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22:晦日
所々和モダンを取り入れたスイートルームのリビングに、くつくつと煮える音と共に、出汁の良い香りが部屋を包む。
「そろそろ野菜も煮えそうですよ、玲司さん」
「こちらも切り終えた所なので、そろそろ食べましょうか」
「はい」
玲司が大皿を両手に持って現れ、桔梗は皿に花のように並べられたソレを見て。
「本当に鶏肉と似てるんですね、雉肉って」
「まあ、同じ鳥肉ですから」
二人して鍋を挟んで座り、玲司が器用に皿の薄く切った雉肉を鍋に投入し、桔梗の言葉に笑みを漏らす。
ふわふわと湯気の向こうに見える玲司の姿に、うっすらと記憶に残る孤高の獣の瞳をした玲司の姿が蘇った。
あの時は普段とは違い、言葉遣いも荒く、まるで別人のようだった。
強く感じた玲司のフェロモンも怖い筈なのに、とても心地よく、冷えた体を包み込んでくれた。だから本当の意味で安心して、意識を手放す事が出来たのだ。
玲司が来たのなら、もう自分は大丈夫なのだと。
「でも、市販の鶏肉に比べたら、味も濃厚ですよ。少し濃い目のお出汁にしてるので、残った鍋つゆでお蕎麦を入れて食べましょうね」
「雉の出汁でお蕎麦なんて贅沢です」
「鍋のシメですけどね」
二人の間で赤味から白味へと変わっていく雉肉は、昨日再訪問した寒川家で、家政婦の織田香織から「今月の頭に捕れたのを熟成したものを戴いたので」と持たされたものだった。
きっと、薔子から渡すように言われたのだろう、と気づいたものの、桔梗も玲司も有り難く受け取ることにしたのだ。
今回の事件は真紀の単独による暴走だと、玲司からも凛からも聞いていた。
だから香織には非はないし、責めるつもりもなかった。
香織にしてみれば、激しく糾弾された方が気持ち的には楽だったかもしれないが……
桔梗は咎める代わりに、今後も仲良くして欲しいと告げると、香織は涙を浮かべながらも頷いてくれたのだった。
薔子も桔梗のその様子に、これ以上は何か言うつもりもないようで、寒川別邸に居た総一朗と凛と合わせて五人で、香織手製の美味しい昼食を戴きホテルへと帰ってきたのである。
その日の夜は、玲司の先輩がチーフシェフを勤めてるというレストランでご相伴にあずかった。
フランス料理をベースとし、和洋折衷なコースをいただき、更には自家製のカラントワインが甘くて何杯も飲んだ桔梗は、翌朝玲司から今後は人前で飲酒するのを禁止と言われてしまった。
一体自分はなにをしたのか疑問だったが、玲司に尋ねても答えてくれる事はなかったのである。
普通ならば大晦日と呼ばれる今日は、自宅だったなら大掃除で慌ただしい時間を過ごしてただろう桔梗も、ホテル滞在のおかげでのんびりとゆったりとした時間を送っていた。
朝食に玲司が先輩シェフからもらった赤スグリのジャムを使って、パンケーキに乗せてくれた。酸味のあるジャムと、ふわふわな生クリームが、焼きたてで甘い匂いのするパンケーキと合わさると、朝からとても幸せな気分にさせられた。
玲司の方には瑞々しい野菜を使ったサラダとホテルと提携を結んでいる牧場製のソーセージがパンケーキに添えられていて、そちらも美味しそうだった。
それにしても、ホテルに泊まっているのに玲司が食事を作るのはどうなんだろう、と桔梗は疑問に思い、ふと口にしてしまったのだが。
「多少の外食は目を瞑りますけど、基本的には僕の作ったご飯を食べてもらいたいんですよね。ほら、食事って体の細胞にも関係するでしょ。桔梗君と出会って三ヶ月以上。細胞のターンオーバーの三ヶ月を基本とすると、桔梗君の体は僕の作ったご飯で形成されてるのが嬉しいんです」
と、それはもうとても素敵な笑顔で言うものだから、桔梗は内心ドン引きしながらも、アルファの執着って言うなら軽いものかもしれない、と受け入れる事にしたのである。
実際は、玲司の執着はそれだけではない事を、近い未来に身を持って知る羽目になる。
初めて口にする雉肉はとても柔らかく、獣臭さを全く感じさせなかった。
「この間食べた猪肉もだけど、薔子さんのお家に届くジビエってどれも丁寧に処理されてるんですね」
「んー、このあたりが狩猟区というのもあるんですけど、彼らが持ってくる理由って薔子さんに良い所をアピールする部分が多いというか……」
「え? でもご主人が亡くなったからって言っても、人妻ですよね?」
「それだけ魅力的だって事らしいですけどね」
僕はあの人は怖くてとてもじゃありませんが、と渋い顔でねぎを咀嚼している玲司に、桔梗はくすりと笑いを漏らす。
「なんですか?」
「玲司さん、薔子さんの事を『あの人』って言いますけど、表情がとても柔らかくて、信頼しているのが滲み出てますよ?」
「っ!」
ふふ、と微笑う番の言葉に、玲司は瞠目したまま全身を固めてしまう。
薔子だけでなく、親は違うけども血が半分繋がってる義兄の総一朗も義弟の凛も、玲司は内心どこか一線を引いたままの付き合いをしてきた。
死にかけの玲司を助け、寒川の子供として受け入れてくれた薔子には感謝しているし、恩を返さなくてはとも思っている。
だけども、薔子は玲司の他人のような気持ちを拒絶するだろうとも。
『あのね、玲司兄さんのお母さんの本当の運命の番ってね、僕らの薔子さんだったんだよ』
あれは、玲司が中学に入る直前で、凛が小学に入る頃だった。
まろい頬で、あどけない子供の口から出てきたのは、玲司を驚愕させるに十分な効果のある言葉だった。
周囲が驚くスピードで勉学もマナーも習得していった玲司は、周りからは天才と言われながらも、玲司の母と寒川当主の不倫で出来た子供のせいかどこか蔑まされる視線の中で育ってきた。
そんな中で、ある日薔子が「あなたたちの弟よ」と小さな赤子を玲司と総一朗に見せてきた。それが凛だった。
玲司のソレよりもずば抜けた才能を持つ凛は、飛び級ができるからと秋槻学園に入学し、形として小学校に入学したものの、その時既に大学の博士課程を習得したばかりで、彼の頭脳は寒川一族が運営する病院内にある研究施設で発揮されていた。
『あの子、頭脳と引き換えに、オメガとしての体質を持ちながらも番を得ることができなくなってしまったの……』
玲司と総一朗の前で、いつもは強くい薔子が見せた涙。その際、凛が特殊な生まれだと知ったが、玲司にとってはどうでも良かったと胸の中では思っていた。
凛が誰との子供であろうが、どんな風に生まれようが、結局は寒川の実子として周囲が認めているのだ。愛人の子供として認識されている玲司と違って。
それに当時は使う知恵もなく形見として薔子から渡された亡き母の通帳もある。そこには潤沢すぎる程の数字が並び、将来の道が決まったら、このお金を使って自由を得ようと思っていたのだ。結局は母の形見は本当に必要な時に使うようにと、玲司の留学費用も薔子が出してくれたのだが……
「玲司さん?」
「……え」
「お肉固くなりますよって言ったんですけど。聞こえませんでしたか?」
桔梗に言われた言葉に過去へと記憶が逆流していた玲司は、不安げにしている桔梗へと笑みをこぼし。
「すみません。このあとの段取りを考えてて、ぼんやりしてました」
番がこれ以上不安にならないようにと、小さな嘘を告げたのだった。
普段は少食な桔梗も頑張って鍋の中身を減らし、その後ホテルの中を二人でゆったりと散歩をして、途中偶然出会った玲司の先輩シェフから、デザートにと温州みかんをまるごと蜜に漬けたのを使用したゼリーを持たされ、蕎麦を食べた後に食べようと話ながら部屋へと戻った。
本当は、外の椿が見頃とホテルの従業員から聞かされていたが、数日前の桔梗の事件もあり、やんわりと断った。これ以上、桔梗の心に誰かのせいで傷つくのが嫌だったからだ。
(桔梗君の心も体も僕以外の人間の記憶すら残るのは吐き気がする)
二人でキッチンに並んで、おぼつかない手でねぎを小口切りしている桔梗を見守りながら、玲司は蕎麦を茹でつつ不穏な思考に囚われる。
自分の内に普通のアルファよりも獣心が強くあるのを理解していたし、薔子にも「あなたのその力は、とても危険だから多用しては駄目」と事ある度に言われ続けてもいた。
これまでは一人で生きてくつもりだった為、危惧する事もなかったソレだったが、下手をすると桔梗を怪我させるだけでは済まなくなるだろう。
だけど、桔梗と結婚したあたりから、獣の気配を強く感じることが増えつつあった。
桔梗を守りたい本心と。
桔梗を犯したい感情と。
自分の内で戦い続ける二頭の獣がせめぎあい続けている。
(できる事なら、桔梗君をずっと閉じ込めて、誰の目にも触れさせなければ、本当に安心できるのだろうか……?)
それでも桔梗は自分を愛し続けてくれるだろうか。
運 命 の 番 で は な い か も し れ な い 僕 の 事 を ……
「あ、あけましておめでとうございます、玲司さん。これからもよろしくお願いしますね」
「……はい、これからもずっと傍に居てくださいね」
「蕎麦だけに?」
「蕎麦だけに、です」
遠くから微かに聞こえてくる除夜の鐘の音を聞きながら、来年も、再来年も、もっと先も、二人で生きていける事を、玲司は願い続けていた。
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