷めてしまったコーヒーのカップがふたつ。多少自炊ができるよう、小さいながらもキッチンが備え付けられ、ホテルブレンドの豆を挽いて淹れたものの、どちらも減ることなく静かな湖面をたたえていた。  とうの桔梗は、部屋にトランクを置いてすぐに「少しホテルの中を散歩してきます」と言い残し、珈琲を淹れていた行動をやめてまで、一緒についていこうとする玲司を無言で拒否したまま、部屋を後にした。  不意に、過去の幼い自分が置いて行かれるような焦燥感をおぼえ、咄嗟に彼を追いかけて部屋の中に閉じ込めたかった。  だけど、出会ってまだ数ヶ月。お互い手探り状態で関係を構築している最中、勝手な行動に出た時点で、築きつつある関係が一瞬にして崩壊するのは目に見えている。それほどまでに桔梗の表情は傷ついたものをしていたから。  番になったアルファとオメガは、互いの匂いを感知する能力が跳ね上がる。いざという時には、彼の匂いを追いかけようと心に決めた。 (まさか自分の発言で、あんなに桔梗君がショックを受けるとは思わなかった)  お互い笑い合って楽しもうと思っていたプレ新婚旅行は、玲司の一言によって瓦解していった。こんな状況で松の内である年明けの七日まで、滞在できるか分からなくなりつつある。  それに、あの言葉の真意を話してもいいのだろうかと思い悩む。  老朽化により、あのアパートを壊して土地を手放すと話を耳にしたのは、玲司が『La maison』を開店する場所を探している最中の出来事だった。  義母の薔子に保護されてからというもの、一度としてあの土地に近寄らなかった玲司が、たまたま近くの大学の医学部へ立ち寄る用事があったからだ。  ある意味、運命だと、玲司は思った。  玲司は元大家に二束三文の金額を──それでも都心の土地価格と比べてだが──提示し、快諾させた後、渋る薔子を尻目に業者を使い、アパートの立ち退きをさせた。といっても、アパートの所有権は元大家であり、店子を自分都合で退去させる際は、大家が費用を負担せねばならないのを知らなかったらしい。かなり喧々囂々と罵られたが、こちらは土地を購入しただけで、権利を買い取ったわけではなく、法的に争っても玲司が勝つと弁護士に告げられた元大家は、微々たる金額となった金を持って、当初よりもランクの下がった老人施設へと入居していった。  そもそも、商店街を挟んでのこちら側は、新興住宅地として開発が進んでいた。元アパートもそれに該当し、再三、元大家と交渉を重ねてきたが塩を撒かれたと、不動産会社が苦笑して語っていた。正直、そんなものはどうでも良かった。  玲司にあったのは、善意ではなく、悪意しかなかったから。  実母と生まれたばかりの玲司に、屋根のある場所を提供してくれたのはありがたかったが。しかし、それ以外は腫れものを触るように距離を置き、二階の一番端、しかも他に住居人がいないせいで、安普請の空間は常にすきま風が入り、発情期の匂いどころか母の腐臭さえも隠し、玲司の餓鬼のような状態も隠していた。  もっと密接とは言わずとも、多少の関わりさえあれば、母は屍蝋になるまで放置されなかっただろうし、玲司も骨と皮にならずに済んだかもしれない。  以前から、あのアパートにはベータとオメガはいても、アルファが住むような場所でないのに、元気だった母に改装を強制していた。母も番から逃げている負い目があったのか、多少のお金をかけて内装に手を入れたらしい。  のちに、あの元大家の手元には、改装の時期に多額のお金が入金されていたと報告があった。つまりは、小遣い稼ぎで身なりの良い実母を唆し、改装を実行させたのであろう。  もし、桔梗がこの事実を知ったらどう思うのだろう。今以上に傷つくのか、玲司を嫌悪して離れるのだろうか。  これまで執着すらしなかった玲司が求め、欲した存在。甘くも控えめな彼の性格を著したようなフェロモンを持ち、玲司が愛人の子だと知っても包み込むように微笑んでくれた。  親友の夫と運命だからと番って、子供を作った壊れた母に生殺しにされた玲司も。  オメガと判断された途端、裕福な家を出されて殆どひとりで生きてきた桔梗も。  どちらも身内の大人に振り回されて、今を生きている。  だからこそ、まだ傷ついたままの彼に、玲司は自分の過去をどこまで話したらいいのか、頭を抱える羽目になったのだ。  出会った当時は、なし崩しで桔梗の|発情《ヒート》に引きずられ、|発情《ラット》状態の玲司は無垢な体にこれでもかと無体をしいた。  一度噛んだうなじは、死ぬか、脳死になるか半身不随になるかでないと解除できない。  昔から寒川の子として生きていく以上は、そのあたりの選別をしっかりしなくてはならない、と散々薔子に諭されてきたというのに、あの時の玲司には理性などなく、かろうじて避妊をしていたのは、奇跡に近い行為だった。  あの時点で玲司の事情を話しておけば良かったのかもしれないが、当時の桔梗は突然知らない間に番契約が済んでいて、なし崩しで同居したものの、会社をクビになったショックと発情によって周囲に迷惑をかけてしまった事による居た堪れなさで、萎縮しきっていた。こんな歩み寄れていない状態で玲司の話をしてしまってもいいのかと思い悩み、結局簡単に事情は説明したものの、寒川の父と実母が運命だった事や、玲司が餓死寸前で薔子に保護された事は、どうしても言い出せないまま、クリスマスの慌ただしさからの別邸訪問となったのだ。  更に運の悪い事に、薔子が玲司が『La maison』の他に会社を持っている事を話したらしい。 「だから、どうして周囲が先に暴露するんだ。……全く」  思わず粗野な言葉が出かけるものの、ぐっと飲み込む。  アルファらしいアルファと称される玲司は、人に威圧を与えないよう、口調をあたり良くし、一人称も『僕』と意識して使うようにしていたのだ。  ただ最近では、桔梗と一緒に過ごしていく内に、自然と一人称も口調も定着していったけども。 「とりあえず、桔梗君が戻ってきたら、これまで隠していた事も全部話さなくては。あと、|例の事《・・・》も」  桔梗を絶対離したくない。  これ以上の存在に出会う事はないだろう。  例え、桔梗が心底玲司を嫌い、傍から離れたとしたら、逃げないように足の腱を切り、誰も見ないように目を潰し、玲司の他に愛を囁かないよう喉を潰し、玲司と桔梗の匂いが混じった寝室に甘やかな巣を作り閉じ込めてしまおう。  発情したら店を閉めて四六時中、桔梗のナカに子種を注いで子供を休みなく作ろう。そうしたら、桔梗は子供を捨てて逃げるなんてしないだろう。彼自身が捨てられた存在なのだ。いくら玲司が嫌いになっても、子供を置いて逃げる真似はできない筈だ。  玲司は歪んだ愛情を桔梗に求めながらも、反対の感情をも持っていた。  いつまでも穏やかに笑っていて欲しい。あの家がふたりにとっての楽園だと感じてもらいたい。そしていつか、置いて行かれた子供と捨てられた子供の間に生まれた子を沢山愛情を持って育てていきたい。  まるで夢物語のような未来を切望していた。 「……やっぱり迎えに行こう。それで桔梗君とちゃんと向き合って話し合わなければ……!」  残りの年末と新しい年をお互い笑い合って過ごせたら、と決意を心に刻んでいると、部屋の扉が数回ノックする音が聞こえ、ソファから立ち上がる。 「桔梗君!」 「玲司さんっ! 私を迎えてくれて嬉しいわっ」  薄く開いた扉を割って入ってきた何かが玲司にぶつかる。栗色の髪がふわりと揺れ、そこからは吐き気がする程の甘い人工的な匂いに、番とは違い不愉快な肉の塊が、やけに媚びた声で自分の名前を当たり前のように呼ぶ。  そこに居たのは、昨夜玲司を激昂させ、寒川別邸を追い出された筈の、織田真紀だった。 「……なぜ君がここに? というか、僕たちに近づくなと忠告した筈ですが?」 「君が、だなんて……。私たち、あんなに愛し合ってたじゃないですか。『真紀が一番可愛い』って何度も言ってくれましたよね?」 「……はぁ?」  話にならない。  彼女の中で自分の位置がどのように置かれているか理解できたが、それは事実ではなく、彼女の言う『可愛い』も、なにかの折に幼い彼女に言ったかもしれないが玲司には記憶に残っていない程度のものだ。 「私、玲司さんのお嫁さんになるために、勉強も家事も料理も沢山頑張ってきました。あんなオメガの男に篭絡された玲司さんを、必ず助けてみせますから!」  勘違いも甚だしい、と不機嫌に眉をしかめるものの、真紀が次に放った言葉に、獣の本性が一気に爆発したのだった。 「それに、あの汚いオメガの男は、今頃いろんな男に股を開いてる頃かも。だって、オメガの意味なんてただのダッチワイフなんですもの」 「っ!?」  自分の番をあからさまに馬鹿にする声に、薔子に決して出すなと言われていた本性が鎌首をもたげる。  別邸で発現したものとは比較にならない威嚇のフェロモンが全身から溢れ出す。 (……コイツは今、なんと言った? いろんな男に股を開く? 誰が? 桔梗君が? それはつまり……)  昨日は玲司の威嚇に恐れおののいていた真紀だったが、自分の世界にのめり込んだベータには効果が薄いのか、抱きつく力が弱まるどころか、玲司の胸にしなだれかかる図々しさを見せている。 「ねぇ、玲司さん。向こうも楽しんでるわ。私たちも……ね?」  整った指先をすっと滑らせながら、媚びた声で玲司を誘う女。  こいつを生かしておけば、何度でも番を排除しようと動くに決まってる。 (殺さないと……桔梗君が……|俺《・》の番が……壊されてしまう)  がんじがらめに戒められた禁断の箱の内側から、殺せ、と玲司に囁く。 (そうだ、この女を殺さないと。俺の持ってる力であれば、それは簡単に……)  怒りに我を忘れた玲司は、その瞳に紅蓮の色を滲ませ、真紀を引き剥がす。  うっとりと玲司を見上げ「玲司さん……」と呟く女に、瞳を合わせようとしたその時。 「玲司!」  ドンと肩を押され、弾かれた体が壁に弾む。一瞬にして黒く染まっていた思考が現実に戻され、呆然と周囲を見渡すと、尻餅をついた女と、何故か義兄と義弟の二人が呼吸を激しく乱れさせそこに居たのだった。 「ば……っか! 何度もソレを使うな、って言われただろうが!」 「そういちろ……にいさ、どうして……」 「今はそんな事はどうでもいい! この馬鹿女が言ってるのは本当だ! すぐに救出に行かないと、番が壊れてしまうぞ!!」  鞭のようなしなやかな総一朗の一喝で、玲司はビクリと全身を震わせる。 「そうだ……たすけないと……」  ゆらりと立ち上がると、一目散に駆け出す。そんな三兄弟の真ん中の背中を見送った二人は、 「あれ、場所分かってないよね」 「大丈夫じゃね? 番ったふたりは、互いの匂いに強く反応するらしいから。……それよりも、こっちをどうしようかね」  チラリと、いまだにみっともなく座り込んでいるベータの女を睥睨する。 「な……なにを……」 「流石に、実験台はダメって君のおかあさんに言われちゃったから、君はこのままうちの特別病棟に入院してもらうね」  彼女は凛が淡々と言った言葉の意味を理解したのか、音が聞こえそうな程一気に顔を白くさせる。 「あ、やっぱり管理栄養士してたから、あそこの事知ってたか。ま、香織さんから入院に関する書類はもらったし、このまま病院に行こうか」 「……ひっ」 「あーあ、うちの病院だって暇じゃないんだけどね。ちなみに、君が特別病棟に入院するのはもう知れ渡ってるから。さんざん虐めてきたオメガの同僚になにを入れられても、甘んじて受け入れるしかないね」 「ぃ……や」  真紀は首を振って「いや、いや」と子供のように駄々を捏ねる。だが、彼女は抜いてはいけない宝刀を抜いて……いや、実際には抜きかけたのだから。  でなければ、彼女だけでなく、この場にいた総一朗も凛もただではいられなかった筈だ。 「さて、義弟の様子も気になるけども、こっちを処理しないと寝覚め悪いからなぁ」 「兄さん、このまま向こうに帰る? それなら、僕も送ってもらいたいな、なんて」 「母さんはなんて?」 「近々、新婚夫夫の邪魔しに来るから、もうちょっと別邸にいるわ、だってさ。あ、後はよろしく、とも言ってた」  珍しくお願いをしてくる実弟に「OK」と快諾した総一朗は、裏から入ってきた寒川の関係者に真紀を託し、ふたり並んで正規のルートであるエントランスへと歩き出した。

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