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第1話 事件(1)
大学入学のため上京してきて、3ヶ月ほど経過した7月の頭。ほぼ家と大学の往復しかしてしない毎日だが、一人暮らしに必要な一通りの家事をこなし、大学で講義を受け、たまにサークルに顔を出す、そういった日常生活を戸惑わずに送れるレベルにはなった。親しい友人も何人かできた。そろそろ新たな一歩を踏み出しても良い頃だ。
大学1年の都倉和樹 はそう思い立ち、人生初のアルバイトをすることにした。実家からの仕送りでなんとか暮らしてはいけるが、「なんとか」のレベルだ。もう少し経済的余裕が欲しい。
友達やサークルのメンバーと食事をする。服や雑貨を買う。趣味のCDや本を買う。それに何より、地元に残してきた恋人に会うため。それらの費用を確保したかった。帰省するにも交通費はかかるし、向こうが来てくれるなら、デート費用ぐらい持ってやりたい。
恋人の名前は田崎涼矢 。高校の同級生だ。地元の大学に通っている。高校1年の時からの友人ではあったが、つきあいだしたのは高校を卒業する間際で、すぐに遠距離恋愛になってしまったから、短い蜜月期間だった。
自分が同性とつきあうことになるとは、4ヶ月前まで考えたこともなかった。女性とは何人かとつきあってきたし、相応の経験もある。もうすぐ卒業というタイミングで涼矢から告白された時には動揺し、困惑した。同じ水泳部で、クラスも同じ涼矢のことは、友人の1人として好ましくは思っていたけれど、別の意味の好意を抱いたことはなかった。それでも結果的に自分からつきあいたいと言いだしたのは、涼矢の真摯さと、一見淡泊に見える外面とは裏腹の、深い愛情に心を動かされたからだ。つきあいだしてからは、急速に涼矢に惹かれていった。溺れるといっていいほどに、心身ともに。
飽きるほど抱き合う前に、離れ離れになった。それだけに涼矢に執着した。もとより入学時点から長い片想いに耐えてきた涼矢の執着心は、和樹よりもよほど強いものであったはずなのに、その涼矢のほうが、和樹がちゃんと大学に行って、新しい環境になじめているのかを心配するぐらい、和樹は連日涼矢に電話をし、スマホでメッセージを送りつけた。涼矢も答えるには答えたが、いつまでも切り上げようとしない和樹に、「もういいから、ちゃんと飯食って、ちゃんと寝て、ちゃんと大学行け。」と諭して強制終了する、というのが常となった。
バイトを決心したところから話は少しさかのぼり、そんな遠距離恋愛がスタートしてから2ヶ月ほど経った6月のある夜のことだった。2人の同級生の堀田 エミリから和樹に、突然電話がかかってきた。エミリも和樹や涼矢と同じ高校の、同じ水泳部の仲間だった。エミリもまた、涼矢に恋心を抱いていたこともあったが、和樹との仲を知り、身を引いた。そんな間柄だったから、和樹と同じく東京の大学に進学したことはお互い知っていたし、連絡先も教えあってはいたけれど、実際に連絡を取り合うことはこの時までなかった。
「和樹? エミリだけど。」2か月ぶりに聞くエミリの声は暗く沈んでいた。記憶の中のエミリは、いつも明るく元気だったから、一瞬本人かどうかを疑った。「突然ごめん。今、大丈夫?」なんだか、誰かに聞かれているのを恐れて声をひそめているようだ。
「大丈夫だけど、どうしたの。」和樹は家でテレビを見ながら、コンビニ弁当の夕食を食べているところだった。
「あの、今ね、自分ちの近くまで帰ってきたところなんだけど、ちょっと事情があって、部屋に戻れないの。今から和樹のとこ、行っていい?」
エミリはこの手の冗談を言うタイプではない。涼矢の件で和樹との仲は微妙になってしまってはいたが、高校3年間同じ部活で切磋琢磨した仲間であり、中でもエミリは女子のリーダーかつエースとして活躍してきて、充分に信用に足る友人ではあり続けていた。意味もなくこんな頼みごとをするとは思えなかった。よほどの「何か」がエミリの身の上に起きたに違いない。
「いいよ。うちの駅までは来られる? それともそっちまで迎えに行くか?」和樹は迷うことなくそう答えた。
「ありがと。大丈夫、行けるよ。事情はその時話すから。ごめんね。」
「駅の改札で待ってるから。そこからなら、30分ぐらいだよな。」
「うん。ありがとう。」
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