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八、天気雨 六
彼が来る――?
ぽっかり空いた心がざわめく。
会うのは一週間ぶりぐらいだろうか。
最後に見た彼は、雛菊さんと半裸で抱きついていたような、恋人が寄り添う様子だった。
会ってどんな顔をすれば正解なのか、今の俺には分からない。
また彼の気持ちを読み間違って、傷つけてしまうかもしれない。
時計を見れば、一時を回る頃。
午後からの仕事はそんなに多くはない。
「あの……俺、ちょっとだけ抜けます!」
「良いんですか? この家に居ないと分かると、喜一君が怒ると思いますよ」
「でも、彼が俺に怒るのはやはり少しおかしいと思うし、何をされるか分からないし、今さら何をしに会いに来るのか分からないし」
「おーおー。ぐたぐた悩むぐらいなら逃げてしまえ、逃げてしまえ」
岸辺さんに煽られた俺は、松葉杖を持って立ち上がる。
「っ留守を頼みます!」
俺は生まれて初めて、自分から華樹院さんに連絡を取った。
華樹院さんは急なアポにも関わらず、時間を作って下さるらしい。
俺はあの人の、私生活をずかずか質問してくるところや、俺の能力を変に高く評価して下さり、色んな審査員や個展の参加を促されたり、はたまたお見合いを頼まれるのが苦手だった。
静かに暮らしたい俺には、毎年審査員を頼まれだすこの時期は、頭が痛くなる思いだった。
「氷雨さん、すいませんね。遅れて」
多忙にもかかわらず、華樹院さんが急いで俺を門まで出迎えてくださった。
彼女は要はおせっかいだけれどお気に入り認定されたら、とても待遇もよく仕事がしやすいこと。
三十路手前の俺を本当に心配しておせっかいしてくれていることは読みとれた。
「いえ。突然すいません。あまりに高級な食材ばかり届いたので電話で御礼だけは失礼かと」
俺が来たのは、華樹院本家にある離れの学生向け書道教室。
といっても二階建てで俺の家の何倍もある大きなマンモス教室だ。
そこで理事長をしている華樹院さんが俺を来客室へ通して下さった。
「貴方があの家から出れたなら、食材を送って正解だったわね」
「はい。ありがとうございます。それで、その……」
頂いたお茶に自分の不安げな顔が揺れている。
それでも、意を決して尋ねた。
「兄と、吉保さんについて知りたいのですが」
「ええ、そうでしょうね。そろそろ尋ねるかと思っていました」
華樹院さんは湯飲みを覗き込みながら静かだ。
「一度、吉保さんには病院へ行く途中に話しかけられたのですが、よく意味が分からなかったんです。そんな人なのでしょう?」
「どんな人ってねえ。貴方、同じ中学でしょう。何故覚えていないかのほうが疑問だわ」
「はは。俺はどうやら自分に都合の悪いことは忘れてしまうみたいで」
「……繊細ねえ。危なっかしいわ」
華樹院さんは帯に刺してあった扇を取り出すと、パタパタと顔を煽りだす。
「私が昔、ある大きな賞の大賞に貴方の字を選んだことがあるの。貴方が小学校四年生ぐらいね」
「え、えええ!?」
「繊細な字で、もう少しダイナミックさが欲しかったけど、小学生にしては表現力があるわねって。審査員満場一致。しかも表彰式に現れたのは、美少女と間違えそうな美少年。ああ、あの表彰式が一番心を揺さぶられたわ」
しみじみとお話されて、しかも嬉しそうだ。
そんな昔から、か。下手すればおばあちゃんって呼べる年齢だし、俺の小さな頃を知っているのは仕方ない。
けど昔の話は、恥ずかしい。
「その時、表彰された貴方の作品を、お兄さんと吉保さんが表彰式会場のホームに飾っていたそこで、喧嘩を始めて破いたらしいの」
「えっと記憶にないです」
でもそういえば、表彰された字や賞状は俺はどこにある分からない。
半分以上は紛失していると思っていた。
「あまりにショックだったから忘れたんじゃないかって、橋本さんも言ってらしたわ。でも喧嘩は、貴方の作品を馬鹿にされたから三倍返しってことでお兄さんから喧嘩したのかしら。貴方がけろっとしてたから忘れちゃったわ」
「そうなんですね。その、俺、結構現実から逃げているみたいで。俺のことは良いのですが、吉保さんは……」
「ここら辺でも手に付けられない不良グループで馬鹿やってたわね。今は丸くなったけれど」
華樹院さんは大げさにため息を吐いた。
「その不良グループから足を洗うのに色々と大変だったみたいで、姪との結婚は不安だったのよねえ。いくら惷月堂の八代目とはいえ、…ねえ」
……不良グループ。
兄は目立っていたけれど、そんなグループに入っていたのかな。
自分は書道教室を手伝うのに忙しくて、兄の記憶があやふやだ。でも本当に忙しいからあやふやだったのだろうか。
考え込んでいる俺に対して、今度は華樹院さんが尋ねてきた。
「この前、お見合いを邪魔した子って桐生議員のお孫さんなんですって? どんな子?」
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